7話 後編
――文化祭まであと14日・S――
(特に記載がなければ右投げ右打ち)
1、(投)
2、(一)
3、(捕)
4、(三)
5、(右)
6、(遊)
7、(中)
8、(左)
9、(二)
監督、
顧問(不在)、
気づけば、球場の周囲は多くの人が詰めかけている。八嶋先輩曰く『文化祭のPRになるから盛大に宣伝しておいたよ』とのことらしい。相変わらず抜け目のない人だ。
観客の中には、見覚えのある人たちの姿もある。この半月で、運営補助員を通して知り合った人の多さを改めて実感する。
「んもう! 小次郎が出るって聞いたから来たのに、突っ立ってるだけじゃないですか! 試合終わったらモフモフの刑です!」
郷土研のちんまい一年女子が憤慨していると思えば、
「橙矢、思いのほか頑張ってるねー」
「うん。頑張ってる……のかな?」
見分けの付かない小さな双子が人混みの中で背伸びをし、
「九条先輩に、八嶋先輩までこんなところで油売って……。寿祭の入場門設営、段取りすら決まってないんですから、遊んでないでさっさと仕事に戻ってくださいね!」
我らが副委員長が先輩たちにまで吠える。
今年発足したばかりの野球部に、伝統的な応援など存在しない。だけど、各々好き勝手に叫ぶのを聞いていると不思議と安心する。
皆んなが、ここにいる。
俺は胸にキャッチャーミットを当てて、前方に広がるグラウンドを見渡す。頼れるメンバーは、守備についた後も好き勝手に背伸びしたり空を仰いだりしている。
——絶対に、お前らに苦労はかけないからな。
俺たち野球部は、文化祭で出展しない。その後も年度内に公式試合がないから、俺はこれで引退だ。文化祭のPRも兼ねた勝負。即席の仲間や観衆の期待を背負って戦うのは、これが本当に最後。ならば、尚更負けられない。
試合再開。バッターボックスに立つ野村は、距離が近いせいか俺の目に大きく映る。
「今日で負け犬も終いじゃ。俺が、道を切り開いたるからの!」
絶望的な状況でこの余裕。
ああ、そうか。この男も、相当大きなものを背負って戦っているのだ。
俺は言葉を返さず、杏橋にサインを送る。本当に今日で終いか否かは、次の三球が教えてやればいい。
第一投。大きく振りかぶり、放つ。
「三ノ太刀——三日月ッ!」
その球は、野村の頬をギリギリ掠めた。ミットに収まっている白球を見つめ、野村は頬をさする。
「……ほう。今のは効いたで」
杏橋が今朝完成させたばかりの隠し球。
その正体は、突風に乗せて投げられる、規格外な変化幅のスライダー。限界まで回転を乗せるために投球フォームから球種はバレやすいものの、初見の相手はほぼ打つことができない。
外側に逃げたと思えば、大きな弧を描いてミットに収まる。その見事な軌道を目で追った観衆は、一斉にどよめきを漏らした。それが自らのことのように嬉しくて、俺は空いた左手でサムズアップを送る。
——ついにやったな、杏橋。
だが、マウンドに立つ杏橋は未だ笑みを見せない。
「次、行きますよ」
周囲の歓声も味方につけ、さらにもう一本ストライクを捥ぎ取る。勝負も会場の空気も、完全にこちらに追い風だ。
あと一球。打たれなければ、零点に抑えることができる。
そう思った矢先、ニヤリと笑ったのは強打者・野村の方だった。
「ええ球投げるのぉ。あまりに外側行くから、こりゃ右打者なら絶対打てへんなぁ」
「それはどうも。ですが……それは、自分なら打てるという意思表示と捉えて宜しいですか?」
「それ以外、どんな意味があるんや?」
そう。野村は左打ちだ。
右打者のバットに当たる遥か外側を行くその軌道も、左打ちの野村にしてみれば『少し避ければ打てる球』になってしまう。
ゴクリと唾を飲む。
何故だ。あと一球で打ち取れるのに、なぜ野村はここまで余裕なんだ?
