白ワインを飲んで

白藤結

01

 そこはまさに別世界だった。


 小春はきょろきょろとあたりを見回しながら、人の流れに沿って空港の中を進む。鼓膜を揺らすのは英語、英語、英語。時折別の言語が混ざっているようだったが、小春にはなにを言っているのかわからなかった。そもそも得意な英語すらこのような状況ではかなり聞き取りづらく、注意しなければ意味の理解できない音の羅列である。ましてやきちんと学んだことのないほかの言語など、音を聞き取ることすら不可能だろう。


 言語の違う国の中に、ひとりきり。飛行機の中でも感じた不安を胸に抱きながら、小春はきゅ、と、手に持っているキャリーバッグの持ち手を握りしめると、ゆっくりと足を交互に前へと出す。


 ――ロンドン・ヒースロー空港。イギリスの首都ロンドンにある空港の中でも最も有名なそこに、小春はたった今降り立ったばかりだった。入国審査や税関を持ち前の英語力――と言っても普通の大学一年生よりは幾分か得意というだけの、あまりにもお粗末なものだった――でなんとか乗り切り、今は観光へと向かうためにとりあえずロンドン中心部にあるパディントン駅へ向かおうとしていた。


 列車のチケット売り場を探していれば、「Excuse me!」という声とともに肩を軽く叩かれた。振り返れば、赤みがかった茶髪の背の高い西洋人男性が小春のほうを見てニヤニヤと笑っている。三十代後半から四十代前半に見えるが、西洋人は彫りの深い顔立ちのため実年齢はもう少し若いだろう。そんなことを思っていれば、英語でなにやら話しかけられる。「Japanese? Chinese?」と聞かれたので「I'm Japanese.」と返せばまたなにか尋ねられた。「London」という単語はかろうじて聞き取れたものの、「show you around」という聞き慣れない構文に思わず顔を顰める。


「What does "show you around" mean?」


 そう尋ねれば「It's guide!」と答えられたので、今までのことを考えておそらくロンドン案内をしようか? とか、そこらへんの誘いを受けているのだろう。推測になるが。

 小春はため息をつきたくなるのをこらえ、口を開く。


「I'm sorry,but I'm not free.」


 そうやんわりと断れば、しかし男性は諦めていないのかまたなにか口にしてくる。さすがにネイティブの英語は早すぎて単語を途切れ途切れにしか聞き取れず、そこから話の内容を想像するくらいしかできないのだが、おそらく懲りずにまた誘われているのだろうというのは雰囲気で察せられた。

 小春は彼の話をよく聞くことなく先ほどの言葉をただひたすら繰り返す。八回くらいそうしたところで男性はやっと諦めたのか、早口でなにかを言うと小春の前から去っていった。


 ふぅ、と思わず安堵の息をつき、小春は気持ちを切り替えて今度こそチケット売り場を探して歩き出す。カラカラ、というキャリーバッグの音だけが自分の知っているもので、それ以外何もかもが目新しく、知らないものに溢れている場所。この先の二泊三日の旅行のことを思いつつ、小春は緊張した面持ちで人混みに紛れていった。






 空港内にある地下鉄ヒースローセントラル駅の券売機でオイスターカードというものを買う。日本にいる間に調べたところ、地下鉄での移動をメインとするのならこれが一番安く済むらしい。オフピーク時は普通に切符で買うよりも半額近くになり、しかもピーク時でも切符よりも安いのだとか。カードの発行に五ポンドが必要なもののそれもあとで払い戻すことができるし、券売機も日本語に対応している。メリットしかない。


 キャリーバッグをコロコロと転がしながらカードを買って地下鉄に乗り、まずはパディントン駅へ向かう。列車内は狭く、しかも冷房もなかったためひどく苦痛だったが、噂に聞いていたほど遅れることはなかったためそこには安心した。


 パディントン駅に着くと少し駅構内をぶらぶらと歩くことにする。至るところにクマの銅像があり、一体なんだろうと思ったが、観光客らしき薄い金髪の可愛らしい少女が「Paddingtonパディントン!」と叫びながら銅像に抱きつき、両親と思われる男女がその写真を撮っているのを見て、そういえばそんなクマがいたな、と思い出した。少し前に実写映画化されていたやつだ。小春は興味がなかったため知らないが、もしかしたらあの映画にも出てくる駅なのかもしれない。というよりクマと同名の駅名なのだから十中八九関わりがあるだろう。


 仲のいい家族を羨みながら見送り、とりあえず記念として小春も銅像の写真をスマホで撮って、次にまた地下鉄に乗りタワーヒル駅へと向かう。そこの近くにホテルをとってあり、今日は――と言ってもこの調子だと午後三時くらいに着きそうなためあまり時間がないが――その周辺の観光地をまわる予定だった。


