7話 前編


 ——文化祭まであとX日・S——



 蒼天に、一羽の白い水鳥が弧を描く。

 初めて赴いた試合相手の高校のグラウンドにて。死闘の末に出会ったその景色を、俺は絶対に忘れない。

 県立文華けんりつぶんか高校野球部の最初の夏は、二回戦敗退で幕を閉じた。八割が助っ人の急増チームで、よくここまで来れたと思う。全ての力を出しきった今、俺たちはグラウンドの隅に仰向けに寝転ぶ。数回しか着ていないユニフォームが、土の色に染まる。

 敗北が悔しくないかといえば、まったくそうとも言い切れない。だけど、全力で挑んだ結果であれば、何を悔やんでも仕方がないのかもしれない。

「もう悔いはないさ。ありがとな、俺の夢にここまで付き合ってくれて」

 空を見たまま、同じ景色を共有する仲間たちにそう告げた。俺一人のワガママから始まった野球部も、コイツらのお陰で今では試合をできる人数・レベルになっている。

「ああ。俺たちも楽しかったよ、紫苑しおん

 同じように力尽きて寝転がってる野郎が計九人。誰が発した言葉かは分からない。

 一回勝って、一回負ける。全国どこにでも転がっている、弱小野球部としてはありふれた結果。ニュースにもならない些細な出来事。

 それが、なぜかたまらなく清々しい。

「よし、帰ろうか。俺たちのホームグラウンドへ! その辺の砂いっぱい拾ってけよー」

「ホームグラウンドなんて、もともと設立されてないでしょ〜?」

 重たい上半身を持ち上げると、首筋にひやりとした感触。我らが野球部顧問・薫ちゃんが押し当てたペットボトルの水が、真夏の太陽を反射してキラキラと輝く。

 先生の方が輝いてますよ、なんてなかなか言えない俺に、薫ちゃんの先制パンチが入る。これがホントの先生パンチ、なんてボケる気力も今の俺には残っていない。

 急に薫ちゃんは背筋を伸ばし、まっすぐな瞳に教師の色を湛えた。

「皆さんを見ていて、思い出した言葉があります。『夢を見るから人生は輝く』。モーツァルトの言葉です。二回戦敗退は残念でしたが、部の創設から半年足らずにして掴んだ人生の輝きは、皆さんが勝利を夢見て努力した結果です」

 何が言いたいかと言いますと……と薫ちゃんは言葉を探して言い淀む。そして程なく、いつもの顔つきに戻った。

 沢山の名言を知っている先生が最後に見つけたのは、誰かの引用ではなく、おそらく薫ちゃん自身の心のうちに浮かんだ言葉。

「お疲れ様〜、格好良かったよ」

 気力、完全復活。

 美人な憧れの先生によるこの一言だ。むしろこれで復活しない方がおかしい。

「……うっす、感無量です! 俺、野球部やってて良かったです!」

「セリフだけ聞けば立派な勝利者インタビューね〜」

 九人の球児と、ひとりの美人顧問が蒼天の下笑い合う。俺たちを下した相手の高校のチームから、羨ましげな視線が刺さる。かまうもんか、これは俺たちだけの物語だから。

 高校入学からこの瞬間まで、おおよそ一年半。野球部という渦の中心でがむしゃらに走り続けて、掴んだ『イチからチームを作り上げ、高校野球の舞台で戦う』という夢。その一部始終を知るものは、決まってこう結論づける。

 長嶋紫苑の物語は、少年漫画の主人公さながらだ、と。

 その言葉が何を意味するのか、この時はまだ深く考えていなかった。



 ☆     ☆     ☆



 ——文化祭まで、あと17日・S——



 蒼天に、一羽の白い水鳥が弧を描く。

 思い出の中じゃくて、文化祭実行委員会本部のパソコン画面の中で行われるその光景に、俺は早く終わってくれと念を送る。

「先輩。それ、どう頑張っても水鳥には見えないですよ」

「知っとるわ! 少しでも思い出に寄せて美化しようとしてる俺の努力を労われ!」

「別にそんなに怒らなくても……あー、でもわかる気がします。ただでさえ、それイラつきますからね」

 クルクルの天パを掻きながら、後輩も困り顔を浮かべている。郷土史研究部というマニアックな部活の一年で、確かあだ名はパイソン……だったと思う。もくもくと実った天然アフロは、パイソンというよりバイソンに近いけど。

 パソコン画面は依然として、青い背景に数個の白い丸が単調に回っている。



 ——Windows更新プログラムが作動中です。電源を切らないでください。現在2%完了中——



 畜生! この作業、今日中に終わらせなきゃいけないんだぞ!

