第7章【雪の女王がくる】
一方のリヴは、ユーシアとは違って正面玄関に配置されていた。
多数の同業者に紛れ込むようにして、
ひやりとした空気がどこからともなく漂ってきて、リヴはその柳眉を寄せる。今の時期は夏に向かおうとしている頃合いだ。諜報官時代に厳しい訓練を積んだおかげでリヴは冬の寒さにも耐性はあるが、閉ざされた扉の向こうから漂ってくる冷たさは尋常ではなかった。
例えるなら、扉の向こうに北極が広がっているかのような。
「……いやいや、なんですかその例えは」
アマチュアが書く小説だって、もう少しマシな例え方があるだろう。
扉の向こうに北極が広がっていたら、それはもう魔法の類だ。いくら身長を親指サイズにまで縮めることができる【OD】とはいえ、リヴの規格は人間である。よく見る魔法少女のアニメのような魔法が使える訳ではないのだ。
では、これは一体。
ユーシアの言葉を思い出す。
――今すぐ前線を退いて、隠れて。
「あながち、シア先輩を馬鹿にはできませんね。いや馬鹿にはしていませんが」
特に戦場において、ユーシア・レゾナントールの視力は一種の武器である。二七と言っていたが、視力の低下とはまるで無縁な男だ。そして正確無比な射撃の腕前は、たとえ麻薬漬けになった【OD】であっても
なおかつユーシアは、かつて『
彼が「前線を退け」と言っているのだから、判断は間違いない。リヴはユーシアの言葉に従って隠れる場所に行こうと身を翻すと、遠くからタァン!! という発砲音が聞こえてきた。
「……銃声」
それにしては、大きすぎる。
ユーシアは狙撃手という職業上、銃声には特に気を使っていた。彼の持つ純白の対物狙撃銃も消音の加工が施されていて、銃声は最小限に抑えられている。
だから、これは彼が発砲した訳ではない。リヴは構わず正面玄関から退却しようとすると、
「どこへ行こうってんだい?」
「…………ああ?」
逃げようとしたリヴを引き止めてきたのは、あの赤いドレスを着たけばけばしい女である。正直なところ、リヴは
他人と接する仕事はユーシアの専門だが、ここには頼りになる相棒がいない。仕方なしにリヴは女へ
「トイレですけど」
「仕事前に行っておかなかったのかい? 全く、常識がない子だね」
「アンタのようなヤク漬けのババアに常識を説かれる筋合いはねえんですけど?」
この時ばかりはリヴの丁寧な口調もやや崩壊しつつあった。会話をしたくない相手と会話するなど、苦痛以外の何物でもない。
案の定、相手の女は「なんだと!?」だの金切り声を上げた。リヴはこれ以上騒がれても面倒なことになるので、今ここで処分をするかと
正面玄関に銃声が轟く。同業者が驚く中で、女の悲鳴がリヴの耳を劈いた。
「――あ、あああががあああああああああああ!!」
「痛みに耐性がないんですか。三流も三流、もはやゴミ屑ですね。僕と同じ土俵に立てるとは思わないでください」
別にユーシアが怒ったところで怖くはないのだが、面倒だ。崩れてしまった関係を修復するのは難しいし、人間関係の面では不器用なリヴには無理かもしれない。――もしかしたら「殺しちゃえばよかったのに」とも言われそうだが。
すると、正面玄関の扉が叩かれた。
コンコン、と乾いた音が屋敷内に鳴り響く。誰かが「出た方がいいのか?」などと言って、ノコノコと扉に近づいていく。
『――リヴ君!!』
ユーシアの声が、鼓膜に突き刺さる。
『今すぐ逃げて!! 玄関の外にいるのは【OD】だ!!』
リヴは弾かれたように行動していた。
その直後。
「あら、お客さんですか? あの人にこんな大勢のお友達がいたなんて……」
正面玄関から離脱したリヴは、物陰から正面玄関の様子を伺う。ひやりとした空気が肌を撫で、思わず「寒ッ」と呟いてしまった。
正面玄関の扉を開いて顔を覗かせたのは、銀髪の女である。薄青のドレスを
まさか。
まさか、あれは。
「――雪の女王ってことですか」
リヴは苦笑しながら呟いた。
これは早々にユーシアと合流しないとまずいことになるだろう。報酬など大して期待できる仕事ではないので、リヴはユーシアにあてがわれた狙撃ポイントへと向かうことにする。
通信機に手をやって相棒と連絡を取ろうとした矢先、冷気の爆発が背後で起きた。おそるおそる振り返ると、何故か正面玄関の全てが凍りついていた。
「……うわあ」
リヴは引いた、本気で引いた。
文字通りである。天井も壁も床も何もかもが凍りつき、そこにいた傭兵たちがみんな氷漬けにされていた。もしユーシアの言葉に従って前線から退いていなければ、リヴもあの氷像の群れに仲間入りを果たしていたことだろう。なんとも間抜けな死に様である。
「あー、シア先輩。今どちらにいらっしゃいます?」
リヴは【DOF】が込められた注射器を
「今からそっちに行きますので、場所だけ教えてください」
☆
「大変な目に遭ったね」
「そうですね」
ユーシアとリヴは比較的すぐに合流できた。
純白の対物狙撃銃を抱え、ライフルケースを引きずるユーシアは「うーん」と唸って首を傾げる。
「あれが依頼主の懸念事項かなぁ。誰だろう、前の彼女とか?」
「執着する女は気持ちが悪いので嫌いですね、殺しますか?」