杏橋が投球のフォームに入る。完全に敵を下すための渾身の一球。それを追うのは、完璧な軌道を描きながら銀光を放つバット。その先端に吸い寄せられるように、スライダーが風を切る。
まずい。
直感が警鐘を鳴らす。その時には、すでに金属音が高く鳴り響いていた。
その日、最初のヒットが球場を駆け抜けて――
「一球たりとも殺さねェよ!」
グラウンドを猛スピードで走り抜けるゴロ。それを真っ向から捉えたのは、遊撃手・赤杉さんの小さなグローブ。息をのむような、華麗なキャッチングだった。
だが、まだ安堵はできない。吸い込まれるように収まった白球を一塁へ送球するには、赤杉さんの力だと難しい。
だからこそ、仲間を頼るのだ。
「優希ちゃん! こっち!」
「そらよッと!」
ボールを救い上げるように捉えたモーションのまま、グローブから直接放るようにして球は近くにいた二塁・朝比奈さんの手に渡る。ボールを握っていたのは一瞬。埋蔵金発掘作業で鍛えられた朝比奈さんの肩が、球を白き矢へと変える。豪速を帯びたボールは、今一番届けたい人の元へ。
「「届け!」」
朝比奈さん声に、俺自らの声が重なる。キャッチャーには手の届かない、はるか前方で行われている刹那の攻防。俺にできることは、間に合ってくれとただ願うのみ。
希望が繋がった先に待っているのは、最も信頼を置ける友。
「――大丈夫だ」
一塁審判が高らかにスリーアウトを宣告する。零点で抑えた一回の表。歓喜に沸く観衆を背に、俺たちはベンチへと戻る。
去り際、一塁を守っていた竜胆と目が合った。
――お前も、もっと仲間を信じて頼れ。
普段通り眠そうな竜胆の目が、そう語っているような気がした。
九球で決めきった杏橋や、土壇場でチームワークを見せた二年A組の仲間たち。俺がどれだけ手を伸ばそうとも届かなかったボールを、彼らは繋いでくれた。
責任を背負うことだけが、部長の仕事じゃない。そう思い知らされた。
背中を任せられる奴らをチームに選んだのは俺だ。だったら、最後まで仲間を信じて戦いたい。この十人で、ひとつのチームで。
それを率いる俺の仕事はまだ終わっていない。
ベンチで休む仲間たちに、まずは心から礼を述べた。
「ひとまずお疲れ! 皆んなのお陰でこの回は無失点をもぎ取れました。ホントに、一緒に戦ってくれたことに感謝です!」
「そういうのは、試合が終わってからにしたまえよ」
九条先輩のツッコミに、誰からともなく声をあげて笑った。この調子なら、まだ戦っていけそうだ。
夏の暑さを残した球場。あの日と同じ、蒼天。
さっさと勝って締めようと思う反面、俺たちの物語の延長戦がどこまでも終わらずに続けばいいのに、と俺は密かに願った。
☆ ☆ ☆
試合再開。
「一点でも多く取れば勝ちよ」
どこで覚えたのかわからないミスター語録を披露した青桐さんの言葉を受け、一番打者・杏橋は再びグラウンドに立つ。次は打者として、先発二刀流投手・野村と再び向かい合う。
マウンドとホームベースの間に流れる静かな緊張。それは瞬く間にグラウンド全体を包み込み、唾を飲む音さえ響き渡るような異空間を作り上げる。
「よお、お侍。さっきはチームに助けられたみたいやけど、今度は正真正銘の一人試合。ほな、串刺しにしたるわ」
マウンドから見下ろす野村の眼光に負けじと、杏橋はバットを掲げる。
「それは御免です。戦いの中に散ることを栄光とするのは、武士ではなく騎士の生き方ですからね――っ!?」
杏橋が言い終わる前に、速球は放たれた。
圧倒的速度を保ちながら迫る球そのものが、王者の風格を纏っている。野村の、津田島工業の執念が凝縮された豪速の球に反応すらできず、無残にストライクが告げられる。さすがの俺も、隣で見ていた竜胆も目を見開いた。
