第8章【見つけた因縁】

 ザッツァ・クロイツェフは怯えていた。

 閉ざされた扉の向こうから、今にも彼女がやってくるのではないかという恐怖に駆られていた。

 バスローブに包んだ自らの巨体を抱きしめて、ザッツァ・クロイツェフはガタガタと震える。恐ろしくて仕方がない。頭のおかしなであれば、確実に常識から外れた行動をしてくるに違いない。


「大丈夫? 顔色が悪いよ、ダーリン」

「怖い、怖くて仕方がない……」


 震えるザッツァに寄り添ってくれるのは、可憐な少女である。

 若者らしく派手に着飾り、しかし自分に対する敬意は忘れていない。たとえ財産が目的であったとしても、彼女に惚れたザッツァは後悔していないだろう。


「あいつが……あいつが殺しにくる……」

「大丈夫だよ。このお屋敷には、たっくさんダーリンの味方がいるでしょ?」


 可憐な少女は、不安がるザッツァを宥めるようにそんなことを言う。

 そうだ、何の為に野蛮な彼らを雇ったのだろうか。全てはこの時の為――あの女から守ってもらう為に。

 ザッツァは「ありがとう、ライア……」と少女に礼を言うと、彼らの中でもとびきり高い金額で雇った傭兵を呼び出す。


「おい、いるんだろう白兎シロウサギ!! 出てこい!!」

「お呼びでしょうか、ザッツァ様」


 閉ざされた扉が開かれて、金髪を後頭部に撫でつけた胡散臭そうな優男が顔を出す。

 慇懃いんぎんな口調で用件を聞いてくる彼に、ザッツァは厳しい言葉で命令を下した。


「この部屋に近づいてくる奴を殺せ。一人残らず!!」


 金髪の優男――白兎シロウサギは薬瓶からザラザラと錠剤を取り出して、まるでラムネ菓子を頬張るかのように口に放り込み、それらを噛み砕きながら笑顔で応じた。


「はい、承知いたしました」


 ☆


 この屋敷が広すぎる。

 ドタバタと走り回りながらザッツァ・クロイツェフの居室を探すユーシアとリヴは、あまりの屋敷の広さに二人揃って「あー、もう!!」と絶叫した。


「どうしてこの屋敷はこんなに広いの!?」

「広く作りすぎたザッツァ・クロイツェフはやっぱり殺した方が世の為人の為だと思うんですけど、シア先輩どう思いますか?」

「うん、もうついでに殺しちゃおう。金目のものもきっちり回収して、殺しちゃおう!!」


 リヴの提案を即決したユーシアは、重たいライフルケースを抱え直す。白い対物狙撃銃が重い。運動不足の狙撃手にマラソンを強要するなんて、世の中とはなんと理不尽なのか。

 長い廊下を右へ左へと走り回りながら、ユーシアはぜえはあとついに肩で息をし始めた。走る速度も次第に落ちてきて、立ち止まるのも時間の問題である。

 一方でリヴはまだ若いからか、それとも普段から走り回っている影響か、息切れ一つせずにケロリとしていた。疲れた様子のユーシアの顔を見上げると、


「運動不足のようですね、おじさんですか?」

「おま、お前さんより、だいぶ、おじさんだよ……げほッ」


 とうとう立ち止まって休憩し始めたユーシアは、夜の闇に沈む窓の外を見やる。

 中央区画セントラルの夜景は、相変わらず綺麗なものだった。おそらく高い位置から見た方が宝石箱をひっくり返したかのような夜景を楽しめるだろうが、ユーシアもリヴも夜景を見て「綺麗」だとか思わない。一銭の価値すらない電灯を見て、何が楽しいのだろうか。

 背中をバシバシとぶっ叩いてくるリヴを「何よ、もう」とあしらうユーシアは、


「お前さんは若いからいいけどね、俺はもうすぐ三十路なんだから」

「頑張ってくださいよ、おっさん」

「地味に傷つく言い方してんじゃないよ、もう」


 煙草の箱を取り出して一服でもしたかったが、リヴが急かしてくるので諦める。彼にしては珍しく「早く早く」となんだかワクワクしているようだった。

 ご機嫌な様子のてるてる坊主の背中に、ユーシアは呆れたような口調で言う。


「そんなにザッツァ・クロイツェフを殺せるのが嬉しいの?」

「そりゃもう。あんな性根の腐った野郎を八つ裂きにできるだなんて、これ以上ないぐらい嬉しいものですよね!!」


 どこかいきいきとした表情で言うリヴは、いつもより殺人衝動がお強い様子である。

 そんな彼の様子にやれやれと肩を竦めたユーシアは、


「まあ、気楽に歩いて行こうよ。あんな怯えていたのに、裏口から逃げるだなんて考えつくような聡明さはないだろうしね」

「どうしてそう思うんですか?」

「俺たちは何の為に雇われたのさ。あんなんだけど、依頼主を守る為だよ? あれだけたくさんの傭兵を雇ったから大丈夫とでも思ってるんでしょうよ」


 傲岸不遜な態度ではあったが、その中身はひどく臆病だ。それがザッツァ・クロイツェフという下衆ゲスの正体である。

 きちんと成功報酬を支払ってくれるのであれば、ユーシアだって文句はなかった。殺そうと決めたのは、成功報酬を踏み倒される可能性が出てきたからだ。踏み倒されてしまっては堪ったものではない、あんな化け物級の【OD】と正面衝突させるなんて聞いていないのだ。

