第6章【帽子屋の狂った茶会へようこそ】

 その夜のこと。

 ユーシアはライフルケースを背負うと、狭い部屋を出て行く。途中で寝室の様子を覗き見してきたが、ネアとスノウリリィが小さなベッドで互いに身を寄せ合って眠っていた。臓器を引きずり出してくれる手腕を頼れるが、今夜はユーシアの私情で動くので彼女たちにはついてきてもらいたくない。

 ユーシアが道連れにするのは、真っ黒なてるてる坊主だけでいい。


「……寝てましたか?」

「うん。ぐっすりだよ」


 すでに外で車を用意して待っていた真っ黒な雨合羽レインコートに身を包んだ青年――リヴの質問に、ユーシアは笑いながら答えた。

 彼も今夜の行動に純粋無垢な少女を連れ回すことはしたくないようで、ユーシアの回答に「よかったです」と安堵しているようだった。車の助手席に乗り込んだユーシアを一瞥し、リヴも運転席に乗り込んできた。

 滑るように車は発進し、街灯の光が後ろに流れていく。ユーシアは夜に沈むゲームルバークをぼんやりと眺めていると、華麗なハンドルさばきを披露しながらリヴが言う。


「本当に潰すんですね、あの娼館を」

「うん。潰すよ」


 ユーシアの答えは簡潔だった。

 アリスの手がかりは全て潰すし、潰してアリスが出てくるのであれば万々歳だ。ユーシアはアリスを殺すという目標がある。その目標に近づく為ならば、


「手段なんて選んでいられない。誰に迷惑をかけようと、誰を悲しませようと、俺はアリスを殺すよ。アリスが俺の家族を殺したように」

「ドロッドロの復讐心ですね。まあ、でも」


 ちょうど赤信号になって、リヴの運転する車は滑らかに停止した。


「アンタの復讐心に付き合ってしまう僕も、相当ですね」

「ありがたいと思っているよ」

「堕ちるところまで堕ちてやりますよ。どうせ地獄逝きは決まってるんですから」


 青信号に変わって、リヴが運転する車はやはり滑らかに進み出す。

 他人を殺し、他人を害し、他人から奪い、他人を貶める。ユーシアは目的達成の為に手段を選ばないし、リヴには常識など通用しない。彼らの死後は地獄であることなど、火を見るより明らかだ。

 やたらと振動が少なく静かに動く車の椅子に背中を預け、ユーシアは「ところで」と話を切り出した。


「この車、一体どこから盗んできたの?」

「昨日殺した男がいたじゃないですか。あの野郎の所有物です。なかなかいい車を持ってるんで殺して正解でしたね」

「――あれ、そういえば昨日殺したあの男の臓器はどこにやったの?」

「使い物にならなかったので、ネアちゃんに頼んで捨ててもらいました。あんまり酒とか飲みすぎるとダメですね」


 平然とそんな会話ができるのだから、恐ろしいものである。

 二人を乗せた車は、狂った帽子屋が営む娼館を目指して進んでいく。


 ☆


 せっかく性能のいい車を盗まれたくないので、きちんと駐車場に車を停めたユーシアとリヴは、ようやく目的の建物に到着した。

 確かに『マッドハッターの夢の中』と命名されているだけあって、赤と黒のどぎつい外観のビルだった。看板のネオンもそんな飾りが特徴で、帽子のような形にトランプカードが組み合わさっている。どこの建物よりも悪目立ちしていた。

 これほどアリスを主張するような建物が、果たしてあるだろうか。ユーシアとリヴは『マッドハッターの夢の中』という頭のおかしな看板を掲げる娼館を見上げて、二人揃ってドン引きした表情を見せるのだった。


