5話


——文化祭まであと23日・R——



 白球が河川敷の空を駆ける。

 やがてそれは吸い込まれるようにキャッチャーミットに収まり、ぽふりと気の抜けた音を響かせる。再び放られるだろうそのボールの軌道を予測しながら、俺はグローブを頭上に掲げた。まぶたの上から差し込む朝日が眩しくて思わず目を細める。その隙に、気づけばフライは足元に転がっていた。

「どうした竜胆、しばらくぶりの朝練で腕が鈍ったか?」

「かもな。なんなら俺が野球部の助っ人してたこと忘れかけてたくらいだ」

 ボールを拾い、土を払って今度は正面に力の限り投げる。俺みたいな素人でも、体重を乗せればある程度速さが出る。キャッチャーミットから帰ってきた音は、パンっ! と爽快に朝の空気を裂いた。

 キャッチボールの最中、紫苑はひたすらに上機嫌だ。かく言う俺も、日頃の肩の荷や悩みの種を忘れて存分に羽を伸ばしている。

「おっ、いい球。捕るしか能がない貧弱なファーストにしては及第点ってとこかな。うちの新エースには劣るけど」

「無茶言うな。本職には勝てん……っと」

 紫苑から放たれる直球が左手のグローブに収まる。一瞬呼吸が止まる。夏の大会ではこんな球を平然と幾つも捕っていたことを思うと、自らの衰えや練習の大切さを思い知る。

 ちなみに新エースというのは、紫苑とバッテリーを組む二人目の野球部正式部員の一年だ。野球から足を洗おうとこの高校に来たにもかかわらず、紫苑に才能を見出され野球から逃れられなかった悲しきピッチャーである。実力は折り紙付きだ。

 疲れが見え始めた俺の様子を見かねたのか、紫苑は苦笑を浮かべている。

「このくらいにしとくかい?」

「そうしてくれると助かる。仕事に筋肉痛を持って行きたくないからな」

 俺たちはグローブを外し、節々を伸ばす。川にかかる橋の下に移動すると、そこは程よい日陰を作っておりいささか冷涼だ。

 スマホの通知を確認して、紫苑は肩を伸ばしにかかる。

「うちのエースは朝からクラスの準備で来れないってさ。補殺、刺殺についで忙殺とは、こりゃ将来選手としても社畜としても有望だね」

「紫苑、頭や口よりも肩を回せ。凝り固まって動かなくなるぞ」

「ははっ、違いない」

 現在、正式な野球部員は二名。部長、四番キャッチャーの紫苑と、一年生の奇才ピッチャーが一人。助っ人を呼ばなければ試合もままならない人数だ。

 そのうえ、文華高校には現在グラウンドがない。数十年前の校舎建て替えの際、もともとグラウンドだった場所に新校舎を建てたせいだ。長年取り壊さずに保存されていた木造旧校舎の解体が気まり、それが終わるまでグラウンドの存在はお預けとなる。

 野球部にとって向かい風しかない状況で、できる練習は河川敷キャッチボールがせいぜいだ。

 ひととおり筋肉を伸ばし終えて、俺たちは河川敷に腰を並べた。

「なあ紫苑。ひとつ気がかりなことがあるんだが、聞いてくれるか?」

「わかってるさ。青春について、だろ?」

「なんだ、気づいてたのか」

 立花先生絡みの話となると紫苑は察しがいい。

 先日のホームルーム以来、ずっと脳内でしこりのように引っかかっている言葉。立花先生が放った一言『今しかない青春の時代』が、今も不自然に響いている。

 どうやら俺と同じ疑念を紫苑も抱いていたらしい。

「俺さ、一回薫ちゃんに『青春って何ですか?』って聞いたことあるんだ。野球部設立の前だから、一年の頃だったかな? その答えがさ、『先生は〜あまり青春って言葉が好きじゃないんです〜』だったんだよ。理由を聞いても、いずれ分かるよの一点張り。確か竜胆もその時居合わせてたっけ?」

