第61話・生命

今、きみはこの物語を読み終え、ソファから立ち上がったところだ。

歩いて窓辺にいく。

窓を開け放って、丸まった背を伸ばした。

春風がそよ吹いている。

空に向かって、大あくびをした。

きみの目から、涙がひと粒、こぼれた。

その「塩まじりの水滴」は、菜の花畑を渡るかぐわしい風にのって、大空に散る。

水滴に含まれていたヨウシくんとデンシちゃんの水素原子は、風になった。

酸素原子くんと、もうひとりの水素原子くんと結合し、ふたりは今、「水」分子の姿をしているんだ。

長い間、そう、46億年ほどもの間、ヨウシくんとデンシちゃんは、こうしていろんな形になっては、この天体の閉じた環境の中で循環をつづけている。

ヨウシくんは、なんだかとてもしあわせな気分だ。

そりゃ、いちから(本当に「1から」だった)新しい元素を組み立て、生み出すという作業も、得がたい充実感はあった。

あの頃のふたりは、命をかけて、全身全霊でもって働きたおしたっけ。

そうして、この世界をつくりあげたんだ。

だけど、今のようにさまざまに姿を変えて、さまざまなものに取り込まれ、次のステージを豊かにはぐくんでいくという仕事には、なんだかとても温かくて穏やかな心地を感じることができる。

自分たちが創造した、といっていいさまざまなレゴブロックと、つながり合い、また離れ、また結ぶ、その数限りない組み替えによって、無限の可能性が生まれる。

それらがさらに複雑に絡まり、響き合って、物質はついに、自立して運動する「生命」というレベルにまで昇華した。

これもまた、自分たちが成した仕事かと思うと、ヨウシくんは不思議な感慨に見舞われる。


生命を誕生させるには、非常に限られた環境条件が必要だった。

その重要な条件のひとつに、水の存在がある。

水なしには、生命は誕生することができなかったにちがいない。

宇宙空間のチリが集まって、壮大な渦を巻き、密度が集中する中心が練りあげられて、やがて太陽ができた。

その容赦なく高熱を発する天体に、水は、近すぎると蒸発してしまい、遠すぎると凍りついてしまう。

熱すぎず、また寒すぎない、真ん中付近のちょうどいいエリアに、生命を生むべき天体は軌道を確保しなければならない。

この「ハビタブルゾーン」と呼ばれるせまい周回コースを、岩石天体は何億年もの間、正確にめぐりつづける必要があったんだ。

こうして生命は、単純な有機物から、反応のみでうごめく原生生物へ、そして確たる意志を持つ高度な知的生命体にまで、ゆっくりと成長することができた。

これは、奇跡の出来事といっていい。


今、きみの体内から放出された涙が、風に流され、散り、ひとつの水分子として飛翔した。

それは、原っぱにはえる一本の木の根本に落ちた。

土にしみ込み、根っこに吸われる。

樹幹に編み込まれた細管をのぼり、枝の中を走り、葉っぱの脈にもぐり込む。

空に向けて開かれた葉っぱには、燦々とした陽光が降りそそいでいる。

あの宇宙空間のぐるぐる渦巻きの中心にあった巨大天体は、盛大にエネルギーを放出し、この水の惑星にまで光と熱を送ってくれている。

そんな光を浴びて、ヨウシくんとデンシちゃんの水素原子は、一緒に水分子チームを組んでくれていた酸素くんたちと別れた。

光合成。

酸素くんは、二酸化炭素分子の集団と入れ替わりに、葉っぱから飛び立っていく。

ヨウシくんとデンシちゃんの水素原子は、ぽつんと残された。

ここで、また新たにいろんな原子と結び合って、別の形になってもよかった。

水素原子ほど自由なレゴブロックのピースはない。

まだまだ活躍する場はある。

だけど、ヨウシくんはもう決心していた。

ここでのぼくらの仕事は、ひとまずこれでおしまいだ・・・

デンシちゃんも覚悟を決めている。

あなたとずっと一緒。

どこへでもついてゆくわ・・・

この天体に舞い降りて、水素原子として活躍した仲間たちは、すでにほとんどが宇宙空間に去ってしまった。

水素原子が単体で存在するには、この天体の重力は弱すぎるんだ。

自分たちも、また旅立つときがきたのかもしれない。

この天体で過ごした46億年は、とてもたのしかった。

どこでもお目にかかれないほどのあざやかさと多様性を持った、世にも不思議な天体だった。

ここで、いろんな経験をさせてもらった。

いちばん最初は、水蒸気という形だった。

天体があっちっちで、空から地表面へ近づくことができなかったんだ。

それがそろそろ冷えてきた頃に、水分子たちで集まって水滴となり、地上に降りることができた。

それからは、蒸発させられて雲になったり、また雨粒になったり、あるときなどは氷の粒になったりして、地面と空とを行き来した。

忙しかったけど、自分たちがはっきりとこの天体の様相をつくりかえているという自覚があって、その変転を見るのがたのしかった。

有機物が熟成されて生命体へと発展すると、その消化器官に取り込まれたり、排出されたり、またその構成体の中をめぐる迷路をさまよったりするのに忙しくなった。

文明なるものが発生し、今度は劇的に変化する環境に混乱しながら、世間を泳ぎまわるのに精一杯になった。

最近などは、うっかりと水素の形でいたらボンベに充填されて、酸素くんとの化学反応で箱型の車輪装置を動かす、ということまでした。

水素自動車、とかいうらしい。

そしてお尻の官から排出されたときには、再び水分子になっていたんだ。

それが、どんな偶然か必然か、きみの体内に入り、今朝、あくびの涙となったわけなんだった。


きみがこうしてヨウシくんと出会えたことは、とても意味があることだ。

考えてもみてほしい。

ヨウシくんは、この世界がはじまった日・・・138億年前のあの大爆発のときに生まれたんだよ。

それがめぐりめぐって、きみの生命活動をひととき手伝ったんだ。

とても不思議なことだとは思わないか?

もっと考えを及ばせれば、きみのそのからだは、ヨウシくんたちがいろんな天体の中で必死に働き、生み出してくれた、さまざまな元素のレゴブロックでできているんだ。

きみは、ヨウシくんによってつくられたんだよ。

これは驚くべきことじゃないか。

きみはそんなこんなに思いを馳せて、もう一度、窓の外の空気を吸い込む。

・・・だけど、そこにはもう、ヨウシくんはいない。


なんにもないなんにもないまったくなんにもなかったあの状態から、世界はこんなにも豊かな姿に成熟した。

神様が本当にこの姿を最初から設計なさっていたとすれば、すごいことだ。

だけど、ちょっと待てよ・・・とヨウシくんは考える。

神様は、もっともっと進んだ形を望んでおられるのかもしれないぞ・・・と。

一方、デンシちゃんは、それほどむつかしくは考えない。

好奇心を胸いっぱいにふくらませて、うずうずしている。

今度はどんな新しい世界を見られるのかしら・・・と。

じゃあそろそろ・・・とヨウシくんは話しかける。

うん・・・とデンシちゃんはうなずく。

また新しい天体をつくろう。

ふたりで笑い合う。

手をつなぎ合う。

そして、旅立った。

宇宙空間へ。

その先に、もっとすごいなにかが待っているにちがいない。

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