杏橋の表情が引き締まる。
野村の口から、嫌味はもう聞こえない。
そこにあるのは、勝利めがけてただ突き進む男同士の真剣勝負。
執念を噛みしめて部を率いてきた者。
再びゼロに帰する野球部の次世代を背負う者。
夏の珍事がなければ、ここで相まみえることはなかったかもしれない。来年の夏まで、ぶつかり合うことはなかったかもしれない。高校野球の神様が狂わせたあの試合、たった一度の運命の逆転が巡り巡って、球場を湧かせるこの名勝負を作り上げた。
そして今、長かったそのマッチアップに幕が降りる。
「ストライク、バッターアウト」
振り上げられたバットは、虚しくも空を斬り裂いた。周囲からの落胆の声がちらほら上がる。マウンドに一礼し、杏橋はバッターボックスからゆっくりと退いた。先程まで野村が抱いていた悔しさと、確固たる決意を噛み締めながら。
次こそは、絶対に勝つ。
果たして、彼らが再びぶつかり合う『次』が、打順が一巡した後になるのか、それとも来年の夏になるのか。それは高校野球の気まぐれな神様だけが知っている。
☆ ☆ ☆
主人公が主人公であり続けるには、相当な運が必要だ。
少し肩を落とした様子でベンチに帰ってくる杏橋を見るなり、ふいに青桐さんの言葉が頭をよぎった。
守備の際、一回撃たれはしたが、杏橋は『九球で抑える』という約束を果たした。だから、その後の攻撃がどうであれ、結果を悔やむ必要はない。
そうフォローしようとして、俺はあることに気づく。
杏橋の目は死んでいない。それならば、かける言葉は慰めではない。
「ありがとな、杏橋。無事に繋いでくれて」
「……お役に立てましたか?」
「ああ。きっと竜胆ならバトンを受け取ったはずだからな」
杏橋は、何もタダで崩れ落ちたわけじゃない。
十球。それが、杏橋が打ち取られるまで粘った回数だった。九球で三人を抑えた杏橋が最後に見せた
それだけじゃない。最初は度肝を抜いた野村の球速だけど、何度も見ていれば目が慣れてくる。竜胆をはじめとするチームの面々は徐々に野村の急速に対する恐れを遥か超えていた。
そして迎えた竜胆の打順。満を持して、その大きな図体がバッターボックスを踏みしめる。
その寸前だった。
「ちょっと待ちたまえ竜胆君! 今しがた、七尾から連絡があった。寿祭に出店する調理団体の緊急責任者会議が先ほどあって、不参加だった団体は今すぐ電話してほしいそうだ!」
俺のすぐ隣に座っていた九条先輩から声が上がる。観衆や敵の総大将・野村からも視線が注がれる。
「わかりました。俺の打順が終わったら連絡しときます」
「それでは遅い! 僕が怒られる前に頼む! 後生だ! この通りだ!」
九条先輩の土下座に、一同が騒然となる。
気のせいかな。この間から、先輩の土下座の価値が凄い勢いで暴落している。このままだと、オオカミ少年みたいに、いざという時に信じてもらえなくなる日は近いかもしれない。
さすがに見るに耐えなくなったのか、竜胆が先に折れた。
「……わかりました。球場の裏で少し電話するので、どなたか代打に回してください」
申し訳なさそうに走り去る竜胆を尻目に、監督の青桐さんが頭を抱える。この試合に代打は存在するけど、寿祭の責任者は取って代わることは不可能だ。竜胆の苦渋の決断を止めることはできない。
ため息交じりに、青桐さんはタイムアウトを宣告した。
「こんなことで代打を使いたくないけど、仕方ないわね。それじゃ、有峰君と交代するのは沖君、頼んでもいい――」
「いや、僕が出よう」
そう言うなり、九条先輩はバットを片手に肩を回し始めた。あまりの自由奔放さに一度騒然となる。