「ああ。青臭い質問だなぁと内心呆れながら聞いてた」

「わかる。今考えたら恥ずかしくて……って、それはこの際どうでもいいさ。なんで薫ちゃんは青春を嫌うのか、はたまたなぜ今回だけ青春って言葉を使ったのか。そこがすっきりしないんだ」

 紫苑は腕を組みながらうーんと唸る。

 ともすれば、取るに足らない些細な問題に聞こえるかもしれない。たかが言葉一つでここまで悩むことじゃないのかもしれない。ただ、俺たちにとっては、簡単には捨て置けないほどの違和感だった。

 俺は別としても、紫苑は青春の風に当てられて生きてるタイプだ。『高校野球って今しかできないじゃん!』と高二の春に野球部を設立したり、『好きなものには全力投球!』と立花先生に対して本気だったり。だから、青春を嫌う理由を考えるのにはとことん苦労している。

「アレかな。薫ちゃん、自らの青春時代に難があって青春を嫌ってきたけど、結婚してから嫌いでもなくなった、とか?」

「万に一つもないだろ。あのゆるふわ強キャラの立花先生だぞ。大層な青春時代を過ごしたに違いない」

「だよね。うーん、それじゃ今のところはなんも思いつかないから打つ手なしってことで」

 はいこの話は終わり、と紫苑は手を叩く。ギブアップが早い気もするが、俺も納得のいく案が思い浮かばないのだからこれ以上の話は不毛だ。

 橋の上が騒がしくなる。一般生徒たちの登校はピークを迎えている。俺たちはすっかり冷えて重くなった腰を上げ、グラウンドのない高校の敷地を目指した。

 そもそも青春って何だ? 俺は今、青春の中に生きていると言っていいのか?

 教室への道すがら、ふいに頭をよぎった疑問に答えは出ない。



 ☆     ☆     ☆



 始業時刻まで、まだ余裕がある。

 教室へ入る瞬間に、俺の肩書きは『野球部の助っ人』から『店舗責任者』へ変わる。激務の只中に放り込まれる前に、紫苑に確認しておきたいことがあった。

「紫苑、運営補助員の方は大丈夫か?」

「うん、滞りなく。九条先輩が仕事振るの上手すぎるからだいぶ効率的に楽させてもらってるよ。あれはきっと、前世はエジプトでピラミッド建築責任者とかやってたクチだね」

 運動の後とは思えないような涼しげな顔で紫苑は答えた。拾いづらいボケは当然のごとく無視。

 運営補助員は、簡単に言えば実行委員の補佐のようなものだ。寿祭出展団体から各一名ずつ派遣し、準備期間の間は事務作業等を、本祭中は警備誘導等を手伝う。

 二年A組からは紫苑が買って出てくれた。かなり面倒な役回りを引き受けてくれたことには感謝しかない。

 そういえば、と紫苑は顔をこちらに向けた。

「その九条先輩なんだけど、今日俺たちのクラスの視察に来るよ」

 ほへぇ、とまぬけな声が出た。

 九条豊臣くじょう・とよとみ。面識はなくても寿祭実行委員長という肩書と熱の入った所信演説だけは俺も知っている。中二病、社畜、理想の上司。すでに接触した知人たちによる噂は千差万別。

 それだけに実際に対面するとなると、緊張が走る一方で少し興味を引かれる。

「明日の二次審査の前に様子を見たいんだとさ。業務がひと段落ついてから来るから、どのタイミングかは未定らしいけど。なんでうちのクラスなんだろうね。もっと力の入ってるところはいくらでもあるだろうに」

「……二次審査が絡んでるのか?」

「それもまた妙な話だよね。一次審査の時に時間と場所が被らなかった団体は、毎年だいたいスルッと二次審査通るから、それこそ講堂を巡ってバチバチやってる演劇部や軽音楽部を見りゃいいのに」

