北の暗雲
ハムノン高原の北側にはクル・ガル山脈が続いていた。どれも険しい山々で、ハムノン高原に至る道は一本だけ、ズダン峠を越えるしかなかったの。ズダン峠の北側はハムノン高原制圧戦を行った頃はまだまだ未開で、狩猟民族がチラチラいる程度だった、まあ、この狩猟民族がズダン峠を越えて山賊として襲ってくることはあったけど、滅多になかったし、そこまで兵を進めてもどうしようもない感じやった。
ところが三百年もすればクル・ガル山脈の向こう側にも都市が出来てた。都市が出来れば交易も起るわけで、エレギオンの商人たちがズダン峠を越えて商品を運び込むことも多くなっていったの。ただ都市まで形成されると戦争が起るのよね。どうしてあんなに戦争をやりたがるのかコトリには最後のところがよくわかんないの。
とりあえずユッキーと決めた当面の方針は不干渉。あのズダン峠を越えて遠征軍を送るなんて全然考えてなかったの。一方でエレギオン同盟は順調に機能してた。ハムノン高原制圧戦から百年ぐらいは反乱した国もあったけど、コトリとユッキーで災厄の雨を降らし、さらには同盟軍を結成してすべて短期間で鎮圧した。
この通商同盟は続けば続くほど支配者層の力が弱まり、国民の中間層が富むシステムだから、やがて誰も反乱を起こさなくなったわ。あの時期がエレギオンの黄金時代だったかもしれない。同盟国民は主女神からの恵みに感謝して、どの国にも女神の神殿が建てられた。もっとも女神は全部で五人しかいないし、全員がエレギオンにいるから、女神の神殿と言っても女神像があるだけど、平和と繁栄を享受してた。
当時は本当に平和だったから女神の行幸もしばしば行ったもの。どこも大歓迎で、女神の行幸依頼が多くてユッキーと次はどこを回ろうかとよく相談してた。行幸は女神の威服を示す意味もあったけど、街道整備の意味もあったの。エレギオン通商国家やから、交通路は便利な方がイイのよね。もっともカネを出すのはエレギオンだったから、女神が行幸すれば道が良くなるって感じかな。
その頃に大神殿建設計画が出てきたの。エレギオンの女神の神殿は丘の上にあったけど、小さかったのよね。国力が増してから何度か立て直したけど、規模的にはささやかなもの。他の都市の女神の神殿に較べても見劣りするどころやないのは確かやった。その頃には街は神殿の丘の麓に大きく広がっていたから、女神の神殿もそっちに作ろうって。
同盟国も基本的に賛成やってんけど、ユッキーがなかなか『うん』と言わないの。実はもう一つ大きな建設計画があったのよ。エレギオンは長い間、神殿の丘の上に街があり、攻められたら神殿の丘に籠城するのが常套戦術やった。麓に街が広がっても、そこは放置して神殿の丘に籠城するパターン。
でも人口が増えたもので、神殿の丘での長期籠城戦は無理になっていたの。だから麓の街を取り囲むような城壁を作るプランが出ていたの。そりゃ、作るとなればゴッツイ規模やから当時のエレギオンでも両方一遍は無理やったんよ。大勢はとにかく平和やったから大神殿建設を先にしようやったけどユッキーは賛成しないの。コトリは聞いてみたんやけど、
「コトリには見えないかな」
ユッキーが指し示すのは遥かなるクル・ガル山脈の山々で、
「あそこに暗い雲が漂う気がする」
コトリもよ~く見たんやけど、たしかに何やら嫌な感じがあったの。
「なにか来るとか」
「わかんないけど、備えるんだったら今しかないと思う」
「でも、クル・ガルを越えてエレギオンまで遠いよ」
「それでも備えるべきと思うわ」
神政政治の便利さで、ユッキーの判断が通ったの。ユッキーはエレギオンの大城壁建設だけでなく、ベラテやリューオン、ハマの城壁も大改修を命じたの。こんな平和な時代に大城壁を作るなんて冷笑した人もいたし、批判の声もあったけどユッキーは例の怖い顔で反論を許さなかったわ。
ユッキーのプランは壮大だった。山から石を切り出し、従来の二倍以上の高さにし、随所に櫓とも呼べる塔を立てさせた。塔には武器食糧を十分に貯えられるスペースを設け、それ以外にも巨大な食糧貯蔵庫を幾つも作ったの。ユッキーのプランでは、たとえ五年ぐらい囲まれても耐え抜ける規模を目指していた。
エレギオンには劣るもののベラテやリューオン、ハマの城壁大改修もこれに準じた規模で行われたから、大神殿建設計画は完全に消し飛んでしまっちゃった。他の都市の城壁改修も実質的にエレギオン負担みたいなものやから、相当な出費やった。どうにも、エレギオン運営は常にカネに追いまくられるみたいだとユッキーと笑ってた。