 さてどうやって殺してやろうか、と考えながら長い廊下を歩くユーシアは、ザリザリと何かを引きずるような音を聞いた。


「なんだろ」

「何かありました?」


 顔を上げたユーシアが見たものは、長い廊下の奥で揺れる人影だった。どうやら歩いてきているようで、ザリザリと何かを引きずっている。

 遠すぎて分からないが、身長的には子供――少女と呼んでも差し支えないだろう。ネアよりも少し身長は小さいぐらいか。ザッツァ・クロイツェフの娘という線は考えにくい。


「誰かいますね」

「リヴ君も見える?」

「ええ、まあ。シア先輩ほどではありませんが、視力にはそれなりに自信がありますので」


 黒曜石の瞳を瞬かせたリヴは、次いでグッと柳眉りゅうびを寄せる。「やばいかも……」と呟いた青年の言葉を、ユーシアは聞き逃してしまった。

 何故なら、歩いてくるあの少女は。


「…………」


 ユーシアは、呼吸が止まるかと思った。

 絢爛豪華な屋敷に似つかわしくない、夢見る少女。青色のワンピースに白いエプロンドレス、豊かな金色の髪を揺らして歩いてくる彼女。

 その小さな手が握りしめているのは、長い長いティースプーン。ザリザリ、ザリザリと先がギザギザになったティースプーンが、敷かれた絨毯を引っ掻いている。

 少女はユーシアとリヴの存在に気づくと、不思議そうに首を傾げてニタァと笑った。


……」


 ユーシアの口から、彼女の名称が零れ落ちる。

 それと同時に、脳裏にあの光景がよぎった。

 鉄錆てつさびの臭いが充満した部屋。一面の赤、赤、赤、柔らかな脂肪の破片が飛び散って誰かも分からないぐらいにぐちゃぐちゃに引き裂かれて潰されてかれてねられて、

 ――――絶叫。


「ッ、ああ、ああああああああ、あああああああああッ!!」

「シア先輩!!」


 ライフルケースを捨てたユーシアは、幻想の少女めがけて飛びかかる。

 我を忘れていた。

 だって目の前に、自分から大切なものを奪った復讐相手がいる。

 殺さなければ。

 殺さなければ!

 この手で、彼女アリスを殺さなければ!!!!


「ぅぅううううああああああああああああああああああ!!」


 幻想の少女に飛びかかったユーシアだが、


「あは」


 少女アリスは笑った。

 楽しそうに笑っていた。

 狂気に支配されて突撃してくるユーシアを笑い飛ばした彼女は、自分が彼から大切なものを奪って壊したのだという自覚すらなく、そして今回もまた無意味に奪うのだとばかりにティースプーンを振りかぶる。

 自分が死の淵に立たされていることなど考えもなしに、ユーシアは幻想の少女に殴りかかろうとした。


「落ち着いてください、シア先輩」


 唐突に後方へ引っ張られたと同時に、ユーシアと幻想の少女の衝突を邪魔するように黒いてるてる坊主が躍り出る。

 振り下ろされたギザ歯のティースプーンを大振りのサバイバルナイフで軌道を逸らし、ティースプーンは絨毯が敷かれた床をえぐる。ドコン、とティースプーンを振り下ろしただけでは到底聞こえてきそうにない音が耳朶を打つ。

 幻想の少女はカクンと壊れた人形のように首を傾げると、何かを思い出したようにきた道を引き返し始めた。その小さな復讐相手の背中に、ユーシアは怒声を浴びせる。


「このッ、待て!! 逃げるな!! ありす!!」


 しかし、少女アリスは振り返らない。

 ザリザリ、ザリザリと絨毯が敷かれた床を引っ掻きながら、少女はユーシアの言葉など無視して去ってしまった。

 少女が立ち去ったことを確認してから、リヴはユーシアを解放した。膝をついたユーシアは、復讐を邪魔された八つ当たりをしようとして、


「馬鹿ですか、アンタ」

「あいたッ」


 脳天に拳を叩き込まれた。

 痛みで少しだけ落ち着きを取り戻したユーシアは、殴られた脳天をさすりながら「何するの」と訴える。


「我を忘れすぎです。自分の商売道具すら投げ出して突撃するなんて……節操ってものがないんですか?」

「……面目ない」


 まともな説教を受けて、ユーシアは言い返せなかった。

 思い返せば、自分でも愚かな行動をしたと思っている。狙撃手なのに、自分の商売道具である対物狙撃銃を捨てて殴りかかるとは愚者の極みだ。


「せめて、きちんと狙撃できるような体勢を整えてくださいよ。前衛ぐらいならしますから」

「うん……うん、そうだね。ごめん」


 自分の狂った復讐に付き合ってくれている青年に改めて謝罪して、ユーシアはライフルケースを拾い上げた。

 リヴが「じゃあ、ザッツァ・クロイツェフを殺しに行きましょうか」とユーシアを引っ張っていってくれるが、彼はどうしてもあの時の幻想の少女の姿が目に焼き付いて離れなかった。


(……次に会った時は)


 ライフルケースの取っ手を持つ手に力が込められる。

 仄暗い殺意を瞳に滲ませて、ユーシアは口の中だけで決意を告げた。


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