「先輩のCtrl+Sのスライディングが間に合ってればセーフですけど……」

「まあ気にすんな、こまめに保存してたから、たぶん大丈夫だ……それよりもパイソン君、もしかして野球好きなクチなのか?」

「錦野です。まあ、人並みには」

「それじゃ、ぜひ君も野球部に——」

「結構です」

 このやり取りも回数こなしてきた。発足から間もない寿祭運営補助員だけど、かなり長い時間を割いていたことを改めて実感する。

 先日の二次審査を経て、すべての出場団体が決まった。広報担当の八嶋先輩からの依頼で、それらをパンフレットに載せる際の校閲をしていた矢先に起きた出来事であった。

 することも特にないから、今は更新が終わるのを待ちつつ後輩と談笑に花を咲かすとしよう。

「時にパイソン。演劇部と軽音楽部が結託して一つの団体になったらしいぞ」

「えっ、マジですか!? あの人たちむっちゃソリが合わなかったじゃないですか! 何それ、すげえ観たいです、そのステージ」

「ああ。その時間、休憩もらえるよう頼んでおくよ」

「あざっす! 長嶋先輩最高です!」

 喜びのあまり飛び上がるパイソン。

 コイツ、テンションの振れ幅に朝比奈ちゃんと近しいものを感じる。さすがは郷土史研究部、少数精鋭の育成が進んでるな。

 実際、運営補助員の仕事は例年の比じゃないくらい忙しい。文化祭に使える時間が増えたことも要因だけど、もっと別の原因があるような気がする。

 それこそ、全体的にクオリティを上げなければいけない別の何かが。

 まあ、確証はないから、単なる気のせいかもしれない。毎年委員長のやり方次第で運営方法は変わるから、今年が単に忙しいだけだと信じたい。

 しっぽを振る犬のようにご機嫌なパイソンは、落ち着きのない様子で自らのデスクから立ち上がった。

「俺ちょっと八嶋先輩呼んできます。スペアのパソコンを借りれないか、頼んでみます!」

「おう、ありがとなパイソン。郷土研も忙しい時期なのにさ」

「パイソンではなく錦野ですよー!」

 すでに部屋から飛び出したパイソン。廊下越しに聞こえる訂正の一言さえ、元気が満ち溢れている。



 ☆     ☆     ☆



 しばらく待ってみたけど、パソコンの更新はまだ20%と、一向に終わらない。他にやるべき仕事もないので、応援歌を歌ったり素振りしたりしても、時計を見れば数分しか過ぎていない。

 パイソンの方も八嶋先輩を探すのに難航しているようだ。意気揚々と飛び出してった割には、今や俺の携帯に泣き顔のスタンプが送られてきている。

 若いっていいなぁ、とジジくさいことを考えてしまった。

 俺にもエネルギッシュな時期があった。

 高校野球に憧れ始めたのは、幼少期に読んだ漫画が原因だった。チーム設立に始まり、甲子園優勝で幕引き。自分も高校生になったらそんな物語の中で生きたい。その夢を叶えるために、少年野球や中学野球部も必死で食らい付いて、高校はあえて野球部のないところに進学した。

 入学当初は野球部設立を目指して、校内各所にポスターを貼りまくった。結局、祈願成就まで一年間を要したけれど、形になった夢の出発点。

 確か、そこに書かれた文言は……

「追い風上等、逆境も至高。王道も覇道も笑って回れ。野球部募集、経験不問。応募条件は面白い奴、だったかね? 古い漫画みたいで僕は好きだぞ」

 扉が、静かに開けられる。

 ふいに本部に現れた男。俺でさえ青臭すぎて忘れようとしていた謎のキャッチフレーズを、暗唱するような物好きはあまりいない。

 ……というか、どうしてこの人は俺の考えてることが分かるんだ?

