第8章【明日を生きよう、生きてくれ】

 シン、とホール内が静まり返る。

 ユーシアは。ようやく純白の対物狙撃銃から手を離した。三脚に支えられた相棒から離れて体を起こし、ペタンとその場に座り込む。

 終わった。

 ようやく、終わったのだ。


「驚きました。シア先輩にそんな芸当ができたなんて」


 床に落ちた黒い雨合羽レインコートを回収しながら、リヴが歩み寄ってくる。

 彼は思いの外、ボロボロの状態だった。当然だ、今の今までユーシアがアリスと対峙している際には、他の不思議の国のアリスの登場人物たちと戦っていたのだから。

 それでも、あの人数を、あの異能力者どもをたった一人で相手にするなど、ユーシアでは考えられない。やはり、最後の最後まで付き合ってくれたのがリヴでよかった。


「うん……ちょっと、あれには条件があるんだ」

「条件って?」

「必ず三発目で、あの歌を歌うと、エリーゼが自らの意思で射線を譲ってくれるんだ。そうすれば、あの弾丸を食らった【OD】を砂にして死体も残さず殺せる」


 少なくとも、あの状態で生き返った【OD】はこの世にいない。

 あの光り輝く茨の矢は【OD】しか砂にすることはできず、一般人にあれをやったところで発動しない。というか、エリーゼが射線を譲ってくれることがない。

【OD】を砂に変える芸当は、エリーゼが自らの意思で射線を譲ってくれることで成立する技だ。エリーゼが入る余地のない距離まで近づいて狙撃をしても、あの技は発動されない。


「ともあれ、これで終わりましたね」

「……うん」


 砂に変わったアリスの残骸を一瞥して、ユーシアは窓の向こうを見やった。

 空が白んできている。一体、どれほどの時間が経過したのだろう。

 遥か遠く見える水平線の向こうで朝日が輝き、紺碧の空に瞬いていた白銀の星屑たちは形を潜めている。深い青の空から朝靄あさもやの紫がかった幻想的な蒼穹が広がっていて、とても美しい光景であると言えた。


「なかなか楽しい復讐劇でしたよ」

「楽しんでもらえたようでなによりだよ」

「ええ、まあ。ここまで体を張った甲斐がありましたね」

「そうだね。俺も、疲れちゃったな」


 ユーシアは砂色の外套から自動拳銃を抜き取った。

 自動拳銃の弾倉から数発分の弾薬を取り出して、一発だけ残した。


「これでようやく」


 果てしない朝の空を眺めながら、ユーシアは自分のこめかみに自動拳銃の銃口を突きつける。


「――


 どうせ行き先は地獄だ、そんなことは分かってる。

 ここまでやってくるのに、たくさんの人を殺してきたのだから。

 きっと天国にいるだろう養父母や、血の繋がらない歳の離れた幼い妹には二度と会えないかもしれないけれど、ユーシア・レゾナントールにもう後悔はない。


「ありがとう、リヴ君。ここまで付き合ってくれて、本当にありがとう」


 最期に。

 復讐劇に付き合ってくれた相棒に心の底からの感謝を述べて、ユーシアは引き金を引いた。


 ガウン、と耳元で銃声が轟く。

 しかし次の瞬間、ユーシアの腕は誰かに捻られて、銃口がこめかみから外れてしまう。


 放たれた銃弾はあらぬ方向に飛んでいき、ユーシアは痛みと驚きで瞳を見開く。

 腕を捻った相手など分かっている。この場にいる生きている人間など、彼以外に存在しない。


「――なんで、リヴ君」

「ふざけないでください」


 リヴはいつになく怒っていた。意外にも儚げな印象のある顔を歪め、黒曜石の瞳でユーシアを真っ直ぐに睨みつけている。

 自動拳銃を握るユーシアの腕を掴む青年の手は、尋常ではないぐらいの力が込められていた。その証拠に、彼の手首や手の甲には血管が浮かんでいる。

 どうして彼が怒るのだろう。

 なんで彼が怒るのだろう。

 復讐劇はもう終わった。彼の相棒でいる理由は、ユーシアにはもうないのだ。


「離してよ、リヴ君」

「離しません」

「もう俺の復讐劇は終わったよ。だから、俺はもう生きている理由はないよ」

「納得できません」


 グッとリヴは力を込めて、ユーシアの手から自動拳銃が滑り落ちた瞬間を逃さずに、蹴飛ばして拾えなくしてしまう。

 呆然と自動拳銃を見送ったユーシアの頬を、リヴが拳でぶん殴ってくる。痛い。頬骨にヒビが入ったのではないかと錯覚するほど痛くて、頬の内側を切ってしまったようで血の味が舌の上に広がっていく。