 なんでだろうね、と紫苑は肩をすくめた。

 二年A組『銀河鉄道喫茶さざんくろす』は一次審査を無事に通過した。演劇部と軽音楽部(もう一団体あった気がするけど多分勝負にならないだろう)のみが同じ時間と会場を希望したため、どちらかが潰れるまで二次審査でしのぎを削り合う。これも毎年恒例だ。

 まあ、俺からすれば対岸の火事。実施がほぼ確定したクラス企画での責任者を全うすることに注力したい。

 二年A組のクラスの引き戸の前で深呼吸。一日のタイムスケジュールを頭の中で一巡し、よし、と一歩を踏み出す。

「おはようございま——」

「素晴らしいッ!」

 ……誰?

 約一名、見知らぬ生徒がクラスの内装を穴の開くほど見つめている。時折『おぉ』『ふおぅ』と不気味な鳴き声をあげているその生徒は、終始興奮が収まらない様子で作業中のクラスメイトのほうに向かい始めた。あえなく捕まってしまった内装の棟梁格の女子生徒は困ったように応対している。

「何だねこの完璧な世界観は! 本物の木造客車の中にいるようだ。この大量の木材はどこから調達したのだ? まだ予算が降りる前だろう?」

「旧木造校舎の解体で出た廃材を貰ったんです。詳しいことは責任者に聞いてください」

「それなら凝りに凝った夜空のようなステンドグラスは何だ? 光の微妙な加減でキラキラ瞬くだなんて、数日間でできるものなのか?」

「大きなセロハンを一枚買って、くしゃくしゃにしたり重ねたりして色味の違いやガラスっぽさを出しました。ですから詳しいことは責任者に……」

 おい、事あるごとに俺に押し付けようとするな。あと、さすがは内装棟梁、自分のこだわりをすらすら言えるあたり、リフォームの匠の素質があるな。

 見事に俺の出鼻をくじいてきた不法侵入者は、なおもキラキラした好奇の目をクラス中に向けて輝かせている。

「なあ紫苑。あの不審者、責任者権限で追い出していいか?」

「おいバカ! あのお方こそ九条委員長だぞ」

 ……マジか。

 このぶんぶん飛び回る蜜蜂みたいなテンションの人が九条豊臣なのか。もっと荘厳かつ魔王的な雰囲気なんだと思っていた。

 当の九条委員長はこちらの視線に気づくと小さく手を振った。細やかな所作は独特のクセがある。

「もういらっしゃったんですね、九条先輩」

「うむ、おはよう紫苑君、そして……」

「有峰です。一応二年A組の責任者やってます」

「噂には聞いてるよ。確か、りゅーたん……だったかな?」

「……竜胆りんどうです」

 りゅーたん。響きは可愛いけど、この中肉中背の男に言われてもキュンと来ない。どうせ呼ばれるならもっと可愛い女の子から呼ばれたい。などと、俺らしくないことを考えるくらいにはしっくりこない。

「さて、巡視の続きだ。案内を頼んでいいかい?」

「もちろんですよ、先輩」

「よし、行こうか紫苑君、りゅーたん!」

「……竜胆りんどうです」

 テメェわざとやってんだろ、と出かかった言葉を飲み込んだ。俺らしくない暴言が浮かぶほどには、やはりしっくりこない。

 九条先輩は気にした様子もなく、すっかり世界観ごと模様替えした教室を物色して回る。案内するどころかスタスタと勝手に先を行く。仕方なく、俺たちは後を追った。

 教室の半分を木造客車風のフロアー、もう半分に厨房や更衣室など裏方スペースを設けている。九条先輩は『女子更衣室使用中』の札を一瞥してから俺たちを振り返って尋ねた。

「じゃ、手始めに女子更衣室から参ろうか」

「ぶっ飛ばすぞ」

「冗談冗談。ほら、様式美とかお約束とかの類で……オーケー、僕が悪かったからその振りかぶった硬球を下げてくれないかい?」

 この人本当に敏腕と名高い委員長なのか?