「いいかい、僕は責任者だ。寿祭関連のけじめは僕が付けよう」
最後の最後まで無茶苦茶な先輩の背中は、それでも頼もしい。着いていったら大抵後悔すると知っていても、なぜか追いかけたくなる。
グラウンドへと歩み出す九条先輩を止める者は誰もいない。振り返ることなく、悠々とバッターボックスに向かう。
「それにさ、四番バッターにも憧れてはいたが、代打の救世主はその上を行く格好良さがあるだろう?」
打席に立つ、中肉中背の先輩。今は、勝負を預けたその背中が何よりも大きい。
チームメイトから華を託された九条先輩の『奇跡』が、球場を勝利に湧かせる——
——ことは決してなかった。
結論から言えば、綺麗な三球三振。九条先輩の大振りなバットは三回とも虚空を薙ぎ、大口を叩いた割には無力にも散って行った。
拍子抜けしたような表情の九条先輩がベンチへ戻ってくる。『こんな展開は微塵も予想していなかった』と顔に書いてあるけど、多分俺たちも似たような顔をしているのだろう。
一回の裏、ツーアウト、ランナーは無し。
切り札である代打も使い果たし、残すは後一人。次の打者は……
「……俺じゃねぇか」
立ち上がり、少し冷えた体を起こしてを奮い立たせる。先輩が爆速でアウトを貰ったせいで、アップが不十分だった。
グラウンドに出て行く際、九条先輩のような大袈裟な真似はしない。なんとなく縁起が悪そうだからだ。その代わり、仲間たちの声援を背中でしかと受け止める。
「長嶋君。さっさと僕の尻を拭って戻って来たまえ!」
「お前なら打てッからよ、自信持てよ!」
「紫苑先輩。苦しい時こそ、己を克えるのです」
「どかんと一発! 当てれば勝つからね!」
「我が文華軍は永久に不滅よ。決めて来なさい、長嶋君」
左手の親指を立てて返す。数々の言葉に背中を押される中で、俺が一番望んでいる言葉だけが聞こえてこない。無理もない、アイツにはアイツの戦場があるのだから。
覚悟を決め、バッターボックスに立つ。あの夏と同じ光景。あの時は最後、俺が野村の球を打ち上げて試合が終わった。野村にとっては本当の意味でのリベンジが始まる。
紫苑、お前はどんな野球をしたい?
自分の胸に問うまでもなく、次々に答えは浮かんできた。部長として気張ることなく、責任を負うことに拘らず、チームを信じて、自由に——だけど、今の俺を突き動かす衝動はこの言葉に凝縮されている。
「勝ちたい!」
大会の絡む重要な試合でもなければ、大事な物が掛かっているわけでもない。だとしても、負けてもいい試合なんてものはない。
夏の試合も、勝利目掛けて全力を尽くして戦った。その延長線上にあるものは、全力以上を出さねば掴み取ることはできないだろう。だからこそ、俺は勝つことに貪欲でいたい。
野村の眼力が俺を貫いた。凄まじい集中力を肌に感じ、思わずグリップを握る力を強める。
緊張の第一投。軌道、速度、全ては読めている。俺は狙い通りの位置目掛け、必中の一振りを放つ。
だが、その球をバットが捉える寸前に、風が軌道を大きく変えた。鈍い音とともに、俺はファールを貰う。
手元に震えが走った。
「——一ノ太刀、だったか?」
野村がほくそ笑む。そのまま、二投目のフォームへ。
完全に油断していた。杏橋と十球を交えた際、稼いだ時間で野村も練習をしていたというのか? たった十球で、杏橋の風を読む技を会得したというのか?
今一度野村に目を向ける。そこにあったのは、ひたすらに自己を高める執念の塊。
続く二投目。投球は予測していた軌道から大きく右にズレた。暴投としか思えないようなそのボールは、三日月のような見事な弧を描いてミットに収まった。
「——二ノ太刀」
おい、ウソだろ? こっちの技まで習得したのか!?
