7話 中編


 ――文化祭まであと14日・S――



 主人公って、そもそも何だろう。

 高校から歩くこと十分。河川敷の市民グラウンドを覆う曇天を仰ぎながら、俺はふと考えた。

 結果として『設立一年目の野球部が強豪打破』というスポーツ漫画さながらのサクセスストーリーが出来上がり、俺は主人公としてもてはやされた。

 でも、それも過去の話。

 今の俺は、スポーツ漫画の主人公という肩書じゃなくて、主人公だった過去を背負いながら生きているにすぎない。

『主人公が主人公であり続けるには、相当な運が必要だと思うわ。誰かを熱くするほどのストーリーの中心に存在できる。それだけでも凄い豪運なのだから、それがひと段落した後も物語が続いていくなんて、もはや奇跡よ』

 演劇部の脚本家・青桐さんならそう言うだろう。

 そもそも、俺は主人公であることにこだわりはない。野球は団体競技だから、青桐さんの言う次の奇跡を起こすのは俺である必要はない。ただ、奇跡を起こせるヤツと共に夢を見ていたいだけ。

 俺の憧れは、俺だけのものじゃない。少なくとも、あの夏を駆け抜けたチームメイトたちにとっては。

 現に俺の目の前にいるのは、夏を共に戦い、新生野球部となった今でも奇跡を起こしうる仲間の筆頭だ。

「というわけで、杏橋きょうばしー! さっさと投げてこいよ!」

「紫苑先輩、お静かに。風の音が聞こえなくなりますから」

「お、おう……」

 杏橋・L・まさ

 一年の奇才ピッチャーを一言で表すなら、まさしく『侍』だ。

 琥珀色の瞳を除けば外見は純日本人。日本刀のようにすっと伸びた背筋。目を細め、風に耳を貸す。

 沈黙。熟練の老剣士のような佇まいの後輩を、俺はじっと見つめる。

 風が、凪いだ。

「——来たり」

 老獪なフォームで振りかぶり、放つ。

 杏橋の投げる球は高校野球基準でもそんなに速くない。でも、爽快な音を立てて俺のミットに収まったその球は、確かに風を『斬った』。

「仕上がったな」

「いえ。このままでは、まだなまくらですよ、紫苑先輩」

 杏橋の喋り方や野球のプレーには独特のリズムがある。本人曰く、『南米の音楽と津軽三味線をどっちも聴いて育ったから』らしい。

 彼のリズムの波と、周囲の風がマッチした時、杏橋が投げる球は様々に変化する。アンデスの地に生まれ、風とともに生きた球児の為せる技だ。

 情熱の紫苑、奇術の杏橋。

 文華高校野球部唯一のバッテリーは、そう呼ばれているらしい。

「悪いな、杏橋。土曜日だというのに来てもらっちゃってさ」

「構いませんよ、文化祭準備でどうせ登校してましたから。それよりも、果たし状が来た二日後に試合とは、いささか時期尚早ではありませんか?」

「九条先輩が設定した日程が今日だったんだ。俺もびっくりしたぜ」

 決意からたった二日。ろくに準備もできていないまま、試合当日の今日を迎えた。

 いま、試合会場の市民グラウンドにいる自軍は俺と杏橋だけ。津田島工業の奴らは既に揃い踏みで、既に少し離れた場所で練習を始めている。

 勝てるかどうか以前に、試合できるのかもわからない。杏橋が浮かない表情をしているのも、そのせいだ。

「試合開始までに我々以外誰も来なかったら、私が切腹して謝るしかありませんね……」

「怖ぇこと言うなよ。最悪、守備なら俺たちが一人も打たせなければ理論上は負けないから、やれるだけやってみようぜ」

「ですが……」

「杏橋に言葉を授ける。『幸運は、勇敢な者のもとに訪れる』。イギリスの有名なことわざなんだとさ」

 こつこつメモして作ってきた『薫ちゃん名言集』から、お気に入りのひとつを選んだ。何度も俺の背中を押してくれた言葉だ。杏橋の表情から曇が消える。

 試合が決まってから、俺は九人の知り合いに声をかけた。『寿祭期間だから行けるか分からない』との返事が大半だったけど、絶対に来てくれると俺は信じている。

「ことわざにしてはいささか直球ですが、いい言葉ですね、紫苑先輩。では、参りましょう。津田島工業の皆様がお待ちです」

 先ほどの不安を微塵も感じさせない悠然たる足取りで、杏橋は津田島工業が整列する場所に向かう。

 ——頼もしくなったな、杏橋。

 自らの取っ付きづらさのせいで類稀な才能を存分に発揮できなかった中学野球部時代。野球への道を諦め、野球部のない高校に来た彼に手を差し伸べたことは、間違いじゃなかった。