 コホンとわざとらしく咳払いをして、九条先輩は委員長の目つきに戻る。

「全体的な進捗はどれくらい進んでいるんだい?」

「店舗の内装は八割ほど。衣装やメニュー等は悪戦苦闘しているところもあって、まだまだ俺も見通しが立ってない状況です」

「ほう、全体の指揮と管理は君の担当なのかね?」

「ええ、一応責任者なんで。経営戦略とかは紫苑に手伝ってもらってますけど、各棟梁と話し合って最終的な方針や締め切りを決めたりしてるのは俺です」

 作業をかなり前倒しで行っているのは、俺の案だ。寿祭直前は部活との兼ね合いで忙しくなるクラスメイトも増えてくることを見込んで、あえて予算どころか実施が決定する前から急ピッチで作業を進めている。

「なるほど。紫苑君と竜胆君、いいコンビじゃないか」

 思わず互いの顔を見合わせる。悪友のきょとんと腑抜けた面ときっと同じ表情を俺も浮かべているのだろう。

 成り行きで始まったこのクラス企画。自主的に買って出てくれた内装・調理・衣装などの棟梁たちによって支えられてきたが、一番頼りにしていたのは紫苑だ。今のところすんなり問題なく進んでいるのも、なんだかんだコイツと馬が合ったからやっていけてるのかもしれない。

 感慨にふける俺たちをよそに、九条先輩は次なる目的地を目指す。

「さてと、お次は……伏せろ君たち!」

 何かを察知した九条先輩につられて、とっさに俺たちはその場にしゃがむ。先輩は学習机に敷かれたテーブルクロスの陰から耳をそばだてている。壁を一枚隔てた廊下は、緊迫した空気が張り詰めている。

 声の主は同じクラスの赤杉。男勝りな口調の彼女が、聞き覚えのない別の誰かと鉢合わせたようだ。

「ねえ赤杉さん、今ここに中肉中背の三年生男子が通らなかったかしら?」

「おッす七尾先輩。それらしき人なら十分くらい前に見たけど、どうかしたンすか?」

「馬鹿野郎、そいつが九条くんよ。もう逃げ出さないように実行委員会本部で幽閉しておくから気にしないで。ありがとう」

「……九条、だァ? 先輩、オレも探すの協力します! 待ッてろ九条、『第三世界連合』について洗いざらい吐かせてやる!」

 走り去る足音と共に声が遠のいていく。

 背後を見れば、九条先輩が青い顔をしてぶるぶると震えていた。背中に感じるかすかな揺れと温もりは、全自動洗濯機に背中を預けたときのそれにどこか似ている。

 ……もしかして、本来の業務が片付く前にサボタージュして視察に来ていたのか?

「さっさと戻った方が今後のためですよ、先輩」

「い、言われなくともわかってるさ」

 動揺を隠しきれない先輩を前に、少し愉悦を覚える。さっきまで完全に握られていたペースを取り戻し、ようやく俺も本調子だ。

 完全に外の足音が消えるのを確認してから、九条先輩は机の下から出てきた。

「今日のところは失礼する。明日の一次審査でまた会おう」

 どこかぎこちない足取りで教室の出口を目指す。滑稽なその後姿をぼーっと眺めていると、突然振り向いた九条先輩と目が合う。

「ああそうだ、言い忘れていたよ」

 口角が吊り上がる。その不敵な笑みは、これから幽閉や拷問に満ちた未来が待っているとは思えないほどの余裕を湛えていた。



「君たちの乗った銀河鉄道がどこに向かって走るのか、行きつく先に果たして幸せは待っているのか。よく考えておくといい」



 九条先輩が去った後も、俺たちはしばらくの間呆然と立ち尽くすことしかできなかった。



☆     ☆     ☆



 迎えた午後。

 昼食後のまどろみを経て、俺は高校を背に朝渡った橋を引き返す。時折、九条先輩の言葉が脳裏にちらついては消えていく。それを振り払うべく、雑多なことを考える。

 補殺、刺殺、忙殺。紫苑がキャッチボールの際に呟いたスリーアウトを脈絡もなく思い出した。それに次いで、朝の九条先輩による『視察』と来れば、最後を締めくくるのは今から向かう『偵察』。何かと『さつ』に満ちた一日を過ごしている。次に来るのが『警察』とか『殺伐』とかでないことを祈る。