「……全部燃やしたいなぁ」

「最終的に燃やすことになるでしょうから、いいんじゃないですか? ガソリンならたくさん仕込んできましたよ」


 そう言って、リヴは赤いポリタンクを車のトランクから取り出した。中身にはたっぷりと液体が入っている音がして、ガソリンの臭いが鼻を突く。

 どうします? とばかりにリヴは赤いポリタンクを揺らし、ユーシアは「まだいいよ」と首を横に振った。

 アリスがまだここに出入りしているのか不明だが、狂った帽子屋の店名をつけるぐらいなのだからアリスと関係のある者が経営者なのだろう。話を聞くまでは殺せない。


「じゃあ、行こうか」

「分かりました。では、娼婦や客人を殺した果てに燃やしましょうね。火葬って奴ですよ」

「あれ? 極東特有の葬儀方法だね。リヴ君って出身はどこなの?」

「内緒ってことにしておいてください」


 真っ黒な雨合羽の下で曖昧に微笑んだリヴは、ガソリンが入った赤いポリタンクを車のトランクにしまい込む。

 ユーシアは赤と黒に塗られた、金属めいた質感を持つ扉をゆっくりと開けてみる。扉を開けた瞬間にむわりと甘やかな香りが鼻孔をくすぐり、ユーシアは思わず顔をしかめた。


「香水くっさ!!」

「娼館ってそんなものじゃないんでうわくっさ!!」

「でしょ!? 臭くない!?」


 二人して娼館から距離を取る。

 娼館の扉から漂ってくる匂いが、とんでもなくきついものだった。せ返るような甘い香りがしてきて、くらくらと目眩がする。正常な判断なんかできたものではない。

 こんな淀んだ空気で殺戮行為などできるものか。ユーシアは舌打ちをすると、


「別のところから入ろう」

「どこから入るつもりですか?」

「すぐそこに非常階段があった。二階からでも三階からでもいいから、とにかく匂いが及ばないところから入ろう。息苦しいよ」


 そう言うと、ユーシアは建物の側面に移動する。明るい外観から一歩外れると、薄暗い建物の陰になった場所に非常階段がひっそりと設置されていた。非常口特有の緑色の光が、チカチカと明滅している。

 非常階段は鉄製の扉によって塞がれていて、さらに南京錠と頑丈な鎖で封じられている。リヴがぶかぶかの雨合羽の袖の下から針金を取り出すと、南京錠の鍵穴に差し込んだ。くりくりと器用に動かすと、いとも容易く南京錠は外れる。

 南京錠程度ならひねれば壊れそうな予感がするが、リヴはこういうことはしないのである。なんというか、美学でもあるのだろうか。

 ジャラジャラと頑丈な鎖を回収したリヴは、そのまま雨合羽の下に頑丈な鎖をしまい込む。まさか武器にでもするつもりか。


「暗殺者はね、色々と武器を仕込んでおくものなんですよ」

「ちなみに聞くけどリヴ君、その鎖は一体なにに使うの?」

「南京錠がついてるんで、鈍器の代わりにもなりますしね」

「なんでもかんでも武器にできるリヴ君はすごいなぁ」


 暗殺者ってそんなものだったっけ。

 ユーシアはリヴの技術に感心しながら、無防備になった鉄の扉を開く。狭い階段は大人がようやく一人通れるぐらいしか幅がなく、ライフルケースを背負ったユーシアは階段をゆっくりと上がっていく。


「どこの階層から入ろうか」

「二階からでいいんじゃないですか?」

「……まあ、あの甘い匂いが漂っていなければいいけどね」

「そこですよね、問題は」


 リヴと相談して、あの甘い匂いがしない階層から入ろうということになった。

 カン、カンと鉄製の非常階段を上っていき、そして二階の非常扉の前までやってきた。味気のない扉のドアノブを捻ると、簡単に扉は開く。

 鉄製の扉の向こう側は、どこまでも続く長い廊下が伸びていた。右側と左側にそれぞれ部屋の扉があり、閉ざされた扉の向こうから少女たちの嬌声が聞こえてくる。


「幸いにも、甘い匂いはしてこないですね」

「うん。でも、あの甘い匂いってなんなんだろう?」

「ああ、あれ【DOF】ですよ」


 リヴは平然とそんなことを言ってのける。


「【DOF】をいぶすと、あんな甘い匂いがするんです。麻薬を香水代わりにするってどうにかしてますよね」

「そもそも【DOF】を燻した時の匂いを知ってるだなんて、リヴ君って本当に何者なの」


 こんな道に引きずり込んでしまったのだが、リヴの他人を殺す手つきは容赦がない。号令一つで本当に殺してしまうのだから、生まれた時から暗殺者として育ってきたのだろうかと思ってしまう。