 よし、と気合いを入れ直し、俺は未来の部長兼主人公の後を追った。



 ☆     ☆     ☆



 津田島工業の監督と話を済ませ、敵側の部員の面々と向かい合う。俺も杏橋も体格に恵まれてる方じゃないから、城壁のような彼らの並びに軽く身震いがした。

「よぉ長嶋、杏橋。久しぶりやのぉ」

 キャプテン格の男は、野太い声でこちらを睨みつけている。夏の大会の時より若い番号を背負っていた。

「二刀流の野村くん、だっけ。先輩たちが引退してから一軍に上がれたんだね、おめでとう。そしてよく覚えててくれたね」

「忘れるわけがないやろ。屈辱と共に、お前らの名は刻み込まれとるからの」

 それも今日で仕舞いやけどな、と勝ち誇ったような視線が降り注ぐ。剣の如き姿勢を保っていた杏橋の身体が少しばかり揺らぐ。

「しかし他の連中はどうした、尻尾巻いて逃げたんか? それとも、今日はお前らを叩き潰し放題のキャンペーンか?」

 まあ、さすがに気になるよね。

 案の定、津田島工業のほかの部員たちも首を傾げ始め、杏橋は脇腹に拳を当てている……おい、エア切腹の構えはやめてくれ。

「バカには見えない部員が七人ほどいるんだよ、うちには」

「ほぉ、こいつぁ驚いた。高校生になってまだ透明ランナー走らせとる人望無しがおったとはなぁ」

 透明ランナー、懐かしいな。

 小学校の頃は人数が足りないと、決まって活躍してくれたもんだ。あの頃も、必死に友達を誘って、透明ランナーなしでも試合できるのを夢見てたっけ。

 それは、今、この時だってそうだ。

 互いに礼、と審判(メットの中の正体は不明)から声がかかる。俺たちは一礼を済ませ、握手すべく右手を伸ばして——



「待たせたな、諸君!」



 その姿を見た瞬間に、悟ってしまう。

 ああ。奇跡を起こすのは、もう俺の仕事じゃないんだな、と。

 主人公であることにこだわりはなかったはずだった。なのに、いざお株を奪われてしまうと悔しさがこみ上げる。それほどまでに、颯爽と現れた九条先輩以下八名の助っ人たちは眩しかった。

 だから、胸の奥が熱くなる前に言ってやるのだ。

「最初から分かってましたよ、このタイミングで絶対来てくれるって。九条先輩、捻りのない演出好きですからね」

「ひねっ……それはそれとして、せっかく来てやったんだ。お礼の一つくらい言いたまえよ」

「まあいいですけど……そのデカい旗どっから持ってきたんですか?」

 朱色を基調とした布地に金の墨で書かれた『寿』の文字。風に舞い上がる様は昇り竜。肩に担ぐのも一苦労な大きさの旗を、九条先輩は掲げている。

「書道部が寿祭に出す作品をちょっと借りただけさ。格好いいだろう?」

 思いっきり職権乱用だった。

「はいはい、ありがとうございます。それから、今日来てくださったことも感謝します」

 満更でもなさそうに頷いているユニフォーム姿の九条先輩を尻目に、俺はもう一度津田島工業のチームに向き直った。

「なんや、いきなりぞろぞろ出て来おって。そないなチームで、本当に野球できるんか?」

「できるさ、このなら。リベンジなんてさせないからな」

 今度こそ、主将同士握手を交わす。

 ——絶対に、勝つ!