野村という男は、この試合に向けて俺たちが想像も出来ないような鍛錬を積んできたに違いない。だが、野村の強さはそこに留まらない。試合中である今も、物凄いスピードで進化し続けている。
杏橋の投げ方を模倣しているのは、自軍の技で俺たちが敗北を迎えるという姑息なシナリオを描きたいからではない。
勝つために、あの日の敗北を超えるために必要だから。それが、野村の言う本当の『リベンジ』だ。
ならば、真っ向から迎え撃つまで。
「面白え!」
筋肉を一瞬強張らせ、体の震えを抑え込んだら自然と笑えてきた。
こんな機会、今後何十年生きたとしても滅多にない。
夏の大会で勝敗を分けたマッチアップ。対峙するのは、強くなったかつての好敵手。窮地に立たされ、ピンチを切り抜けられるのは打席に立つ俺しかいない。
誰が見ても、漫画の主人公としか思えない境遇。青桐さんの言う通り、もう一度こんな状況に立ち会えるのは豪運かもしれない。
もしも高校野球の神様がいるのなら。神様がもう一度、俺に主人公になれと言うのなら——
「——俺たちは、ここにいる全員で勝つ!」
この決意を、どうか聞き届けてくれ。
野村が三投目を放つ。そのフォームは、見覚えがあるどころか何度も目蓋に焼き付けた投法。杏橋が大成するまで練習に付き合った日々が、この一振りに力を与える。
その球、こちとら何百回も見てるんだよ!
「らアぁッ!」
本日二度目の快音が球場に響く。守備の陣営の間を縫うようにして走るライナーの姿を追うまでもなく、俺は駆け出した。
畜生、ホームランじゃなかったか。
高校野球の神様が俺の願いをどう聞き入れたかは分からない。本当に俺が主人公なら、このヒットで試合が終わっていたかもしれない。でも、まだ負けていない。今は希望を信じて前へ。
俺が足を止めたのは二塁。そこから先は無謀と踏んでの判断だった。
ベンチを見れば、チームメイトたちは安堵の表情を浮かべている。だが、まだツーアウトの窮地を脱したわけじゃない。
この状況が好機か否かで考えれば、
「……非常にマズいな」
ようやく、文華高校の置かれている事態に気がついた。
野村のスライダーが完璧に杏橋を模倣しているとすれば、右打者がそれを打つことはかなり難しい。そして青桐さんが決めた打順通りなら、後に続くバッターは全員右打ち。
がくっと膝から崩れ落ちそうになる。
ここまで繋いだ希望をふいにしたのは俺だ。あの時、俺がホームランを打てていれば、こんなことにはならなかった。己の無力さが歯痒い、勝ちたいと驕った自分が恥ずかしい。俺は、俺たちはもう——
「君にこの言葉を授けよう」
ふいに耳元で聞こえた声。周囲を見渡しても、二塁周辺には審判以外誰も……審判?
「『世界を変えられるって本気で信じた奴が、本当に世界を変える』」
塁審が野球帽のつばを上げる。その下に現れたのは、いつぞやの河原で背中を押してくれた色黒の兄ちゃん。なぜ、この人がここに?
