幕間:不器用な親指姫

【Ⅰ】

 赤。

 赤。

 赤赤赤赤。

 赤赤赤赤赤赤。

 赤赤赤赤赤赤赤赤。


 ――悲鳴、絶叫、断末魔。


 血濡れた小さな刃を握りしめ、逃げ惑う白衣の連中を追いかけ回す。今も一人見つけた。透明な液体がシリンダー内で揺れる注射器を首筋に突き刺して、中身を体内に取り込む。

 常識という部分が焼き切れる感覚。目の前が鮮明になって、拾う音すらも明瞭めいりょうに聞こえてくる。グン、と床が急に近くなったのは、自分の体が親指サイズにまで小さくなったからか。


「は、ひぃ!! そ、それは、え、うそ、だろ? 【OD】なんて、と、都市伝説だろお!?」


 逃げていた白衣の男は引き攣った悲鳴を上げて、追いかける方だった自分はニィと笑う。


「――サヨウナラ、でぇーす」


 別れを告げるその声は楽しげで。

 白衣の男の喉元がナイフで切り裂かれたのは、その三秒後だった。


 ☆


織部理央おりぶりお。任務の遂行、ご苦労であった」

「……はあ、それを言う為にわざわざ朝っぱらから呼び出したんですか? だとしたらその首根っこを掻き切られてもいいってことですよね?」


 薄暗い部屋の中、二人の人間が机を挟んで対峙していた。

 一人は老人――年齢は七〇後半ぐらいだろうか。白髪になった髪を後頭部へ撫で付けて、豊かな口髭くちひげを生やしている。灰色のスーツがやたらと似合っていて、ニコニコと柔和な笑みを浮かべているが、どこか相手に威圧感を与えている。

 もう一人は青年――二〇代には届いていないだろう、若い黒髪の青年だった。艶のない黒髪はやや長めで、目元に前髪が少しだけかかっている。日本人らしい黒髪と黒曜石の瞳で、顔立ちもどこか儚げな印象がある。

 明らかに老人の方が立場は上のはずなのに、青年の態度は太々ふてぶてしいものだった。「こっちは寝てたんですよ。いきなり電話で叩き起こされた身にもなってください」などと文句を垂れている。


「織部理央。貴様はとても優秀な諜報官だ」

「そりゃあ、どーも。おだててもなにも出ませんが」


 織部理央と呼ばれた黒髪の青年は、やれやれと肩を竦めた。上司がこんな調子のいいことを言うのは、きっと新たな仕事の前兆である。

 今度はどこの重要機関に潜入すればいいんだ、と胸中で悪態を吐きながら、理央は「用件は?」とぞんざいに問いかけた。


「新たな諜報官の育成を頼みたい」

「はあ? なんで僕なんですか。もっと適任がいるでしょう、エレンとか」

「彼は別の重要機関に潜入している。今、育成係として任命できる諜報官は貴様だけだ」


 うーわー、そういうパターンでお願いしてくるのかよ。

 理央はうんざりしたように顔を顰め、任務など知らんとばかりに部屋から立ち去ろうとした。

 が、


「――――ぁ」


 振り返った先には、見知らぬ少女がいた。

 いきなり振り返った理央に驚いたのか、彼女は石像よろしく固まっている。それから我に返った彼女は、ペコリと小さく頭を下げてきた。

 血みどろの世界に似つかわしくない、可憐な少女である。艶やかな黒髪は肩甲骨に到達するほど長く、顔立ちも人形のように整っている。つぶらな黒曜石の瞳には僅かな怯えが見え、理央に対してどう言葉をかけていいのか逡巡しゅんじゅんしている様子だ。

 理央が視線を上司へと戻すと、彼はニコニコとした笑みをそのままに言う。


「彼女が新人だ。名を入谷いりやカナデと言う」

「……僕はまだ承諾していないんですけど?」


 ジロリと上司を睨みつける理央は、


「お断りです」

「そうか。――では殺してしまおう」


 上司の言葉はひどくあっさりしたもので、どこからか拳銃を取り出してくる。そして躊躇いもなく怯える少女に銃口を向けると、引き金を引いた。

 轟く銃声。射出される弾丸。

 凶悪な老人が放った緩やかな殺意は、予定調和のように少女の心臓を穿つ――はずだった。


「なにしてるんですか」


 キィン、と理央が抜き放ったナイフが弾丸を叩き落とした。

 老人は驚いたように瞳を丸くするが、またすぐに柔和な笑みを浮かべる。


「優しいな、貴様は」

「クソみたいにどうでもいい評価をありがとうございます。仕方がないので、僕が責任を持って育てますので」


 やけくそ気味にナイフを捨てると、理央は少女の腕を引いて上司の前から姿を消した。

 別に、彼女自身に同情した訳ではない。

 ほんの少しの気まぐれで、彼女に関わってみようと思った訳である。


「あの、あの……」

「ああ、すみません。野郎がいつまでも腕を掴んでいるなって訳ですね」


 上司の執務室から飛び出して無言で廊下を突き進んでいた理央は、少女の小さな声に我に返る。それから掴んでいた腕を解放してやると、少女はやや泣きそうになりながらも「ありがとうございます」と辿々しく礼を述べた。

 理央は気まずさを紛らわせるように、自分の黒髪を掻く。少女の艶髪とは違って、自分の髪は手入れがされていないのでボサボサであり、さらに艶がない。頭髪の手入れに割ける時間がないのだ。

 とうとう自分にも焼きが回ったから、とため息を吐くと、


「……私は、どうなるのでしょうか」


 少女――確か名前は入谷カナデだったか――が、怯えた様子で言う。


「どうなるもクソもないです。アンタはこの諜報機関に売られてきた、だから諜報官になるんですよ」

「……そうなんですね。お父さんとお母さんが事故で死んで、天涯孤独の身になっちゃいましたが、まだ私には生きる価値があるんですね」


 安堵したように言うカナデに、理央は納得した。なるほど、よくあるパターンである。

 天涯孤独の身の上だったら改造のやり甲斐もある。とりあえず、理央はこの諜報機関において必要な事項を少女に叩き込むことにする。


「この諜報機関は【DOF】を使って【OD】になります。その方が情報が拾いやすかったりしますし、敵を殺しやすくなりますので」

「でぃ、お? な、なんですかそれ?」


 首を傾げるカナデ。

 理央は嫌な予感がしたが、義務としてこう問いかけていた。


「もしかして【DOF】を知りませんか?」

「はい……ごめんなさい」

「まじかぁ」


 裏の世界にあまりに無知な少女を前に、理央は天井を仰いだ。

 この少女の教育は、前途多難である。

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