「ちわっす。九条先輩またサボりですか? 今度こそ八嶋先輩に怒られますよ」

「サボりではない! ここは僕の仕事場だぞ! キミの方こそ退屈に任せて何をしているのだ?」

「夏に向かって飛んで行った水鳥の軌跡を、ぼうっと眺めていただけですよ」

 九条先輩はポカンとしている。かく言う俺も、自分が何を言ってるのかよくわからなかったけど。

 もう一度、脳裏にあの夏の空が浮かんでくる。最近になって、頻繁に思い出すようになった。

 どうやら、俺は思いのほか多くの物をあの夏に置き去りにしてきたのかもしれない。

「なら取り戻せばよいではないか」

「……九条先輩、さっきから俺の心の声読みまくるのやめません? なんすか、寿祭の運営資料読んでたら読めるようになるんすか?」

「案外わかりやすいのだよ、キミは。ハッキリと顔に出るからね」

 急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

 そうなのか、案外自分では気づかないもんだな。今度から能面でも被って仕事しよう。

 それよりも、と九条先輩は目を細めた。

「紫苑君。キミはもう一度、真剣勝負のグラウンドに立ちたいとは思わないか?」

「……どういう意味ですか、それ」

「良い話があるのだよ、野球部に」

 九条先輩はポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出して寄越した。『果たし状』の文字が達筆で力強く書かれている。

 嫌な予感がする。

「これ、どうしたんですか?」

「朝一番で登校したら、津田島つだしま工業高校の生徒が校門で待ち構えていたのだよ。僕が来るなり、これを野球部に渡せと頭を下げてきたんだ」

 津田島工業高校。

 地域に名を馳せる野球の名門校だ。

 県立高校ながら県大会には毎年上位入賞、過去に甲子園出場を果たした数も一度や二度ではない。

 そんな強豪が設立一年目にして弱小のウチに頭を下げてまで勝負を仕掛けてくる理由が、今年はある。

 手紙の内容をさっと読んだけど、俺の予想とほとんど相違なかった。

「リベンジ戦の要求、ですね」

「うむ。奴ら、相当悔しそうだったからな」

 今年の夏の大会。我ら県立文華高校の初戦の相手は、津田島工業高校。

 対戦カードが決まった時、野球部設立一年目の挑戦は、早くも絶望の淵に立たされた。何せよ、抽選でシード権を引き当てた僥倖にもかかわらず、初戦の相手が優勝候補ときた。練習量も経験も、なにより部員の数が桁違いの相手との戦い。急造チームの九人は頭を抱えた覚えがある。

 しかし、歴史的な番狂わせは起きた。

 勝利の女神がほほ笑んだのは、なぜか俺たちだった。

 要因はいくつもある。相手チームが一軍を温存して二軍で挑んできたこと、その二軍がチームワークに欠けていたところ、やけに俺の肩の調子が良かったこと、朝の占いで一位だったこと、などなど。

 嬉しかったなんてもんじゃない。

 喜びのあまり失神しそうになる経験なんて、人生で一度味わうか否かくらいだ。実際は激闘を終えた疲労感や地元メディアの取材応答が積もりに積もって、素直に喜ぶような時間はあまりなかったけれど。