「私が人間として最も尊敬するスティーブ・ジョブズが、広告に使った言葉だな」
「あの……貴方は一体、何者なんですか?」
「試合が終われば、きっと分かるんだな。それよりも、ほら、彼はまだ本気の目を宿している。諦めるにはまだ早いんだな」
お兄さんの指差す先。そこに立つのは、左肩にバットを担いだ最も頼れる存在。
「申し訳ない、電話が長引いてしまった……えっ、俺の打順なのか?」
希望はまだ、潰えていない。
そこでようやく思い出した。代打をスタメンから出す場合、打順が入れ替わるルール。次の打者は本来なら九条先輩だけど、このルールにより先程順を飛ばされた竜胆が打席に入る。
そして、竜胆は左打ちだ。
「竜胆! 頼むから打ってくれ!」
夢も希望も勝利も、全て託して叫ぶ。『奴の変化球には気を付けろ』とジェスチャーで伝えると、竜胆はしかと受け止めた。
「……大丈夫だ」
今日一番聞きたかった言葉が、諦めかけていた心に再び火を灯す。逆境をも感じさせないその響きを信じて、俺は親友の演じる攻防の行く末に勝利を願う。
突如、不思議な感覚が身を包んだ。
竜胆がバッターボックスに立ってからは、スローモーションのように景色が流れていく。野村の放つスライダーは、指の一本一本が球から離れていく様子もはっきり見えた。何度見ても目を見張るような軌道をゆっくりとボールは辿り、竜胆めがけて飛ぶ。
一瞬、竜胆が頷いたように見えた。彼もきっと同じ速度の中に、勝利を見据えている。
——俺は絶対に打つ。だから、突っ走れ。
眠たそうな瞳が発する声なき声を聞き届けた俺は、脇目も振らずに駆け出した。
ゆるりと流れていた低速の世界が、背後に遠のいていく。全身の筋肉にありったけの力を注ぎ、一秒でも速く皆の待つ場所へ。
「おオォォォォァァァッ!」
耳元で吹き荒れる風の音の中で、小さく金属音が響く。それが有効打か否かを確認している暇はない。速度を落とさずに三塁を踏み締め、その先へとひた走る。
勝ちたい、最初はそう願った。次に、全員で勝ちたいと願った。その願いを高校野球の神様が聞き届けてくれたのかは分からない。
ただ、今にも消え入りそうな希望を紡ぎ繋いだその先にあるのが勝利ならば、これほど幸いなことはない。風の中に微かに聴こえたチームメイトたちの声援を、誉れと共に俺が持ち帰ろう。
「届いてくれよ!」
目前にホームベースを捉えた。飛び込みながら、一センチでも遠くへと手を伸ばす。
酸素が充分に行き届かない頭の中で、仲間の姿が浮かんだ。いつも最後で決めきれない俺たち野球部二人、それをフォローする面々。荒らすだけ荒らして活躍のない委員長に、ミスター語録に染まる監督、更には甲子園とは程遠い小さな復讐を煮えたぎらせた野村に至るまで。
誰一人、徹頭徹尾少年漫画の主人公らしさに溢れていた奴はいない。それでも、そんな人々が集まることでドラマが生まれる。熱くなれる。それが、高校野球の神様がくれた答えだとするならば——
——やっぱり、野球ってのは最高だな。
伸ばした手の先端がとらえたホームベースの感触。それを最後に、俺の意識は遥か彼方へと遠のいていった。
☆ ☆ ☆
首筋にひやりとした感触を覚えて、目を覚ます。あの夏と同じ心地よさが身体に染み渡る。
この感覚は、まさか……!?
全てが報われる瞬間に期待を漲らせて起き上がる。だけど、そこにいたのは追いかけ続けた恩師の姿ではなくセルフレームの眼鏡——
「なんだ、青桐監督かよ……」
「なんだって何よ。悪かったわね、わたしで。あと、この試合をもって監督は解任になったから、呼ぶなら彼方でいいわ」
試合中は文華高校が使っていたベンチに俺は横たわっていたようで、そのすぐ隣に青桐監督……もとい、彼方が冷えたペットボトル片手に腰掛けている。
不貞腐れた様子の彼方の表情には、安堵が垣間見えた。時計を見れば、試合中から数えて十分以上は気を失っていたようだ。かなり心配をかけてしまったかもしれない。
原因は、おそらく頭部の強打。ホームベースに飛び込んだ時に、酸素の薄い頭を地面にぶつけたんだろう。未だにじわじわとした妙な感覚が側頭部に残っている。
「悪いな、最後の最後に迷惑かけちまって」
「問題ないわ。偶然にも審判の中にお医者さんがいて、応急処置が早かったのが幸運だったみたいね。よかった、元気そうで」