 互いのプライドと最高の景色を賭けた戦いの火蓋が、切って落とされた。



 ☆     ☆     ☆



 試合を始める前に、まずは打順を決めなければならない。夏の大会では俺と薫ちゃんが策を練っていたけど、今回はその手のスペシャリストを起用した。

「ほら、さっさと始めましょう。まずは九条先輩、ルールの確認をお願いします」

 監督席にてセルフレームのメガネを光らせるのは、二年・演劇部・青桐彼方あおぎりかなた。計算的策略なら彼女の右に出る者はいない。

「うむ。勝負の形態は、延長戦をイメージしてほしい。一イニングずつゲームを進め、点差がついた時点で終了だ」

「えっ、それじゃ最短一回の裏でゲームセットってことスか?」

 ネガティブドラマーこと二年・軽音楽部・沖橙矢おきとうやが驚きの声を上げる。

 交渉の際、ルールの取り決めを行なったのは俺と九条先輩だ。『文化祭準備期間ゆえにあまり長い時間を試合に割きたくない』という建前のもと進めていたけど——

「そうだね。体力勝負じゃ勝ち目がない俺たちにとっちゃ好都合だ」

 三年・寿祭実行委員広報・八嶋瑛人やしまえいとには真の狙いを見抜かれてしまった。この人も九条先輩同様、侮れないんだよなぁ。

「ふむ。更には、選手交代は基本禁止で、代打を出す場合は本来の打順の人と打順を入れ替える形で行う、か……どういうことだ?」

 ルールの詳細を確認しながら首を傾げる親友、二年・A組責任者・有峰竜胆ありみねりんどう

 確かに、このルールは複雑かもしれない。

 例えば、七番の選手が二番目の打順で代打に出る場合は、本来の順番を飛ばされた二番打者は打順七番の時に打席に立つ、という特殊なルール。これを言い出したのは九条先輩なので、何を企んでいるのかは分からないけど。

 ただ、選手交代を禁止にしたことはかなり大きい。

「詳しいことはわかりませんけど、これなら人数不足のハンデを少しはカバーできますね」

 一年・郷土史研究部・錦野小次郎にしきのこじろうがアフロを揺らす。

 俺は感慨にふける。

 コイツらをチームメイトに選んだ理由は至極単純、『一緒に野球したら絶対面白いヤツ』だ。

 それぞれ別件で忙しいにも関わらず、皆んな全力でこの場を楽しみ、勝つことに希望を見出している。全員が同じ方向を向いて試合に臨めることが、何よりも嬉しい。

 ……約二名ほど、不安要素がいるけど。

「ちょっ、何すんだよあおい! いきなり頭触ンなっての!」

「はいストップ! 動かないで優希ゆうきちゃん、せっかくのメッシュが野球帽にかくれちゃってるよ!」

「別にいいだろ、どうせ動いて乱れるんだし……ってか、なんでオレたち淑女二人が呼ばれてるンだ? どう考えても長嶋の人選ミスだろ」

「何言ってるの、野球はジェンダーフリー競技だよ! 有名な都市伝説には『ベーブ・ルース女性選手説』ってのがあってね——」

 ねえよ。

 ユニフォームが用意できなかったので、体育着姿で勝手に盛り上がる女子二人を尻目に俺はため息をついた。淑女とは一体……?

 まあ、いつも通りだからいいけどさ。

 俊敏さと熱血さを買ってスカウトした、二年・軽音楽部部長・赤杉優希あかすぎゆうき

 発掘で鍛えた腕っぷしを見込んだ、二年・郷土史研究部部長・朝比奈葵あさひなあおい

 これに俺と杏橋を加えた十人が新生野球部のメンバーだ。

「それで作戦なのだけれど、狙いは単純、短期決戦で勝つ。それだけよ」

 青桐さんはサラサラとペンを走らせ、打順とポジションを振り分けていく。

「守備はできるだけ野球部のバッテリー二人が打たせないように頑張る。打順は野球経験者から順に振っていくから、攻撃に転じた野球部を中心にさっさと一点をもぎ取る。いいわね?」

