02
突然声が降ってきて顔を上げれば、目の前に見知らぬ女性がいて、小春は思わず目をぱちくりさせた。明るい茶色の髪は肩につくかつかないかという長さで、茶色の瞳や丸く低い鼻がバランスよく配置されており、整った顔立ちをしている。おそらくアジア系の人物だろうと容易に察せられる薄っぺらい――貶すつもりは一切なく、ただ彫りの深い顔立ちの人ばかりを見ていたから相対的にそう思ってしまっただけだった――外見だった。手にはプレートを持っており、そこには飲み物と食事が乗っている。
突然見ず知らずの人に話しかけられて小春は視線をさまよわせた。どう答えれば良いのだろうか? とりあえず「Hi!」と返せば……? いやしかし彼女はアジア系、もしかしたら日本人かもしれない。それならば日本語で返したほうが……いや彼女が日本人だという保証はないのにそうやって返すのはどうだろう? そもそも英語で話しかけられたのだから英語で返したほうが……
と、そんなふうに思考していたからだろうか。
「は、ハァイ?」
結局小春の口からこぼれたのは英語の発音よりも日本語の発音に近い、しかし純然な日本語とは言えない曖昧なものだった。
すると女性は数瞬固まったあと、突然くすくすと笑い出した。堪えきれなかったのか面白おかしそうに体を少し傾け、手に持ったプレートまで傾き食事が地面に落ちかける。途端、女性は「わっ!」と声を上げて体勢を立て直した。……少しして彼女はまた大声で笑うと、「相席大丈夫?」と尋ねてくる。それに反射的に頷いて――はっ、と気づいた。
「あ、あの、日本人なんですか?」
ちょうど向かい側に座りかけていた女性は小春のほうを向くと、「うん、そう」と言ってはにかむ。「あなたもでしょ? ――と言っても、そんなに流暢に日本語話しているからそうだろうけど」
その言葉に「はい」と頷けば、彼女は「そっかそっか」とどこか嬉しそうに言って椅子に腰掛けた。手に持ったプレートには大量のフライドポテトと肉の塊が置かれている。
彼女は指でフライドポテトをひとつ掴むと、ぽいっと口に放り込んだ。咀嚼して飲み込むと、「それで、」と口を開く。
「どうしたの、そんなに暗い顔をして? 相談に乗ろっか?」
そう言う女性の顔は一見真剣そうに見えるが、口角がわずかに上がっており、瞳の奥にある好奇心も隠しきれていなくて。そのことに小春はむっとしながら、女性から視線を外してハンバーガーを掴み、大口を開けて噛み切った。よく咀嚼して口の中に何もなくなると、「別に、なんでもないです」と答える。
すると、女性は「そう?」と声を発した。
「そうは見えないけど。話すと楽になるし、吐き出してみたら? ここで話したとして、日本語ならあたしたちしかわからないんだし、あたしはあなたのことなにも知らないんだし」
へらへらと笑いながらそう諭してくる女性に、ふつふつと怒りが湧いてきて、小春はぎゅっと強く手を握りしめた。ハンバーガーのパンに指が食い込んでシワを作るが、それを気にすることなくそのままがぶりと噛みつく。口に広がるどことなく薄く物足りない味つけが煩わしい。
そんなことを思っていても、顔に出してしまっていても、女性は口を止めなかった。「それともあたしが当ててあげようか? うーん……恋愛のこと? 友人のこと? 家族のこと? 進路のこと?」小春は努めて何も反応しないよう心がけていたのだが、どうやら無意識のうちに少しだけ反応してしまったらしい。女性の柔らかな唇が弧を描く。
「ふーん。家族と進路のこと、ふたつっていうところかな。なるほどなるほど」
その、どこかバカにしたような言葉に苛立ちが生じるが、それをなんとかこらえる。ここで怒ったところで意味なんてないのだから。
ともすれば怒りに震えてしまいそうな手を、ハンバーガーを強く掴むことでしのぐが、それでも女性は話を止めなくて。
「ほらほら、話してみなさいよ。オネーサンが相談に乗るよ?」
そんな軽薄な言葉に。
プチリ、となにかが切れる音がした。
「うるさい! そんなつもりないくせに!」
小春はガタリと音を立てて思わず椅子から立ち上がると、薄ら笑いを浮かべている女性を見下ろしてそう言った。けれど女性は表情を一切変えることなくこちらを見上げてきていて、そんな余裕綽々な態度に苛立ち、胸から怒りの言葉がこみ上げてくる。
「どうせあなたも『そんなどうでもいいことで』とか言うんでしょ!? 私にとっては大きなことなのに!」
「……言わないよ」
