第8章【マッドハッターは夢の中】
ソファの背もたれを飛び越えて、ユーシアはソファを障壁の代わりとして用いることにする。純白の対物狙撃銃の薬室へ弾丸を叩き込むと、すでにフレイディ・ハッターへ飛びかかっていたリヴを見やる。
嘘とも本当とも呼べない虫の大群をぶちぶちと踏み潰しながら、リヴは逆手に握りしめたナイフをフレイディの幻想的な色合いの瞳へ突き立てようとする。うっすらと気味の悪い笑みを口元に浮かべる魔女は、倒れた紅茶のカップへ手を伸ばした。
「ほら、ご覧なさい。お馬さんですよ」
「ッ」
リヴの背後から、白い馬が襲いかかる。
紅茶のカップから到底出せないような質量を持つはずの馬が、フレイディが揺らす空のカップからにゅるりと生み出されたのだ。ぶるる、と
リヴは華麗な体捌きで馬の体当たりを回避すると、その馬の背中に飛び乗って喉元をナイフで掻き切る。血が噴き出る代わりに馬は一瞬で消え去り、幻影だとばかりにその場にはなにも残らなかった。
【OD】同士の戦闘は、極めて面倒臭い。互いに異能力を獲得した超人同士なので、異能力のぶつけ合いでは拉致があかない。なので、自分の持てる戦闘技術も使わなければ、異能力を獲得した【OD】には勝てないのだ。
「非常に残念だけど、俺はこれでも狙撃手でね」
ソファの壁からひょっこりと顔を出したユーシアは、長い銃身を背もたれに乗せる。狙うは彼女の持つ陶器のカップだ。
どうやら彼女は、カップの中から幻影を呼び出すようだ。ならば、その元凶となっているカップを破壊すれば、異能力を封じることができる。
人間相手にはユーシアの異能力は効いてしまうが、無機物相手は通用しない。
ユーシアは
室内に響く銃声。弾丸は的確にフレイディの持つ紅茶のカップを貫き、粉々に砕いた。
粉々に砕けた紅茶のカップに、フレイディは紫色の瞳を見開いて驚きを露わにする。彼女の手の中に残ったカップの取手をぷらぷらと振りながら、
「あらあら、壊れちゃったわ」
「随分と軽いんだね。自分の得物が壊されちゃったって言うのに?」
「私は
フレイディはそう言うと、パチンと指を鳴らした。
甘ったるい部屋のそこかしこから、ガタガタゴトゴトと嫌な音が響き始める。ユーシアは腰を上げて、逃げる準備を整えた。
「帽子の代わりならいくらでもあるわ」
飾り棚に並べられていた紅茶のカップが一斉に震え始める。
ポールにかかっていた赤い帽子が、唐突に揺れ始める。
帽子や帽子の形に類似するものが、同時に振動する。
ガタガタブルブルゴトゴトとさながらポルターガイストよろしく震えたと思ったら、突然ピタリと止まる。それから、
「ああ、ほら。ここは娼館だからねぇ?」
フレイディは艶っぽく笑った。
紅茶のカップから、帽子から、倒れたインク瓶から、ぬるりと全裸の女の子が這い出てくる。姿かたちは様々だが、誰も彼もが目に光が宿っていなかった。
幻想から生み出された少女たちは、ゾンビのように覚束ない足取りでユーシアとリヴへ襲いかかってくる。
「逃げなくていいのかしら?」
言われるがままに、ユーシアとリヴは逃げ出していた。
大量の全裸の女の子たちに二人で挑むなど、分が悪すぎる。
☆
階段を駆け下りる。
途中で殺した娼婦の死体を追いかけてくる全裸の少女たちめがけて蹴飛ばすが、彼女たちの歩みが止まる気配はない。
「ちょっとシア先輩、ペースが落ちてますよ」
「む、無理……無理ィ……お、俺に走れって言う方が……無理だってぇ……」
普段からそれほど運動をしないユーシアは、すでにへなへなの状態だった。後ろからリヴが押してくれないと、階段から下りられずにその場で座り込むことだろう。
今度から運動しよう――ユーシアは心にそう決めた。多分忘れると思うが。
「り、リヴ君はあの女の子たちを殺せないの?」
「殺せますが、さすがに無限ともなると体力的にも厳しいです。前の反省点も踏まえて、あまり【DOF】を持ち込んでいないんです」
リヴは
ネアの父親を殺す際、部下と戦っている時にリヴは【DOF】の大量摂取で意識を失い、ネアに襲いかかったところをユーシアに助けられたのだ。この場にネアはいないとはいえ、もうあんなことはしないと彼なりに決めているのだろう。
ユーシアも錠剤の【DOF】ならば持っているが、さすがにこの状況では錠剤の方が足りなくなってくるかもしれない。あと正直なところ、体力的にも厳しい状況である。
全裸の少女たちは階段をゆっくり下りてきて、確実にユーシアとリヴの距離を縮めてきている。室内で応戦するか、それとも否か。
ユーシアは舌打ちをすると、対物狙撃銃の薬室から空の薬莢を取り出した。新しい弾丸を薬室に叩き込むと、
「とりあえず、リヴ君は人数を減らしてくれる?」
「了解です。なにか考えがあるんですね?」
「まあね。あとは俺の話術次第って訳だけど」
対物狙撃銃を抱えた狙撃手は、真っ黒なてるてる坊主に「あともう一つだけ注文ね」と付け加えた。
「なるべく派手に殺して」
「了解です」
短く応じたリヴは、注射器の中に入った【DOF】を首筋から注入する。直後に幽霊の如く姿が掻き消えた。