 作戦の要すぎるだろ、野球部。

 本来ならチーム全員が野球部なのだから、当然といえば当然だけど。予想通り、打順は若い方から杏橋、有峰、長嶋となった。

「待ちたまえ青桐君。四番はぜひとも、僕に任せてくれないか?」

 キラキラした目で訴えかける九条先輩に、一同唖然とする。調子の良さだけはホームラン王だな、この人。

「僕は寿祭の最高責任者だぞ! 一番責任のある役を買って出ても何らおかしくはないだろう?」

「……わかりました。じゃあ、四番は九条先輩にお願いしますね」

 意外にもすんなり九条先輩の要求が通った。ちらりと青桐さんの方を向けば、『あなたたちの打順でどうにかしなさい』と逆に睨まれてしまった。

 ああ、やっとわかった。

 青桐さんが九条先輩の要求を飲んだのは、断るのが面倒だったわけでも勝敗に影響はないと考えたわけでもない。

 九条豊臣という男は、良くも悪くも毎回俺たちの予想の遥か上を超えていく。それを、俺を含めた全員が、心のどこかで期待しているのだ。

「時間がないわ、九条先輩、音頭をお願いします」

「よかろう! さあ、肩を組むぞ!」

 円陣が組み上げられていく。おそらく、もう二度と組むことのない十人が輪を成した。

 夏の大会だと俺の役目だった円陣の掛け声。今は、奇跡も夢も一緒にひとりの男に託してある。

「よし! 気合入れていくぞ!」

「応——ッ!」

「ウゥゥ—————————」

「……九条先輩、サイレンを口で鳴らすボケは昨今だとちょっと古いですよ」



 ☆     ☆     ☆



 九球しか投げませんから。

 若きエース、杏橋がマウンドに上がる前、最後に俺に耳打ちした言葉だ。泰然自若を体現したその響きには、風にそよぐ稲穂のようなしたたかさが満ちていた。

「まったく、なんで打者より投手の方が侍っぽいんだよ」

 俺もホームベースの後方、キャッチャーのポジションについてからひとりごちた。視線の先、六十フィート前方に立つ若武者には当然聞こえていない。

 頬に風が当たる。杏橋はすでに目を閉じ、風を読む姿勢に入っている。この風がきっと勝利を運んでくれるだろうと、自らを鼓舞する。

 試合が始まる。

「プレイボール!」

 水鳥が鳴く。それはコンドルの嘶くが如く、甲高く、どこまでも遠く——

 ——放つ!

 杏橋の第一投目は、サイン通りのチェンジアップ。ただでさえ速くない杏橋の球は、ミット目掛けて緩く飛んでくる。

「遅えんだよ!」

 津田島工業ほどの猛者からすれば、その球速は遊戯に等しい。コマ送りのように迫る白球の中心を、硬質なバットが的確に叩く——ことはなかった。

 ミットに収まったボールを杏橋に投げ返しながら、ヘルメットの中でほくそ笑む。

 これだから、奇跡を起こせる天才は小憎い。

 何が起きたのかわからないような表情の一番打者を横目に、二投目のサインを送る。杏橋は小さく頷いて、第二投を放った。

「だから、遅えってんだよ!」

 完璧な弧を描くバット。誰もがヒットだろうと確信した。誰もが一瞬息を止めた。

 だけど、またしてもバットに当たる寸前でボールは軌道を変えた。ホログラムで映されたボールがバットをすり抜けるような感覚。確実に芯を捉えたと思ったが最後、既にボールはミットの中にある。