「うそっ!」
「本当に。……ほら、あたしを見て。そんな顔している?」
そう言われて素直に彼女の顔をまじまじと見つめ――小春は驚きに目を見張った。先ほどまであった好奇心は一切感じられず、真摯な双眸がこちらを見つめている。笑顔も消えており、真面目くさった表情を浮かべていた。
その一転した様子に困惑していると、「ごめんね」と彼女は口にした。
「好奇心で訊くことじゃなかったよね……本当にごめん。不躾なことした」
「いえ……」
少し沈んだ彼女の言葉にどう返していいのかわからず、小春はそう言うことしかできなかった。その場であたふたしていると、「とりあえず座ったら? 注目されているよ」と言われる。その言葉に周囲を見渡せば、確かに客や店員がこちらを見つめていて。
「ソ、Sorry!」と言いながら小春は椅子に座った。今更ながらに羞恥心が湧き上がってきて、頬が熱を持つ。いくら怒りで我を忘れていたとはいえ、こんなことをするべきじゃなかった、と後悔していれば、「あのね、」と対面に座っていた女性が口を開いた。
「あたしも、そう言われたことあるんだ」
好きなことを仕事にしたいと思って、だけどくだらない、そんなことしている暇があるのならきちんと勉強していい大学に入りなさいって。夢なんかさっさと捨てて、そんな〝くだらない〟ことに時間を費やすなって。
虚空を睨みつけ、あたかもそれを言った本人が目の前にいるかのように苛立ちをあらわにしながら、彼女はそう言った。用意されていたナイフとフォークで皿の上に乗った肉を乱暴に切ると、それを口の中に入れて噛む。ひどく憤っているようで、それなりに美味しいであろう食事をしているが、その表情が晴れることはなかった。
小春は女性の突然の語りに動揺しながらも、彼女の気持ちに少しだけ共感していた。だけど違う、とも思う。自分と彼女は絶対的に異なる存在なのだと思い知らされる。私には――
そのとき「あなたは?」と尋ねられた。「あなたはどんなことがあったの? ……あたしもこんなことがあったら、きちんと聞いてあげられるよ」とも。そう言う彼女はどこか寂しげな、悲しげな、けれど嬉しそうな笑顔を浮かべていて。
――小春は自然と、唇を開いていた。
「私は……やりたいことがわかんないんです。だから将来の職業もどうしようか迷ってて……」
ハンバーガーを皿の上に戻しながら、そう話す。友人たちにもバカにされるかも、と思っていて話せなかったこと。それを口にできるのは……たぶん、目の前の女性が似たような経験をしたことがあるということと、彼女の名前すら知らず、彼女もまた小春の名前すら知らないことからだろう。共感することができ、けれど名前すら知らない彼女は、まさに理想の相談相手と言えた。
そんなことを思いながら皿に視線を落とし、話を続ける。
「それに危機感を覚えて、去年、受験生のとき、やりたいことを探すためにバイトとかボランティアとかを始めようと思ったんです。だけどもっと勉強しなさい、とか、いい大学に行かなきゃいい仕事には就けないんだ、とか……そんなことばかり言われて、親に反対されて……」
対面に座る彼女は何も言うことなく、静かに小春の言葉に耳を傾けてくれていた。それにどこか安堵して、自然と言葉も流暢になっていく。
「その通りだっていうのはわかるんです。やりたいことを仕事にするのが幸せとは限らないし、そもそもそんなふうに探したところでやりたいことが見つからない可能性だってあるし……。でも今の私は母の言われた通りにするだけの、中身のない人間で、それがなんだか虚しくて……だから今回、母に嘘をついて一人旅に来たんです。母の影響が一切ないここでなら、なにか見つかるかと思って」
だけど、結局見つかりませんでした。そう言って小春は意識して口角を上げる。ついこんなところまで話してしまったが、本当は旅行の目的を話すつもりなんてなかったから、それをごまかすためだ。
しかし彼女はごまかされてくれなくて。「そっかぁ……」と複雑な感情が絡み合った声を発して椅子に深くもたれかかると、彼女はフライドポテトを口に放り込んだ。そして数回噛んで飲み込むと、「まぁ、やりたいことってなかなか見つからないよね」と言う。
「あたしだって昔はやりたいことなかなか見つからなかったもん。けれど人生の先輩として言わせてもらうと、そういうのって探し続けている間は見つからなくて、忘れかけたころにある日突然見つかるものだと思う。あたしはそうだったし。だから焦らなくてもいいんだよ。むしろ焦ったらダメ」