ユッキーは本当なら高原都市も全部そうしたかったみたいやけど、そこまではさすがにカネがあらへんかった。というか、エレギオンの大城壁だけでも無理がアリアリやったのに、ベラテやリューオン、ハマまでやったから財政のやりくりに追い回されたってところ。
ただなんやけどエレギオン同盟は好景気に沸いてた。こういう大規模な公共事業はとにかくカネがグルグル回るから、高原都市からもいっぱい出稼ぎが来てた。そういう人たちが飲み食いしたり、買い物するから、景気はドンドン良くなる関係かな。だから、心配されていた財政もギリギリやけどなんとかクリア出来たってところかな。
余談やけど、この好景気の時に世界で初めての居酒屋が出来た気がしてる。この時代の酒と言えばひたすらビールやねんけど、とにかく需要が多かったから、まず酒屋がいっぱい出来て、醸造所も増えた。最初は酒屋でビールを買って帰って飲んでたんやけど、酒屋で飲むのが出てきた。
酒屋も店頭で立ち飲みしとっただけやねんけど、ビールを飲むならアテが欲しいとなり、充実したアテがある酒屋に人気が集まるようになってん。そのうち立って飲むより、座って飲める酒屋に人気が出てきて、夕方ともなると酒屋の周りに屯するのが当たり前になってきたんよね。といっても店の前にベンチやテーブルを並べてた程度だったけど。
この辺まではまだ酒屋の店頭で飲む延長やってんけど、あの踊る魚亭が出来たんや。踊る魚亭はもともと宿屋やってんけど、宿屋やから食事も出し取ってんよ。エレギオンは海も近いから魚料理で有名やった。ここの店主は酒屋で飲んでる連中を見て閃いたみたいなの。
それまでエレギオンの宿屋は食事も出しとったけど、部屋食やってんよ。それを広間で一緒に食べるスタイルにまずしたの。テーブルと椅子で食べる感じ。店主に話を聞いたこともあるんやけど、
「あれは大宴会を参考にしたものでございます」
女神も王も臣下を集めて宴会をやることがあったんだけど、その時はテーブルと椅子やってん。それと同じとは言えへんけど、まとめて食事を提供した方が手間が少なくなると考えたそうなの。まあ、客も大勢でメシ食う方が楽しいと好評だったみたい。
この広間で集まってメシ食うスタイルが好評なのを見て店主は宿泊客以外も受け入れたのよ。つまり泊らずともメシ食って、ビールが飲める店が出来たってこと。今なら当たり前だけど、出来た時には大評判でコトリも便利なものが出来たと感心してた。コトリも行ったかって、そりゃ、行ったよ。女神でナンバー・ツーいうても、それぐらい民衆と近かったの。ユッキーも行ってたし、三座や四座の女神も行ってた。
そいでもって、この踊る魚亭の店主はアイデアマンやったんよ。ありゃ、商売の天才やと思たもの。この頃はまた貨幣がなかったんよ。基本は物々交換。市場はあったけど、物々交換やった。そやから酒屋に行ってビール飲むにしても、なんらかの代価を背負っていかにゃならんわけ。ただなんやけど、貨幣の元祖みたいなものは出来つつあったんよ。要は金とか銀の小さな塊。銅もあった。
店主がアイデアマンだったのは、銅を小さく丸く打ちぬいたものに、表はビールの絵、裏には踊る魚マークを刻印して、これ一枚でビール一杯飲めることにしたの。それでね、このコインのミソは、それだけの銅の価値じゃビール一杯の三分の一ぐらいにしかならないところで、本来なら三枚分ぐらい必要だったのよ。
ところがビール一杯との引き替えを担保にしたから、銅の価値とは関係なく、踊る魚亭のコインというだけで三倍の価値になったんよね。店主は踊る魚亭の拡張の時の工事費用をそれで払ったから、手間賃を含めても半分ぐらいの費用で済ましちゃったのよ。
工事費用だけじゃなくて、他の仕入れや従業員の給料にもそれを使ったの。これはコトリも驚いたのだけど、踊る魚亭のコインは市場でも通用してた。変な言い方だけど物の価値が、踊る魚亭のビール一杯とくらべてどれぐらいかで考えるみたいな感じになってた。
コトリは閃いたの。それやったら国がコインを作れば、物の値段の統一基準が出来て便利になるんじゃないかって。それだけやなく、元の金属の価値以上に利用できるんやんないかと。とにかく財政は始終ピーピー言うてるから、上手くやればかなり儲かりそうってのも本音やった。
ユッキーも理解してくれて、銅貨の試作品を作ったし、ついでに金貨や銀貨の試作品も作ってみた。後は踊る魚亭みたいにコインの価値の裏付けをどうしようかと考えてた。国がやるのに、さすがにビール換算と言うわけにはいかへんし。でも、そんな通貨制度の芽生えを吹き飛ばす暗雲が迫っていたのよねぇ。それでも踊る魚亭のコインは世界最初の信用通貨に近いものやと今でも思ってる。
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