そんな都合よく医者がいたとは、驚きだ。色黒の兄ちゃんといい、その医者の何某といい、今回の審判は曲者ぞろいだな。
曲者ぞろい、といえば。
「あれ、ほかの皆んなは?」
「試合終了の挨拶もそこそこに、一目散に学校に帰っていったわよ。今頃は、寿祭の仕事をどっさり貯めていたツケを払わされているところかしらね」
「ふーん。ってか、そういう彼方だって忙しくないのか? 何だっけか、第三世界なんたら、ってやつ?」
「わたしは……いいのよ、今は」
急にそっぽを向いた彼方は、いつになくしおらしい様子だった。劇場型完全犯罪の二つ名を掲げる彼女が言葉を濁すのを、初めて聞いたような気がする。
ふうとため息を吐き出し、彼方は背を向けたまま寂しそうに語る。
「あなたとわたしはどこか似ていると思ってたけど、見当違いだったみたいね」
「どういうことだ?」
「キャプテンとしての人選もマネジメントも豪快と見せかけてすごく精巧。だけど、それは青春という夢舞台の上にみんなを巻き込んで楽しむため、なのでしょう? 誰かの心に何かを残したいわたしとは目的がまるっきり違う。なんというか、凄い才能なのに、自己満足的に使うのは少し勿体ない気がするわ」
俺は押し黙った。
彼方の作り上げる演劇や、その過程を何度か見てきたことはある。世界観もさることながら、一番目を引くのは演目に込められた強いメッセージ性だ。巧みに計算された演出を施すことで、それは観る者の心に届いていく。
対して、俺のやっていることは自己満足に過ぎないのかもしれない。誰かのためとかじゃなく、単にグラウンドの上で誰かと一緒に全力で遊ぶ。どちらがいいか悪いかといえば判断に困るけど、創造性の有無で言えば差は明らかだ。
「でも、楽しかっただろ?」
俺は笑いながらそう言うしかなかった。少しばかり考え込む様子の彼方の反応を、じっと待つ。これまでの経緯を、彼方なりに思い出しているのかもしれない。
彼方が顔を上げる。その顔に、もう憂いはない。
「ええ、たまには悪くないわね。今日は呼んでくれてありがとう」
きっと、彼方も笑みを返すだろうと踏んでいたから、予想通りだ。
常に陰から物語を操るだけだった彼女を十人目のチームメイトとして夢舞台に引きずり込んだことに、創造性の欠片くらいはあったのかもしれない。
夢、と聞いて思い出した言葉がある。
「夢を見るから人生は輝く」
「……出たわ、お決まりの薫ちゃん語録。まったく、いい加減諦めたらどうかしら。あの人、あなたじゃ太刀打ちできないくらい素敵な旦那さんがいるんだから」
どこか不服そうな顔を浮かべる彼方に『諦めならとっくについてるよ』と返す。一瞬、ぱっと花が咲いたように表情が華やいだのは気のせいだろう、きっと。
そして、なぜ彼方が薫ちゃんの旦那さんを知っているのかに関しては疑問に思うところだけど、大した問題ではないので置いておくことにする。
「野球も、もう引退なのでしょう? 立花先生のこと以外に、やり残したこととかはないのかしら?」
「あー、未練とは別なんだけどさ。俺の高校野球人生は、デカい夢追ってた甲斐あってすげぇ楽しかったんだ。それが終わった今、どうしようかなーって思ってさ」
弱小のまま終わった高校野球に未練はない。でも、あこがれや追いかけるものがなくなった以上、肩の力が抜け切ったのも事実だ。
隣を見れば、クスリと彼方が笑っている。
「……なんだよ」
「え? そんなの決まってるじゃない」
こちらに向けられた眼鏡越しの双眸。近くで見ると、思っていたよりもずっと大きな瞳には、何かを企むようないつもの眼光が再び宿っている。しおらしさは微塵も感じさせない、黒幕の風格を取り戻していた。
「また次の夢に向かって、走り続ければいいのよ。並大抵の主人公には難しいことかもしれないけど、あなたならきっとできるわ」
秋の匂いを微かにに含んだ風が、ふわりと彼方のダークブラウンの髪を撫でる。未だ暑さ残るグラウンドで、その静かな煌めきに俺は目を奪われそうになり、慌てて『行こうぜ』とごまかす。
来たる寿祭に向けて、怒涛の日々が再び訪れる。激務の日常へと戻っていく俺たちの頭上を、一羽の水鳥が弧を描きながら飛んで行った。
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