 だからこそ、見逃していた。

 悔しさを煮えたぎらせ、リベンジの機会を虎視眈々と狙っていた津田島工業の存在を。

「で、どうする? 受けて立つのかい?」

 安易に是とも否とも言えない問いに、俺は即座に答えられなかった。

 単純に考えれば、俺たちが挑戦を受けるメリットはない。リベンジされようとされまいと、別に何かが変わるわけでもない。

 だいたい、津田島工業はプライドを奪い返すのが目的で試合を挑んできた。そんな相手に対しての損得勘定はもとから意味をなさない。

 あとは、俺たちが試合をしたいかどうか。だけど……

「……辞退させていただきます。今年度の試合はもう終わりって決めたので。それに、寿祭も近いですし」

 夢は叶った。だから、もう満足だ。

 次の夏を待たずして、俺は野球部部長の座を退く。悲しいかな、うちの高校の部活は特別な大会等がない限り、三年進級時に引退する暗黙のルールがある。

 高校野球の世界にもう未練はない。このまま趣味程度に後輩の練習に付き合って、するりと引退する。それが、俺に残されたたった一つの道だ。

「そうか、残念。もし引き受けてくれるなら、細かい条件や日程の設定くらい手伝おうと思っていたんだが……」

「九条先輩が、ですか?」

「うむ。キミたちを見ていると、高校生のうちにしかできない高校野球の世界に一枚噛んでみたくなってね」

 それに、と補足した九条先輩の目は、また心の内を見透かすように仄暗い笑みを湛えている。



「未練はなくとも、有り余る情熱に行き場を与えてあげることくらいはできるんじゃいかな?」



 思わずはっと息を飲んだ。

 未練はない。その言葉に嘘はない。

 だけど、あの夏と同じ光景に出会えるなら。ゼロから走り出して、死ぬ気で戦って、あの蒼天を仲間と一緒に仰げるのなら。

 今は回想することでしか味わえない最高の瞬間を、リアルに生きることができるなら。

 俺はもう一度、そこにたどり着きたい。

「やっぱり少し考えさせてください」

「了解した。なるべく早く結論を欲しいところだが、今日はゆっくり考えるといい。先方には僕が連絡しておこう。ご丁寧にメールアドレスまで乗せちゃってくれてるようだからね」

 新手のラブレターかな? と九条先輩はおどけてみせた。

 パソコンの更新画面は50%にも達していない。依然、クルクルと白い水鳥、否、球体が回っている。

 最初はイライラしながら見てたその画面も、次第に親近感が湧いてきた。

 リベンジマッチを引き受けるか、否か。

 まとまらない考えが、俺の脳内でクルクルと弧を描き続けている。



 ☆     ☆     ☆



「ってことがあったわけよ」

 ふーん、と興味なさそうな相槌を打った竜胆りんどうは、すっかり眠そうな表情を浮かべている。クラスの銀河鉄道喫茶も、かなり軌道に乗ってきて繁忙を極めているらしい。

 最終下校時刻はとうに過ぎている。沈みゆく夕日を仰ぎ見ながら、俺たちは野郎二人で河川敷に腰を下ろしている。いまいち青春っぽいかは否かは意見が分かれそうなシチュエーションだ。

「……で、校閲の方は大丈夫だったのか?」

 そっちの方が気になるのかよ。

「ああ。その後すぐに八嶋先輩が代わりのパソコン持ってきたからすんなり終わったよ。案の定、サボタージュ満喫してた九条先輩はこっぴどく叱られてたけど」

 御歳十八、敏腕委員長による世界一情けない土下座。見ているこっちが居たたまれなくなった。

 なんだかんだ九条先輩も疲れが溜まっているのかもしれない。半分くらいは自分が蒔いた種なんだろうけど。

「それはそれとして、紫苑とパイソンって知り合いだったんだな。あいつ葵のお気に入りで、今回の運営補助員も理不尽に押し付けられたらしいぞ」

「まあ、そんな気はしてたよ。竜胆こそ、郷土研の幽霊部員なのに顔馴染みなんだね」

「最近ようやく顔出し始めたからな」

 まだ本題に触れないのかよ。

 竜胆が郷土研に顔を出し始めたというのはたいへん興味深い。でも、それを深掘りしていたら脱線だけで放課後が終わりそうだ。

「御託はこのくらいにしといて、紫苑がどうしたいのかをさっさと聞かせてくれ。津田島工業の挑戦受けるのか?」

 話が逸れまくったのは誰のせいだよ、と内心突っ込む。

「正直、迷ってる。夏の大会のメンバー全員には連絡したんだけど、みんな寿祭で忙しくてそれどころじゃなさそうだった。実際に来てくれたのは竜胆だけだよ」

杏橋きょうばしは?」

「クラスにかかりきりだよ。一年生ってつくづく元気だよね」

 杏橋・L《リチャード》・まさ

 もう一人の野球部員にして、日系アルゼンチン人の奇才ピッチャー。俺とバッテリーを組んでいたかつての相棒も、今や普通のクラスの人気者に落ち着いてる。

 夢は、終わった。

 俺以外のメンバーは、みんな新たなステージで動き始めている。俺だけが浸っていた思い出は、遠い昔に過ぎ去った。

 共に夢を追う仲間はもういない。

 無意識についたため息には、寂しさと決意が入り混じっている。

 だから、決めた。

「俺もこの件を降りて、足を——」

「あらら? 夕暮れの河川敷に男が二人。何も起こらないはずがないんだな?」

「「何も起きねぇよ!」」

 思わずデカい叫びが出た。

 声のした方を振り返ると、三十代くらいのランニングウェア姿の男性が驚いた様子で橋の上から覗いていた。年相応の落ち着いた様子や、ぴっちりしたウェアが示す細身かつ筋肉質な肢体。王子系の八嶋先輩とはまた違った格好良さがある。

