第2章【さあ、往こう】

「おにーちゃん、おでかけ?」

「ネアちゃん、よい子は寝る時間だよ」


 時刻はすでに一〇時を回った頃合いだ。

 いつもならば眠っている時間帯であるにもかかわらず、ネアは寝室からひょっこりと顔を出してユーシアの様子をうかがっていた。可愛らしい寝巻きに身を包み、銀髪メイドのスノウリリィが「寝ますよ」という言葉も無視して、少女はてとてととユーシアの元まで歩み寄ってくる。

 彼女はぽすんとユーシアに抱きつくと、


「ちゃんと、かえってきてね」

「……そればっかりは保証できないかなぁ」


 ユーシアはネアの綺麗な金髪をポンポンと撫でて、苦笑する。


「やだ」

「でも、俺は未来が見える訳じゃないから」

「やだ!!」


 ぼすぼすとネアはユーシアの鳩尾に頭突きをかまして、


「ちゃんとかえってくるってゆってくんなきゃ、やだ!!」

「…………分かったよ」


 ユーシアはネアの頭を撫でつつ、やれやれと肩を竦めた。

 我儘な女の子のお願いを聞くことにはもう慣れた。これは絶対に帰ってこなければ、ネアに死ぬほど怒られそうだ。


「ちゃんと帰ってくるよ。明日の朝ご飯も作らなきゃいけないからね」

「……ぜったい、だよ」


 ネアはほんの少しだけ翡翠色の瞳を潤ませて、名残惜しそうにユーシアから離れた。それから寝室に駆け込んで、遅れてベッドに飛び込む音が聞こえてくる。

 入れ替わるように、スノウリリィが「あの」とユーシアを呼び止める。彼女は怪しむようにユーシアをジロリと睨みつけて、


「本当に帰ってくるんですよね? 朝ご飯、私が作ってしまいますからね」

「ネアちゃんを死なせたくないからね。帰ってくるよ――多分」

「多分、と言いました?」


 スノウリリィはユーシアの頬をグイッとつねると、


「神に誓ってください。ちゃんと帰ってくるって」

「分かった、分かったから、痛いって」


 ユーシアはスノウリリィの腕を振り払うと、抓られた頬をさする。地味に痛かった。

 最初の頃に比べると、だんだんとスノウリリィも強かになってきたと思う。シンデレラの【OD】は伊達ではない。死んでしまっても今の記憶を代償にして生き返る異能力が発現してから、怖いものなしなのだろうか。

 スノウリリィは腰に手を当てて、


「ちゃんと帰ってこないと、私は許しませんよ。お墓の前で、毎日お説教です!!」

「死んでまで説教とかやだよ……疲れるよ……」

「私は疲れません!!」

「この元修道女シスターやだぁ!!」


 生きている今でも十分説教されているというのに、なんで死んでまで説教を受けなければならないのか。墓の下にいたところで彼女の説教など聞こえやしないが、気分的に嫌だ。

 叫ぶユーシアに、スノウリリィは「じゃあ、ちゃんと帰ってきてくださいね!!」と言い渡して寝室に引っ込んだ。

 全く、女の勘とは恐ろしいものだ。

 これでは決意が台無しではないか。


「――覚悟は決まりました?」

「リヴ君、面白がってるでしょ。ニヤニヤしてるのが分かるよ」


 浴室からひょっこりと顔を覗かせてきた真っ黒てるてる坊主――リヴは、雨合羽レインコートのフードの下でニヤニヤと笑っている。どうやら今までのやり取りを聞いていたようだ。

 リヴは「そりゃあ、こんな狭い部屋ですから」などと言い、


「でも、女性陣はしっかり分かっていましたよ」

「…………女の勘って怖いね」

「というか、シア先輩が分かりやすいんですよ」


 脇腹を肘で小突いてきたリヴの手には、車の鍵が握られていた。くるくると金具に指を引っ掻けて回しながら、彼は言う。


「そんなに分かりやすく態度で示されたら、引き留めたくもなりますよ」

「……そんなに分かりやすかったかなぁ」

「僕でも分かるんですから、分かりやすいですよ」


 車の鍵をお手玉のようにポンポンと弄びながら、リヴは思い出したように「あ、そうだ」とユーシアへ振り返る。


「明日の朝食はフレンチトーストにしてください。材料ありましたよね?」

「あったと思うけど……リヴ君が珍しいね。甘いのを朝ご飯にお願いしてくるなんて」

「僕だって、たまには気分を変えたい時ぐらいありますよ」


 そう言うと、リヴは「先に車で待ってますんで、きてくださいね」と残して部屋を出て行った。

 完璧に調子を狂わされたユーシアは、くすんだ金色の髪をガシガシと掻く。

 手の中にずっしりと存在感を主張するライフルケースが、いやに現実感を与えてくる。「お前はまだ生きているんだ」と耳元で囁く。


「…………どうしようかなぁ」


 電球が煌々と明かりを落とす天井を見上げて、ユーシアはポツリと呟く。

 こんなことで揺れ動くなんて、まだこの世に未練があるみたいではないか。


 ☆


 カン、カンと古びた階段を降りる。

 ボロっちいアパートに暮らして、もう何ヶ月経つだろうか。ようやく終わりが見えた頃合いだ。

 ユーシアはずっしりと重たいライフルケースを背負い直して、空気の冷たい夜のゲームルバークに足を踏み入れた。

 吹き付ける夜の風が、ユーシアの頬を撫でる。夜の帳が落ちた街並みは、ポツリポツリと明かりが確認できた。


「…………」


 アパートの駐車場では、一台の見慣れた車がすでに準備が整っている状態だった。運転席ではおそらくリヴが待っていることだろう。

 このまま歩いてアリスの元まで行ってもよかったが、ユーシアでは近接最強とも謳われたあの【OD】と互角に戦うだけの力がない。狙撃であれば負けないのだが、やはりリヴ・オーリオという青年の力が必要になってくる。

 自分の復讐劇に巻き込んでしまったことは申し訳ないと思っているが、それでも彼がいてくれたからこそ、ここまでこれたのだ。

 ――復讐劇を最前列の特等席で観させてほしいと言った彼に、最高の復讐劇を提供しよう。


「へい、彼女。俺と一緒に地獄の底までドライブに行かない?」


 努めて明るい口調で、ユーシアは助手席に乗り込んだ。

 激しいロックの音楽で満たされた車内で待っていたリヴは、ニヤリと笑うと軽口で返してくる。


「誘い方にセンスが感じられません。やり直し」

「ナンパなんてやったことないし」

「おやおや、シア先輩はモテたんですかね? 彼女いました?」

「いないけど?」

「おっと、妖精さん待ったなしですね」

「リヴ君、馬鹿にしてるね?」


 それでも、あながち間違いではない。

 これから始まるのは、地獄へ続く旅なのだから。


「さあ、行こうかリヴ君」

「ええ、行きましょうかシア先輩」


 エンジンをかければ、車は滑るように発進する。

 車窓の向こうを流れていく夜の街並みを眺めながら、ユーシアは静かに瞳を閉じた。

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