 また苦痛な電車の中を耐え、タワーヒル駅に着く。パディントン駅と同じように改札を通り過ぎ、地上に出てあたりを見回せば、目に飛び込んできた景色に小春は思わず息を呑んだ。石造りの、今までに見たことのない歴史を感じさせる建物――世界遺産でもあるロンドン塔の裏側だ。ああ、と声を漏らす。


 初めてやって来た外国。それもひとりきりで、英語も心もとない。そのため興奮しながらも常に緊張や不安を抱えていたのだが、それらを吹き飛ばすほどの衝撃だった。スマホを掲げ、目の前の光景をパシャリと写真に収める。口元が緩んでしまうのが簡単にわかった。それくらい、初めて見た西洋の歴史的建造物は重ねてきた歴史を感じさせるほど堂々とその場に佇んでいて、胸を打たれたのだ。


 ほぅ、と息を漏らしながらキャリーバッグを転がし、小春はホテルまでの道のりを進む。きょろきょろとあたりを見回せば、大通りに面した建物はどれもどこか古びたような感じがあって、同じ首都といえど東京とは明らかに違った。東京はガラス張りの何十階建てという高層ビルがいくつも立ち並んでいるが、ここロンドンの建物はビル群ではなく普通の建物だ。それも十九世紀から二十世紀くらいの雰囲気を漂わせる堂々としたもので、少しずつ気分が高揚していく。


 ホテルに着くと宿泊人数変更のため少々ゴタゴタがあったものの、素早くチェックインを済ませて少しの現金とカードを持って外に出た。ロンドンらしい曇り空の下、真っ先に向かうのは先ほど見えたロンドン塔だ。近づくにつれて徐々に気分が高揚していき、つい足が速くなっていく。


 途中、ロンドン塔の近くを通りテムズ川のほとりに出ると、小春はまたもや息を呑むこととなった。目の前にあるのはタワーブリッジ。十九世紀末に開通した、今も現役の跳ね橋だ。二本の巨大な塔が特徴的なそれは、具体的には思い出せないもののどこかで見かけたことのある、ロンドンの観光地のひとつで。


 積み重ねてきた歴史を感じさせるそれを眺め、小春はまた写真を撮る。カシャ、と電子的な音が鳴ってどのようなものが撮れたのか確認すれば、見ているものとは若干色味の違う光景がスマホの中にはあった。


 ロンドン塔に着くとチケットを買って中に入り、石畳の上を軽い足取りで進む。中は広大で、石造りの壁はどこか無骨さを感じさせるが、一度建物の中に入ると豪華絢爛で美しく、その対比がどこか面白い。広場や通りには観光客に紛れて昔ながらの衣装を着た人がおり、拙い英語で許可をとって小春は写真を撮る。まるで中世にタイムスリップしたような気分だった。


 興奮した足取りで様々な場所を巡っていれば、ロンドン塔を出たときにはすでに六時になっていた。日はどっぷりと暮れてしまっており、煌々と輝くタワーブリッジや車のヘッドライトが眩しい。思わず目を細めつつ、未だ興奮の冷めない小春はあちらこちらの写真を撮りながら、行きとは逆にホテルへと向かう道を進む。その途中でレストランがあったため、今のうちに食事をしようと中に入った。


 店内は広々としており、奥にカウンターがあってそこに七人ほどの客が並んでいる。オシャレな感じの店で、ひとりでいるのは小春くらいだった。……まぁ、ひとり旅をしている時点でこのようなことになるのは察せられていたことだけれど。


 少しそわそわとしながらもカウンターに並び、二十分くらいたっぷりと待たされてやっと小春の番がまわってきた。適当にハンバーガーを注文するとそこからさらに待たされ、しばらくしてやっとプレートとそこに乗せられたハンバーガーが出てくる。日本でよく食べるMから始まるあのハンバーガーチェーン店のものよりも小ぶりで少し戸惑ったが、とりあえず空いている席に座って写真を撮った。ホテルに戻ったら母にまとめて送ろう、と思いつつスマホをカバンにしまい、代わりに持っていたウエットティッシュで手を拭うとハンバーガーを持ぬ。小ぶりなものの縦にボリューミーなそれを、四苦八苦して口に入れた。


 イギリスの料理はまずいと聞くが、ハンバーガーはそれほどではなかった。普通に美味しい。と言っても、両親から「味覚がおかしい」と言われている小春のことだから、ただ味を感じ取れていないだけかもしれないが。


 ――小春、もう少し勉強しなさいよ。いい大学に行かなきゃ、いい仕事には就けないんだから。


 ふと母の言葉を思い出し、小春はそっと目を伏せた。自然とハンバーガーを口に運ぶ手も止まってしまう。母の言うことが一般的な正論だというのは、小春だって理解していた。だからこそ母に従うべきだ、ということも。けれど、それでも、小春は――

 と、そのときだった。


「Hi!」

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