 偵察の目的地は、駅前のスタバ。衣装と調理の棟梁から、アイデアに行き詰まったからちょっくら見てこいと尻を叩かれ、なぜか俺が行くはめになった。

「それにしても、なんでスタバなんだ? 店名の『スター』の部分くらいしか銀河鉄道要素見当たらないぞ」

 今更ひとりごちても無力。棟梁格の女子二人からものすごい気迫で念を押されてしまえば、責任者といえども首を縦に振るしかなかった。

 加えて、俺も喫茶店に詳しくないからもっといい店を知っているわけでもない。行き先を指定されなくても、きっとスタバに足が向いていただろう。

 店内に足を踏み入れる。案の定銀河鉄道らしさは皆無で、店員の制服もメニューもごく普通のスタバのものだ。

 本当にこの店で参考になるのか?

 引き返そうとした矢先、ひとりの客に目が止まった。すると、その客もこちらに気づいたようで小さく手を振っている。

「おーい竜胆、こっちこっち。席だけ先に取っといたよ……」

 誰かと思えばあおいだった。なぜか緊張した面持ちで窓際に佇んでいる。葵にしては、いつもの威勢が感じられない。

 そういえば、棟梁二人が「衣装班のひとりをすでに向かわせてるから合流しろ」と言っていたことを思い出した。葵の事だったのか。

 まだ何も買っていないという葵の分も注文を済ませて席に向かう。

「あ、ちょうど飲みたかった新作のフラペチーノだ。ありがと、竜胆」

「お互い災難だったな、葵。こんなことに付き合わされ……て?」

 ふいに座席から立ち上がった葵の様子を見て、二の句を継げなくなる。

 いくつもの星が散りばめられた、どこまでも深い宙色のワンピース。普段の埋蔵金少女から幾分もかけ離れた装いを、葵は恥じらいながらも着こなしている

 中でも目を引くのは、剥き出しになった両の肩と、ワンピースの生地を押し上げる豊かな双丘。健康的なボディラインが露わになるのを、葵は身をよじらせて隠そうとしている。

 しかし、下品さは微塵も感じられない。これも、ワンピースの神秘的なロイヤルブルーと、それを着る葵のなせる技なのだろうか……。

 なんの変哲もない喫茶店の中。その空間だけが、異彩を放っていた。

「あ、あの、これね、衣装候補の試作を着てくれって衣装班の子に頼まれたから、試しに着てみたら突然この店に連れて来られて……に、似合う、かな?」

 取り乱している様子の葵はワンピースと俺の方を交互に見やりながら、恥ずかしそうに尋ねた。

 とっさに言葉が出てこない。

 思い出せ、こいつは美少女の皮を被った埋蔵金系宇宙生物だ。そんな暗示を何度かけても、目を吸い寄せられてしまう。畜生、いつも通り暴れ散らしてくれればいいものを、その恥じらいと奥ゆかしさは一体どっから借りてきたんだ?

