03
翌朝、小春は昨日と同じようにカバンに財布とカード、スマートフォンなどの細々としたものを入れてホテルを出た。今日もロンドンは曇り空で、どうせなら晴れを見たかったな、と思う。晴れた空の下のロンドン塔やタワーブリッジは、昨日見たようなものとはまた別の美しさを放っていることだろう。
最終日は晴れてほしい、と思いつつ、今日もまた観光に乗り出す。
今日行くのはオックスフォードだ。タワーヒル駅からパディントン駅にまで行き、そこで乗り換えをしてオックスフォード駅まで行く。ちなみにオックスフォード駅までは地下鉄ではないためオイスターカードは使えず、パディントン駅で切符を買うが、ロンドンの切符料金は時間帯や日にちによって変わり複雑すぎて正直よくわからない。その場でうんうんと唸って、結局適当にオックスフォード駅までのものを購入する。お金はもったいないが、迷ってしまうよりはまだマシだろう。……たぶん。
列車に揺すられてオックスフォードに着くと、駅を出て石畳の道を進む。まず向かうのはアリスショップだ。アリスショップはホテルの近くにもあるテムズ川のすぐそばにあり、オックスフォード大学の寮が目の前にある。『鏡の国のアリス』によって出てきたことから有名になった雑貨屋で、今ではアリスグッズの専門店らしい。
昔ながらの街並みに、少しだけ気分が高揚しながら靴を鳴らして歩みを進める。ひと晩イギリスで過ごしたからだろうか、興奮はしているものの昨日ほどではなかった。
そのとき、昨日のロンドンの街並みに引きずり出されるようにして、レストランで出会った女性のことが思い起こされる。
――その住所の場所に来て。九時から六時まではそこにいるから。
彼女に言われた言葉が脳裡で反芻され、小春は思わず顔を歪めた。今のところ彼女によって指定された場所に行くつもりはなく、今日は予定通りオックスフォードを散策して、昨夜と同じくタワーヒル駅のホテルで休むつもりだった。彼女の言葉にそのまま従うのは、なんだか癪で。それにどうせ彼女の持論だから、それが正しいという保証なんかもないし……
そう自らに言い聞かせながら歩いていると、可愛らしい赤色の看板が見えてきた。その下にはアリスとウサギの描かれた板が立てかけられており、ちょうど観光客だろうか、西洋人だと思われる女性たちが看板を囲んで写真を撮っている。――目的地であるアリスショップだ。意外とこじんまりとした店だが、窓から見える店内は人で溢れかえっており、その人気ぶりが容易に窺える。
小春は首を振って気を取り直すと、アリスとウサギの板をスマホで撮影し、意気揚々と扉をくぐって中に入っていった。可愛らしいアリスのグッズが所狭しと並べられており、燭台を模した照明があたりを照らしている。きゃっきゃと興奮しているアリスのファンであろう外国人たちを横目に、小春は冷静に店内を物色し始めた。
そもそも小春は『不思議の国のアリス』の内容はおぼろげに知っていても、読んだことは一度もなかったためアリスにあまり興味はない。ここに来たのはアリスの大ファンだという先輩へのお土産を探すためだ。それでも店内には可愛らしい――原作の絵柄であるため時折不気味なものも混ざるが――グッズが多く置かれていて、見ていて飽きなかった。
頬を緩めながらぐるりと店を一周し、大人数で食べるためのクッキーを買う。金属の蓋にはアリスが描かれており、これなら所属する研究会のみんなで食べて、先輩が欲しいのなら空き箱をプレゼントすれば良いと気づいたからだ。……空き箱になってしまうところが少々、というかかなり心苦しいが、あまりほかの人と差別化しないためにはこうするしかないのだ。許してほしい。
購入して店を出ると、昼の十一時ちょっと過ぎだった。お昼どきということでそこらにあるレストランに入る。
今日入ったのはカフェ風の、どこかオシャレな感じのレストランだった。外観はほかの建物と同じで石造りとなっているが、中は床も壁もテーブルも椅子も、どれも木でできている。店のあちらこちらに花瓶が置かれており、瑞々しい花が見事に咲き誇っていた。