「ふざけないでください――ふざけんな!! 復讐劇の幕引きは自殺? あまりにもチープでお粗末な幕引きですね、本当に『白い死神ヴァイス・トート』が聞いて呆れますよ!!」


 リヴは怒りに任せて叫ぶ。

 なにに対して怒っているのか分からないが、ユーシアはどうしてリヴが怒っているのか理解できなかった。


「復讐劇が終わったからってなんですか、生きる理由がないなんて誰が決めたんですか!!」

「だって、」


 ユーシアは乾いた舌で、ようやく言葉を紡ぎ出す。


「だって、もう俺の家族はいないよ。【DOF】にも手を出して、人もたくさん殺して、もう誰かに誇れるような人間じゃない。こんな俺なんか、生きている価値すらないよ」

「関係ありません。僕も同罪じゃないですか。【DOF】に手を出して、人もたくさん殺して、誰かに誇れるような生き方なんてしていません。地獄逝きは決まったものです」


 それでも、とリヴはユーシアを抱きしめた。

 震える腕をユーシアも背に回し、その肩に額を押し付けて、絶対に離すまいと力を込めてくる。


「アンタともっと生きたいと、アンタと一緒に生きたいと願った僕を、アンタは蔑ろにするんですか……?」


 ユーシアは瞳を瞬かせる。

 この青年は、自分が生きようが死のうが関係ないと思っていたのだ。殺意を体現したのがリヴ・オーリオという青年だ。復讐劇が終われば「お疲れ様でした」の一言であっさり帰るものだと思ったのだが。

 いつしか彼は、ユーシアのことを思ってくれていたようだ。大切な人だと、彼は認識してくれていたようだ。


「僕だけじゃありません。家で待っているネアちゃんやリリィをどうするつもりですか。アンタが死んだなんて言えば、あとを追いかけますよ」

「それは困るなぁ……」

「困るでしょう。それなら、死ぬなんてことはやめてください」


 リヴはようやく顔を上げる。

 長めの前髪が揺れ動き、その下にある黒曜石の瞳から殺人鬼の彼が流すにはあまりにも綺麗な涙が静かに流れている。泣いていたのだ。スノウリリィが死んだ時も涙を流さなかった彼が、泣いている。


「アンタが望むなら、弟にでもなんでもなってやりますよ。生きる理由がほしいなら、僕がくれてやります」


 背中に回されていた彼の手が、ユーシアの頬に添えられる。


「――これからは僕たちの、僕の為に生きてください」


 それは、リヴ・オーリオという青年の心の底からの望みだった。

 日常生活において物欲などを示さず、望みすら特になかった。あるのはただ殺意と、幼女に対する変態的なあれやそれだけだと思っていた。

 それでも。

 彼が、ユーシアが明日を生きることを強く望んでいることは事実だった。


「…………いいの」


 ユーシアは掠れた声で、言葉を紡ぐ。


「…………俺は、生きていていいの」

「お伺いなんか立てないでください」


 涙を静かに流しながら、リヴは口の端を吊り上げて笑った。


「僕にとってアンタは、大切な相棒ですから」


 その言葉は、ユーシアにとってある意味の許しでもあった。

 数多の無罪の人を殺め、禁止されている薬物に手を染めて、人の身をやめた存在であるユーシアに、生きてもいいと改めて証明してくれているのだ。

 今度は、ユーシアが涙を流す番だった。翡翠色の瞳から、ボロボロと大粒の涙が流れ落ちてくる。


「悪党が涙を流すなんて、情けないですね」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ」


 二人して情けなく涙を流し、そしてほぼ同時に笑った。



 朝日が窓から差し込み、部屋の中を眩いばかりの光で満たす。

 これから先の未来を祝福するかのような、晴々とした空が窓の向こうに広がっていた。

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