第5章【蹂躙する悪意】

「…………あの、私はいつ解放されるのでしょう?」


 ネアの髪を結んでやっていたメイド姿のスノウリリィが、不意にそんなことを言い出した。むしろ、解放されると思い込んでいる彼女のお花畑な思考回路に驚きである。

 雨合羽レインコートの中に武器を仕込んでいたリヴは、スノウリリィのぽやんとした質問に「は?」などと本気のトーンで応じていた。殺人事件しか書かれていない新聞を読んでいたユーシアもまた、スノウリリィの発言には驚きを隠せなかった。

 豊かな金色の髪をフィッシュボーンに結び終えると、ネアは翡翠色の瞳を輝かせて「すごーい!!」と鏡を食い入るように覗き込む。料理では壊滅的な不器用さを見せたスノウリリィだが、どうやら髪を結ぶことは得意らしい。


「…………スノウリリィちゃん、それってボケで言ってる訳じゃないよね?」

「ボケってなんのことです?」

「あー、やっぱり」


 ユーシアは頭を抱えた。この銀髪メイドさんは命を奪われそうになったというのに、安全に家に帰れると思っているらしい。天然を通り越して世間知らずである。さすが元修道女シスター

 ちらりとリヴを一瞥すると、リヴも「これはダメですね」と肩を竦めていた。ネアが気に入っていなければ今すぐにでも殺してバラバラにしそうだが、彼にしては珍しく耐えてくれている。おそらく、号令一つでメイドの命は簡単に奪われるだろう。

 すると、スノウリリィが帰ってしまうことをなんとなく察したネアは、スノウリリィの腰に抱きついて「やだ!」と我儘わがままを叫ぶ。


「りりぃちゃん、かえっちゃやだ! ねあとあそぶの!」

「でも、私にはお仕事が……」

「スノウリリィちゃんのお仕事って娼婦でしょ? 修道女のお前さんなら、嫌で嫌で仕方がないんじゃない?」


 スノウリリィの白い喉が引き攣る。

 彼女は存在しない神様に仕える、敬虔けいけんな信徒だ。春を売る娼婦の仕事は嫌で仕方なかっただろう。進んで勝負の仕事に戻ろうとするあたり、すでに順応しているのか。


「それなら、ネアちゃんのメイドさんでいる方がいいんじゃないかなぁ?」

「ですが……」


 スノウリリィは青い瞳を伏せて、


「私が仕事に戻らなければ、客と駆け落ちしたと見なされてしまいます。そうすれば娼館から追手が……」

「うん。初めからそれが目的だよ」

「え?」


 スノウリリィが顔を上げる。

 ユーシアの狙いは、まさにそれだった。娼婦と客が駆け落ちしないように、店側が用意した防衛措置がやってくるのをずっと待っているのだ。娼館の防衛措置は優秀で広い情報網を有しているので、逃げた娼婦と料金を踏み倒した客を地の果てまで追いかけてくる。

 娼婦であるスノウリリィもまた、例外ではない。彼女の場合は客が殺されるという事態に陥ってしまったが、帰ってこないことには変わりはない。おそらくもうそろそろやってくる頃合いだろう。


「俺たちはスノウリリィちゃんの娼館を潰す為に動くからねぇ。それなりの身分は用意しないといけないのよ」

「こちとら自由業ですからね。自由に人を殺して自由に金銭を奪って、そんな悪党ですから」

「貴方がたは、頭がおかしいのではありませんか?」


 スノウリリィが半眼で睨みつけてくるが、ユーシアとリヴはどこ吹く風だった。

 その時だ。

 薄い扉の向こう側が、にわかに騒がしくなった。ようやく目的の人物が到着したらしい。


「おい、いないぞ。どこに消えた」

「スノウリリィの奴め、逃げやがって。オーナーに報告したらたっぷり可愛がってやる」

「あいつはなかなかの上玉だからな。俺にもヤらせろよ」


 下品な男どもの会話が、薄い扉を隔てて丸聞こえである。

 スノウリリィが見るからに怯え始め、瞳を見開いたまま石像のように動かない。まさか娼婦が隣の部屋で、メイドの格好を強要させられているとは思わないだろう。この姿を見れば格好の餌だ。