 ちなみに、俺はその人と一ミリも面識がない。

「竜胆の知り合い?」

「いや。あんな若い頃の郷ひろみみたいな人知らんぞ」

 若い頃の郷ひろみを実際に見たことはないけど、妙にしっくり来た。

 この人、一体何者なんだ?

 お兄さんは軽快な走りでこちらに駆け寄ってくる。

「君たち文華高校の野球部だろう? 事情は分かったんだな。実に青春っぽい、どこか青臭くてキラキラした悩みなんだな」

 悪い人ではなさそうだけど、どうにも謎が多すぎる。

 なぜ、ユニフォーム姿でも坊主頭でもない俺たちを野球部だと分かったんだ? 俺たちを知ってたってことは、高校内部の関係者か? というか、だな、って何だよ。

「あの、どちら様ですか?」

「名乗るほどではない。強いて言うなら、ちょっとした人生の先輩、なんだな」

 胡散臭え……。

 一瞬、津田島工業の人間かとも思ったけど、夏の試合では見かけた覚えがない。

 未だ警戒を解かない俺たちを前にして、そのお兄さんは一向に名乗らない。

「悩める君たちに、お節介ながらも人生の先輩から助言を授けるんだな」

「いや、だからその前に誰なんだよ」

 竜胆が睨む。普段の仏頂面とデカい図体のせいで迫力満点の竜胆の眼光にも屈することなく、お兄さんは口を開いた。



「君たちに言葉をひとつ授けよう。『前進をしない人は後退をしているのだ』。ドイツの詩人・ゲーテの言葉だな。激動の時代を努力の才で乗り越えた彼の、力強い言葉だ」



 お兄さんに、『ある人』の姿が重なって見えた。

 すっかり忘れていた。

 俺の背中を押してくれた偉人の言葉の数々。それを授けてくれた、野球部の十人目の仲間を。共に戦い、時に支えてくれた最大の恩師。

「受け売りのそのまた受け売りなんだけどね。妻が掛けてくれたこの一言で、私も救われたんだな」

 薫ちゃんならきっと、この人と同じように飛び込めって言うはずだ。

 顧問と部長、恩師と一生徒。そんな関係が過去になっても、教えてくれた言葉だけは、思想だけは過去にしたくない。

 昔の仲間がいないなら、新たな仲間をもう一度探そう。強大な相手だろうと、夏とは比べ物にならない闘志を燃やしていようと、俺たちは全力を尽くすまでだ。

「あんた、ひょっとして……」

 竜胆はまだお兄さんへの緊張が解けていないらしい。まったく、こんないい言葉をもらったというのに。

「それじゃ、私はこれにて失礼するんだな。少しでも今の言葉が参考になったら嬉しいんだな」

「いや、だからちょっと……」

「はい、ありがとうございました! ほら、竜胆も頭下げろって!」

 走り去るお兄さんの背中に一礼。未だ戸惑う竜胆の頭も、無理やり掴んで下げさせる。

 俺はもう迷わない。

 薫ちゃんの言葉を胸に、もう一度、ゼロからすべてを作り上げて、最高の景色を見よう。

 まずは、隣にいる親友から。

「竜胆、また協力してくれるかい?」

「俺はかまわないけど……紫苑、さっきの人って絶対に――」

「サンキュー竜胆! んじゃ、九条先輩に連絡すっか!」

「……まあ大丈夫だな。知らぬが仏、って場合もあるだろうし。頑張れよ、主人公」

「おうよ!」

 何かを渋る竜胆の様子だけが気がかりだけど、俺の決意は揺るがない。

 茜色の空。白い水鳥が夕日の中に黒い影を落としながら、弧を描いていた。


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