「やめようか? さすがに無策であんな規格外な【OD】を相手にしても、俺たちにメリットがないからやめておきなよ」
得物であるナイフを巧みに操りながら言うリヴに、ユーシアはやめるように呼びかけた。
対物狙撃銃の弾丸を受け止めるぐらいの強度を持つ氷を、まるで防御魔法よろしく瞬時に出してくるのだ。そんな規格外な【OD】に、ユーシアやリヴが立ち向かったところで敵うだろうか。倒したところでメリットもなにもないので、ユーシアは純白の対物狙撃銃を引きずっていたライフルケースにしまい込んだ。
「帰ろっかぁ。こんなところに残ってても、死んじゃう可能性だってある訳だし」
「玄関にいた奴らはみんな氷漬けにされましたよ。
「死人に口なしって言うけどね。大丈夫? それ呪われない?」
ぽてぽてと廊下を歩く二人だったが、不意に足を止めた。
その原因は、ひやりと漂ってきた冷気である。おそるおそる振り返ると、真冬という季節を擬人化したかのような脅威の【OD】が、ゆっくりとユーシアとリヴを目指して歩いてくる。
長い銀髪を揺らし、壁や床を容赦なく凍りつかせながら歩いてくる雪の女王は、不思議そうに首を傾げた。
「あら、あの人のお友達の方でいらっしゃいますか?」
氷の彫像の如き美貌に微笑みを浮かべ、彼女は問いかけてくる。
「あの雌猫の行方を探しているのですが、どこか知りませんか?」
「……ど、どちら様でしょう?」
ユーシアは割と本気で聞き返した。
だってそうだろう。
いきなり雌猫など呼ばれても、果たして誰のことを示しているのか分からないのだ。というか、現実にそんな言葉を使う人物を初めて見たような気がする。
雪の女王はキョトンとしたような表情を見せると、何が楽しいのかコロコロと笑う。
「雌猫は雌猫です、この屋敷にいらっしゃるでしょう? あの化粧臭くて鬱陶しくて、喉笛を引き裂いて凍らせてやりたいぐらいの雌猫です」
「……い、いやー、ちょっと説明が主観的すぎて見当もつかないですね。はい。俺たちはこれで失礼するんで、あの、屋敷の中はご自由に」
「あらあらあら、逃げることができると思って?」
ビキィ、と。
ユーシアとリヴが逃げようとした方向を塞ぐように、氷の壁が出現する。
完全に逃げ道を塞がれたユーシアとリヴは、二人揃って冷や汗を流した。感覚的には寒いはずなのに、汗が出るとはこれ如何に。
「一緒にあの雌猫を探してもらいましょう?」
「…………」
「…………」
リヴがスススと近寄ってきて、ユーシアに拳銃を手渡してくる。
それは手のひらに収まる程度の、本当に小さな拳銃だ。一発しか弾丸が込められない暗殺仕様の拳銃だが、渡された拳銃には銃弾が込められていない。
真っ黒てるてる坊主は、ツイと雪の女王を一瞥した。分かりやすく行動を起こせるならば、
その拳銃を使って昏倒させてください。
逃げる時間だけでも稼いでくれれば上々です。
一瞬の視線の交錯だけでも、ユーシアは彼の思考を読み取ることができた。
これはユーシアにしかできない仕事である。眠り姫の異能力を開花させた【OD】のユーシアならば、雪の女王を昏倒させることなど簡単だ。
「ええ、はい。いいですよ。雌猫を探せばいいんですね?」
「あら、お話が早くて助かります」
「はははは。俺たちは聞き分けだけはいいですよ、命が懸かってますので」
ユーシアは曖昧な笑みを浮かべて、さりげなく雪の女王の死角に移動する。
あまり長くても勘づかれてしまったら終わりだ。最低でも五分、いや一〇分程度であれば逃げ切るのに十分だろうか。小さな自動拳銃の存在を確かめて、音を立てずに引き金に指をかける。
音を消して標的に接近するのが暗殺者であるなら、音を消して遠くからいつのまにか殺しているのが狙撃手だ。
「それでは参りましょうか、女王陛下サマ」
「ええ、ありが――」
ユーシアはエスコートする素振りを見せて、その手のひらに隠した小さな自動拳銃を雪の女王に押し付ける。そして引き金を引いた。
カチンという撃鉄が空の薬室を叩くが、眠りの弾丸は確かに雪の女王を貫いた。
くたり、と雪の女王は全身を
「何分ですか?」
「五分間だけ。それ以上は気づかれる。俺だって死にたくないからね」
「了解です。それではすぐに逃げましょうか」
雪の女王が歩いてきた方向へ走り出した二人だが、
「そういえば、報酬は誰に請求すればいいのかな?」
「ザッツァ・クロイツェフでは?」
「ほとんど壊滅させられたのに、払ってくれるかなぁ」
「……可能性は低いですね。成功しなければ払ってくれなさそうな雰囲気さえありましたし」
廊下を走りながら、ユーシアとリヴは互いの顔を見合わせる。
徐々に走る速度が落ちていき、やがて二人は足を止めた。雪の女王の前から離れているので、立ち止まったところで危機感はない。
「……徴収しに行きますか」
「ええ。首根っこを引っ掴んで上下に揺さぶってやりましょうか」
悪党はどこまで行っても悪党である。
狙撃手と暗殺者から取り立て屋に転職したユーシアとリヴは、各々の得物を抱えて依頼主の元へ急ぐのだった。
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