しかし、次の瞬間には先頭を歩いていた二人の少女たちの首がぱっくりと斬り裂かれており、幻想から生まれた少女たちは断末魔を上げることなく消えていく。少女たちと相対する真っ黒いてるてる坊主は、俯き加減だった顔を上げた。
「派手に殺せとは、また無茶な注文ですけど」
リヴの手つきに容赦はない。
少女の顔面にナイフの刃を突き立て、その可愛らしい顔を引き裂く。痛みに
息をするように他者を殺戮する邪悪なてるてる坊主は、血に濡れてもいない鈍色のナイフを閃かせて笑う。
「僕じゃなかったら実行できていませんでしたよ」
彼の姿が掻き消える。
ほっそりとした少女たちの腕から逃れた暗殺者は、少女たちの後ろから静かに襲いかかる。背後から腕を折り、綺麗な背中にナイフを突き刺し、ビクリと震えたところで少女を階段から突き落とす。無表情のまま死んでいく少女からあっさりと視線を外すと、注文通りに派手に殺害していく。
相変わらず素晴らしい戦闘技術を発揮するリヴに、ユーシアは心の底から「あの子が味方でよかった」と思った。敵だったら絶対に殺せない。
「あらあら、随分と手荒な殺し方ね」
すると、上階から声が降ってきた。
ユーシアは表情には出さずに、うっそりと笑む。――これが狙いだったのだ、とばかりに。
最上階を陣取る狂った帽子屋の女が、木製の柵から身を乗り出して階下のユーシアとリヴの抵抗を見物していた。早くも勝者の余裕に浸っているけばけばしい女に、ユーシアは嘲笑を送った。
「ただの人形を相手にするだけなら、俺たちには傷一つつけられないけれど?」
「たかが幻想如きに、戦力を期待しないでちょうだい。ただ自滅するのを待っているだけよ」
フレイディは、新しい紅茶のカップを傾ける。おそらくその中身は【DOF】が大量投入されたふざけた紅茶なのだろうが、彼女はそれが好物のようだ。
紅茶に夢中になっている彼女に、ユーシアは銃口を向ける。階下からの狙撃などできやしないと高を括っているようだが、残念ながらユーシアの腕前にかかればこの程度、
「――――あら、アリス。わざわざ戻ってきたの?」
「ッッ!!」
対物狙撃銃の引き金にかけられた指先が硬直する。
遠くの方でリヴが「シア先輩!!」と叫ぶのをよそに、フレイディは飲んでいた紅茶を落としてきた。雨の如く降り注ぐ液体が変質して、金髪の少女となる。
青いワンピースに白いエプロンドレス。幻想の少女が、愛らしく破顔する。頭から逆さに落ちてきた少女の幻影を、ユーシアはただ見ているしかできなかった。
アリス。
アリス。
アリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリス。
アリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリスアリス!!
「はぁー、はぁーッ」
ユーシアの呼吸が荒くなる。
アリスはゆっくりと、上から落ちてくる。このままなにもしなければ、彼女は頭を床に強く打ち付けて死に絶える。そして消えるのだ。幻想なのだから、この世から夢のように消えるのだ。
――ああ、なんだ。そういうことか。
「いくら【DOF】で頭がトチ狂ってるからと言ってね――」
ユーシアは大きく息を吐いて、照準器を覗き込む。十字線の向こうでは勝者の余韻に浸る、毒虫のような女が立っていた。
「――いちいちアリスに反応していたら、身が持たないんだよ」
引き金を引く。
タァン、と極力抑えられた銃声が娼館全体に響き渡り、射出された弾丸の前にユーシアにしか見えない幻想の少女が割り込んでくる。女を守るように立つ少女を弾丸は貫いて、その向こうにいるフレイディにぶち当たる。
狙撃されても、フレイディは傷一つない。ユーシアの【OD】としての異能力が発揮されて、永遠の夢の世界に旅立った。まさにマッドハッターは夢の中である。
フレイディが眠ると同時に、リヴが相手をしていた少女たちもフッと消えた。リヴは疲れたようにため息を吐くと、
「あのけばけばしい女はどうします?」
「殺しちゃおうか。どうせここを燃やしちゃうんだし、火葬しようよ」
「賛成です。火葬が一番安心安全ですよ。埋葬ですと、土の中から蘇っちゃうかもしれないので」
「高火力でウェルダンにしないとね、火傷だけで済んじゃうからね」
会話内容だけ見れば恐ろしいものだが、これが彼ら悪党にとっては普通なのだ。
あっさりと娼館を燃やそうと言う二人は、ガソリンを取りに階段を下りていった。
その日、ゲームルバークで珍しく大規模な火災が起きた。
建物一棟が全焼し、中からは大量の焼死体が発見された。死体は司法解剖に回されて、全員の身元を特定したらしい。
しかし、この火災を引き起こした犯人は、不思議と捕まらなかった。
「さすがに捕まるかと思ったんですけどね」
「意外と警察って無能なんだね」
翌日の新聞に掲載された火災の記事を見ながら、ユーシアとリヴは揃って呟いた。
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