 ライフルケースから純白の対物狙撃銃を取り出したユーシアは、部屋から娼婦や客が出てこないかと警戒するリヴの背中へ質問を一つだけ投げかける。


「暗殺者になる前、リヴ君はなにをしていたの?」

「諜報官をしていました。いわゆるスパイです。各国の重要機関に潜入して情報を持ち帰る仕事をしていました。その為に【OD】になる必要があったんですよ」


 ぶかぶかの雨合羽の袖から手のひらに収まる程度の小さな自動拳銃を滑り落としたリヴは、なんでもないような口調でそんなことを言った。


「殺せと言われたら殺せますし、情報収集は元々の仕事ですからね」

「なにか心に傷を負ったとか、俺と境遇は同じかと思ってたけど違うんだね」

「がっかりしました?」

「いいや、ちょっと納得した感じ」


 対物狙撃銃の薬室に狙撃用の弾丸を叩き込み、装填する。

【OD】として眠りの森の美女の異能力に目覚めてしまったユーシアに、弾丸は基本的に必要ない。弾丸がなくても、照準器スコープを覗いた向こう側にいる獲物は確かに眠らせることができる。

 弾丸を射出しても誰も傷つけられないので狙撃手の名折れであるが、それが永遠に目覚めない眠りだったどうだろうか。魔法がかかったように永遠と眠り続け、そのまま死んでいくのは殺したことにならないか。


「シア先輩も【OD】になってから誰も傷つけられなくなったってのに、どうしていまだに弾丸を使い続けるんですか?」

「職業病だよね。これがあれば、自分が他人を殺したって自覚できる」

「先輩は昔から狙撃手ですか? 前は軍隊にいたって言ってませんでしたっけ」

「そうそう。軍人時代から狙撃兵よ」


 軍人だった記憶は朧げながらあるけれど、今は目の前のことに集中しなければ。

 ユーシアは対物狙撃銃を抱えると、やはり曖昧な笑みを浮かべてみせた。リヴも「まあ、深くは聞きませんよ」と言う。


「だってこの関係、気に入ってるんですから」

「奇遇だね。俺も案外、気に入ってるんだよ」


 そう言うと同時に、すぐ近くの扉が開いた。

 扉から出てきたのはやたらと扇情的なドレスに身を包んだ少女で、客である男の腕に抱きついている。ちょうど扉の陰に隠れていたので、ユーシアとリヴの存在に気づいた様子はない。

 リヴは雨合羽のフードを被り直し、ユーシアは対物狙撃銃を構える。照準器を覗き込み、その向こうにまずは客の男を収めた。


「リヴ君、走って」

「了解です」


 足音もなく廊下を駆け出すリヴ。

 ユーシアは純白の対物狙撃銃の引き金を引いた。タァン、と極力抑えられた銃声に気づいた客の男と娼婦が振り返る。

 視界の隅で笑っていた、ユーシアにしか見えない幻影の少女が客の男の首にしがみつく。こちらを向いて嘲笑う少女の眉間を正確に貫いた弾丸は殺傷力というものを削がれ、客の男の心臓にぶち当たる。

【OD】の異能力によって永遠の眠りに誘われた男は、さながら糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。少女が甲高い悲鳴を上げるより先に、音もなく襲いかかったリヴが彼女の鳩尾に拳を叩き込んで黙らせる。


「さて、殺しましょうか」

「殺そう殺そう」


 雨合羽の下からナイフを取り出したリヴは、永遠に眠る客の男の喉笛をまずは切り裂いた。

 ユーシアは苦しそうに呻く娼婦の少女へ対物狙撃銃の銃口を押し当てると、


「ごめんね。君には全く恨みはないんだけど、死んでもらうよ」

「い、いや……いや……」


 怯えた表情で死を拒絶する少女を、ユーシアは笑顔で死出の旅路に送り出す。

 引き金を引く。音もない殺意が、少女の意識を刈り取った。

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