「ね、ねぇ、なんか喋ってよ、不恰好ならそう言ってくれていいからさぁ」

「凄く……似合っております」

「そう。ならいいけど……なぜに敬語!?」

 互いにいつもの調子が戻り始めたので座りなおす。ちょうど、店員がブラックのアイスコーヒーを運び込んでくれたタイミングだった。俺はプラカップの蓋を開け、ストローも使わずにコーヒーを一気に呷る。早く胃に苦味を入れなければ、先日の葵同様に気が狂って宇宙生物的奇行に走っていたかもしれない……いや、もう手遅れだろうか。

 すると、何を思ったのか葵まで自らのフラペチーノを豪快に吸い込み始めた。ずぞぞぞぞとストローが唸りを上げたかと思えば、よほど冷たかったのか頭を抑えてうずくまる。

 葵が恥ずかしさを隠すために奇行に走るのは今更だ。でも、まさか学校外でもかますとは。ただでさえ注目の的なんだから、静かにしてくれ。

 とりあえず早急に話題を変える。

「葵は知ってるか? 寿祭の『寿』って初代実行委員長の名前からとったらしいぞ。なんでも、現在の寿祭のシステムを四年前に教育委員会と相談して決めていった凄腕の先輩がいたんだとか」

「え、そうなの!? あたしはてっきり、徳川将軍の婚礼にまつわる何かがこの地で行われたから『寿』なんだと思ってたよ」

 葵の表情に狼狽の色が浮かぶ。まさかとは思うが……

「だから高校近辺で埋蔵金掘ってたのか?」

「……うん。じゃあもしかして、この近辺には埋まってない……?」

 この郷土史研究部部長、大丈夫なのか?

 しゅんとする葵がいたたまれなくなったから、慌てて「きっと見つかるさ」とフォローしておく。実際にこの地に埋蔵金が眠っているかはさておき、いつか掘り当てるという葵の掲げた夢までは否定したくない。

「うん、絶対みつける! 協力してくれたら山分けだよ! えーっと、竜胆の分け前は三パーセントくらいでいいかな?」

「どれだけ偏った山なんだよ……」

 起き上がり小法師もかくやというスピードで葵は立ち直り、けらけらと笑っている。大人っぽい雰囲気のワンピースに乗っかってる笑顔は、どこまでも無邪気だ。

 ふうと一息ついてから、葵は遠い目を浮かべた。

「なんかこの感じ、倉庫の整理してる時みたいだね。無駄なこと喋ってるのが楽しくて、それがまた懐かしくて」

「俺も同じこと考えてた」

 やっと居心地のよくなった空気感に当てられて、俺もふふっと微笑が溢れる。

「お、やっと笑った」

「? 何か変だったか?」

「このところ竜胆元気なさそうだったから、疲れてるのかなーって思って。どう? 現場離れてちょっとは休めた?」

「何一つ気が休まった瞬間はないが……まあ、元気は出たよ。実際、業務も落ち着いてきて、そろそろロケット製作にも着手しようと思ってた頃だし。ありがとな」

「そっか。よかった、この役引き受けて……って違うから! 強引に頼まれて連れてこられただけだから!」

 そういうことにしておこう。

 脳内を覆っていた暗雲はいつの間にか薄れていた。明日の二次審査に向けての不安も、立花先生や九条先輩の言葉も、もう俺の足を引っ張るには至らない。いずれ答えは出す。でも今は、ようやく楽しみを見出した責任者業務に徹底したい。

 まずは、葵の着ている衣装をボツにするところから、衣装担当の棟梁に掛け合ってみるとしよう。喫茶店衣装で使うには、なんというか……いささか勿体ない。

「明日の二次審査、頑張ってね」

「絶対通してみせるよ、この企画」

 俺たちは席を立ち、貰ったトレーの上のゴミをゴミ箱に放り込む。プラカップ、ストローの袋、ナプキンと捨てていき、最後に二人分の会計が載ったレシートが残った。

 ふと考える。今回の目的はあくまで偵察、ということは……

「これ、経費で落ちるのか?」

「男なら自腹切れよ!」

 奥の座席から飛び込んできたツッコミは、聞き覚えのある悪友の声。葵の方を振り返って「コイツか?」と指をさしながら聞くと、強い首肯が帰ってきた。

 ……お前だったのか、紫苑。

 今回の会計は、しょうもない偵察を企画したアホな黒幕に払わせるとしよう。

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