それらを眺めながらカウンターでフィッシュアンドチップスを注文する。「Salad or beans?」と尋ねられ、少し迷ったのち「Salad」と答えると、時間帯の問題かもしれないが昨日の店とは違ってすぐ出てきた。フライドポテトとサラダ、そして魚のフライが皿の上に乗っている。小春はそのまま空いていた席に座って一度写真を撮り、食べ始めた。魚のフライはサクッとしていてほんのり温かく、ポテトもちょうど良い塩加減で美味しい。昨日のレストランよりも格段に良いだろう。
夢中になって食べていれば、カバンに入れてあったスマホがブブブ、と振動した。なんだろう、と思いつつ手を止めてスリープモードを解除すれば、そこには母からのメッセージが表示されていて。
『旅行、どう? 連絡来てないけど』
あっ、と思った。イギリス旅行に友だちと行きたい、と一人旅など許さないであろう母に嘘をついて申し出たとき、条件をいくつか出されたが、そのひとつが毎日連絡をすることだった。どこをどう行ったのか、写真でいいから送ってほしいらしい。昨夜それをしようと思っていたのだが、あの女性のこともあり完全に忘れてしまっていた。
小春は慌てて『ごめん』と送ると、フォルダの中からいくつかの写真を厳選して送る。十枚近くの写真が送られてすぐに既読がつき、やがて『楽しんでね。今日の連絡も忘れずに』と返ってきた。小春はそれに返信することなくスマホをロックするとカバンに放り込む。はぁ、と、重たいため息がこぼれた。
母は自分のことを愛してくれているのだろう、とは理解している。それゆえに人生を楽しんでほしくて、小春がバカなことをしようとしたら、間違った方向へ進もうとしたら正そうとしてくれているのも。それでも小春はやりたいことを見つけたくて。
――その住所の場所に来て。九時から六時まではそこにいるから。
昨夜の女性の声が脳内で反響する。小春は顔を歪めながら魚のフライを口にした。大して時間が経っていないはずなのにそれは先ほどまでとは違い、さほど美味しくないように感じた。
昼食を食べたあとはぶらぶらと周囲を歩き、一時くらいになるとオックスフォード大学のクライストチャーチへ向かう。入場料を払って中に入り、小春は思わず感嘆の声を漏らした。ほとんど同時に入場した人が興奮したようにとある作品の名前を叫びながら、一眼レフカメラでパシャパシャと写真を撮っている。
クライストチャーチは某有名なイギリスの、魔法学校に通う少年たちの児童書、その映画版の撮影に使われた場所で、あちらこちらにその影が見え隠れしている。廊下はまさに映画に出てきたそのもので今にも登場人物たちが歩いてきそうだし、中庭も見覚えのあるようなないような光景で、ここも撮影に使われていた気がする。現在でも食堂として使われているザ・グレートホールは大広間のモデルになったらしくとにかくすごくて、有料だったもののそのお金も仕方がない、と思えるようなものだった。
スマホで写真を撮りまくりながら過ごしていれば、いつの間にか四時近くになっていた。ここからホテルのあるタワーヒル駅までは一時間以上かかるため、そろそろ帰らなければならないだろう。そう思いつつ名残惜しげにクライストチャーチを離れてオックスフォード駅まで向かった。そこから行きと同じようにパディントン駅へ行き、地下鉄でタワーヒル駅まで向かう。狭い電車の中で今日撮った写真を見返していれば、昨日の夕飯であるハンバーガーの写真も出てきて。
「……絶対に行かないし」
そう、思っていたのだが。
――約一時間後、小春はタワーヒル駅から徒歩三十分ほどの場所にやって来ていた。すでに日は沈みかけており、目の前にある小さな建物は夕焼けに染まっている。スマホの画面を見てここが目的地であると確認すると、ゆっくりと建物の中に足を踏み入れた。
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