そう言って女性は微笑んだ。そんな彼女を見て、小春は思わずハッと息を呑む。
――確かに小春は焦っていた。やりたいことが何も見つからなくて、このままじゃ就活の際に迷うことが明らかで、なんとか見つけようとしていた。それを自覚はしていなかったけれど、言われてみてなるほどそうだと思う。
でも――
「――焦らなきゃ、いけない時期なんです」
小春たちのひとつ上の学年から就職活動のルールが撤廃されることが決まった。さすがにそれまでに時間がないためひとつ上の学年は今まで通りの就活ルールで、大学三年生の三月から正式に就職活動が始まるだろうと言われている。しかし小春たちの学年からはおそらく早まるだろうと言われており、今は大学一年生の春休み。就職活動まであまり時間は残されていないのだから、早く見つけなければ。
すると女性はまるで聞き分けのない子供を相手にするかのように口をへの字に曲げた。「うーん、でもねぇ……」と悩ましげな様子で言葉を口にする。
「それじゃあ見つからないかもよ?」
「けど、意識しなければ見つかるものも見つからないかもしれません。時間がないから、見落としたくないんです」
それにさっきのはあなたの持論であって、私にとって正しいという確証はありませんよね? そう言えば、女性は「それはそうだけど……」と本当に困ったように眉根を寄せて言った。
そんな彼女を見て、ああ、意固地になっているな、と小春は気づく。今までの自分の考えを、努力を否定されたから、それを認めまいと屁理屈をつけて応戦してしまっていた。こういう素直になれないところが自分の悪いところだと自覚していながらも、変なプライドに邪魔をされて未だに治せていない。なんと情けない人間だろう。
自己嫌悪に陥りつつそっと視線をいつの間にか冷めてしまったハンバーガーに向ければ、女性の声が降ってきた。
「んー、……じゃあとりあえずこれでも飲む?」
そう言って差し出された手には、なにやら透明な液体の入ったワイングラスがあって。
小春はそれを半眼で眺めつつ、ゆっくりと喉を震わせる。
「……なんですか、それ。お酒?」
「うん、そう、白ワイン。飲まない?」
「飲みませんよ! 第一私まだ十九歳ですし……!」
「ここはイギリスだから大丈夫だいじょーぶ。店で一人飲むのは十八歳から良いし、なんなら家の中でなら五歳からでも大丈夫なんだよ」
そういう話は聞いたことがあった。確か出発前夜、それを知った母から「法律的には良くても、絶対に飲酒はしないでね!」と念を押されていた気がする。そのときは母に秘密の一人旅が不安で不安でたまらなくて聞き流していた記憶があるけれど。
とにかく、母にそう言われた記憶があるため拒絶をすれば、「うーん、でもねぇ……」と女性が不満げな表情を浮かべる。
「これはあたしの持論だし、信じられないと言われたらそれまでだけれど――」
と、そのときだった。
なにかの音楽がかすかに聞こえてきて、女性は口をつぐんだ。そのままカバンからスマホを取り出すと「ごめんね」と一言断って席から立ち上がり、店の隅に向かう。どうやら誰かから電話がかかってきたらしく、ちらちらと小春のほうを気にしながらなにか話しているようだった。
そのことに首を傾げつつ、小春は冷めきったハンバーガーを手に取ると勢いよく齧りつく。その味はどこか、最初のひと口よりも美味しくないように感じた。
そんなことを思いながら咀嚼していれば、電話が終わったのだろう、女性が足早にテーブルに戻ってきた。「急にごめんね」とまたもや謝罪をしながらも、彼女はカバンからメモ帳とボールペンを取り出すとなにかを英語で書いていく。そして書き終わると、「はい、これ」と言って差し出してきた。
「ちょっと用事ができたからあたしは帰らせてもらうね。――だから明日、その住所の場所に来て。九時から六時まではそこにいるから。じゃあね」
そう早口でまくし立てると、彼女はカバンを肩にかけてまだかなりの量の食事が乗っているプレートを持ち、カウンターのほうへと向かって去っていった。突然の展開に小春がぽかん、としている間に彼女はカウンターで定員になにかを話しながら皿を渡し、店を出ていく。
「な、なんだったんだろ……」
その呟きは賑やかな喧騒にかき消され、誰にも届くことはなかった。
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