 ツーストライク。あと一球で凡退。

「どうなってんだ……?!」

 ついにバッターは狼狽を露わにした。

 後がない状況、迫り来るのは魔球。崩れ去った常識と戦術、リベンジにかける思い。様々な圧が、ありとあらゆる方向から彼を押し潰す。

「どんまい松井、次こそ打とうぜ!」

「大丈夫、気にすんな! お前ならできる!」

 仲間の声援さえも、重くのしかかる。

 俺は知っている。人間にとって一番怖いのは、『未知』だということを。そして、球界に現れた歴代の未知の権化を、人は『怪物』と呼んで恐れ、また崇めるのだ。

 松井と呼ばれたバッターが目を見開く先には、侍が鞘に手を掛けるが如く三球目を構える『怪物』の姿。

 その前髪が、風に揺れた——

「—— 一ノ太刀」

 魔球を恐れたのか、はたまたその状態を見極めるためにあえて見送ったのか。松井の大振りなバットが振られることはなかった。

 決め球は、。放たれた球は白い残像を描いてミットの中に消えた。決して曲がることなく、一直線に。

「ストライク、バッターアウト!」

 気づけば、両校生徒を含む大勢が市民グラウンドを囲んでいる。観衆にひしめくのは歓声ではなく騒めき。

 確かに、側からみればただの地味な三振。遅い球を見切れなかったバッターの失態にしか見えないだろう。

 だけど、それでいい。本当は何が起きたのかは、グラウンドの上の当事者だけが知っていればいい話だ。

「――二ノ太刀」

 続く二人目の打者も三球で抑えたところで、津田島工業からタイムの宣言が入った。



 ☆     ☆     ☆



「いやぁ驚いた! 噂には聞いていたが、杏橋君のピッチングは脱帽モノだな! あれ、どうやって投げてるんだい? 僕にも投げられるのかい?」

 ベンチに戻ってくるや否や、九条先輩は大はしゃぎで杏橋の背中をバシバシ叩いて迎えた。

 はっきり言ってしまえば、ボールの投げ方だけなら誰でも真似できる。でも、杏橋の武器はもっと別のところにある。

 杏橋が読んでいるのは、バットがボールを捉える直前の風、すなわち、だ。その限られた場所で、風の影響で最大に変化するようボールを投げている。血の滲むような努力なしで成せる技じゃない。

 さらには、奇術のような芸当を一切自慢しない謙虚さも、杏橋の美徳だ。

「はい。九条先輩なら、きっと数日もかからずマスターなさいますよ」

「本当かい!? なら今度教えてくれたまえよ!」

「ええ。機会があれば」

 有頂天の九条先輩に杏橋はうやうやしく会釈をし、こちらを振り返る。

 その表情は、今までに見たことのないような曇りがあった。

「お疲れ杏橋! いつもに増して調子いいな」

「……あれのせいです」

 杏橋が指さす先にあったのは、九条先輩が持ち込んだ錦色の旗。助っ人たちが駆け付けた後めっきり見なくなったと思っていたけど、ホームベースから遠くないところに揺らめいている。試合の進行には邪魔にならない場所だけど、明らかに不自然な場所にある。

「あの旗のせいで、いつもに増して風が読みやすいのです」

 強風に従順な旗は、確かに風向を知るには打ってつけだ。それが俺たちのチームにとってたまたま追い風に働いた。でも、僥倖にもかかわらず、相変わらず杏橋は浮かない顔をしている。

「よかったじゃねえか、うまく投げられたんだからさ。そんで、何が気に食わないんだ?」

「……あの旗を置いたのは、誰なのでしょうか?」

「そりゃ、旗を持ってきたのは九条先輩だから……!?」

 急に背筋が凍り付いた。

 確か、あの旗は九条先輩が勝手に書道部から持ち出したものだ。権力を振りかざして強奪したその旗に、関わりたい人はそうそういない。だから、意図的に九条先輩が置いたもので間違いないはずだ。

 なら、なぜ先輩はあの不自然な場所に置いたのか。

 答えは、ひとつしかない。

「先輩が私たちの練習を見ていたのは今朝、たった一回。しかも、大慌てでこちらに向かっているさなかだったはずです。ということは、つまり――」

「――手練れのバッターをも下した杏橋の技を、その一瞬で見抜いたってことか」

 ふと横を見れば、はしゃぎすぎた九条先輩が青桐監督に窘められている。懲りずに馬鹿笑いする先輩は、無邪気そのものだ。

 ……そんな、まさかな。

「九条豊臣とは何者なのか。先輩がご存じならば、ぜひ教えていただきたく思います」

「生憎と、俺も詳しくは分かんねえんだ。時に敏腕、時にポンコツな実行委員長、とだけ……まあ幸い九条先輩は味方だ。今は、あと一人打ち取ることだけ考えようぜ」

「御意。今朝の、使ってみます」

「おうよ、頼りにしてるぜ!」

 未だ腑に落ちないような表情の杏橋は、再びマウンドへと戻っていった。

 タイムアウトが終わり、ほかの選手も腰を上げる。津田島工業側は、四番だった野村のむらを代打で送り込んできた。いよいよ敵将との直接対決。

 杏橋の未完成の隠し玉、九条先輩の動向、力を増した野村の執念。懸念すべきところは方々にあるけれど、今の俺の仕事はこの回を零点で抑えることだけ。

 大丈夫、大丈夫とどこかで聞いたような口癖を繰り返し、俺は再び防具を取った。

 

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