 しかし、彼らが相手にしなければならないのは、ユーシア・レゾナントールという男と、リヴ・オーリオという青年である。もっと言えば、おそらくこのゲームルバーク始まって以来の悪党である。理不尽に他人を殺し、奪い、嘲笑うのが彼らだ。


「リヴ君」

「はい」


 リヴはぶかぶかの雨合羽の袖から二挺の自動拳銃を滑り落とし、それらを拾い上げる。一挺をユーシアに投げて寄越してくると、ユーシアは慣れた手つきで自動拳銃から弾薬を抜いた。

 別に一般人を殺したくない、という優しい心が表れたからではない。弾薬代も馬鹿にならないので、無駄に消費することを控えているのだ。


「ネアちゃんは、スノウリリィちゃんと一緒にいるんだよ。メイドさんを守ってあげてね」

「おまかせー」


 ネアは胸を張ると、スノウリリィを逃さないようにガッチリと腰に掴まった。内臓を抜き取るほどの実力を有する少女である、きっと立派にスノウリリィを守ってくれることだろう。

 ユーシアとリヴは互いに顔を見合わせると、一度だけ頷いた。ユーシアは薬瓶から錠剤を取り出して口の中に放り込み、リヴは注射器を首筋にぶっ刺した。【DOF】も注入し、戦闘準備は万端である。


「じゃあ、行こうかリヴ君」

「はい。理不尽な殺人を、今日もやっちゃいましょう」


 雨合羽のフードを被ったリヴは、フッとその姿を幽霊のように消す。【OD】の異能力を使って、親指程度まで小さくなったのだ。

 ユーシアは自動拳銃を背中に隠し、そっと玄関の扉を開ける。

 隣の部屋の前で、黒い服の男たちが三人ほど顔を突き合わせて話をしていた。が、一人がユーシアの存在に気づくと「おい兄ちゃん」と酒に焼けた声で呼びかけてくる。


「この辺りで銀髪の女を見なかったか? 若い女だ。あと自分を修道女だとか頭のおかしなことを抜かす奴」

「それならうちで保護してますねぇ。ちょうどメイドがほしかったので、メイドの格好をさせてます」


 サラッと居場所を吐いたユーシア。部屋の奥から「なんで知らせるんですか!?」などというスノウリリィの悲鳴が聞こえてきた。

 娼館からの追手である男は、低い声で「ああ?」と威嚇いかくしてくる。一般人なら一目散に逃げ出すが、ユーシアは曖昧あいまいな笑みで対応した。


「そんなに睨まないでくださいよ。怖いじゃないですか」

「……舐めてんのか、テメェ。うちの商品を勝手にメイドだァ?」

「あと、喧嘩を売る相手はよく見た方がいいよ。隣が凶悪な殺人鬼ってことは、ゲームルバークじゃ常識だからねぇ」


 背中に隠していた自動拳銃を威嚇してきた黒服の男に突きつけると、ユーシアは引き金を引いた。空の薬室を叩く撃鉄。カチンという間抜けな銃声と共に、殺意が込められた不可視の弾丸は相手を的確に貫いて、眠りの世界へと誘った。

 ガクン、と膝から崩れ落ちる男を冷めた目で見下ろすと、ユーシアは仲間たちの声が聞こえていないことに気づいた。見ればすでに黒服の連中は殺されていて、ぱっくりと裂かれた喉からは血が噴き出ていた。

 雨合羽を返り血で汚すリヴは、血に染まったナイフを見せつける。


「どうしましょうか」

「ネアちゃんに頼んで、臓器を抜いてもらおうか」

「分かりました」


 ロリに血生臭い現場にはきてほしくないと言っていたリヴだが、ネアによる相手の腹を掻っ捌く技術を目の当たりにしてからなにも言わなくなった。雨合羽の袖にナイフをしまうと、部屋に待機しているネアを呼びにいく。

 数秒と時間を置かずにネアが天使のモチーフが特徴のナイフを片手に廊下に飛び出してくると、三人の獲物を前に「きゃー」と歓喜の声を上げた。


「たいりょうだー」

「ネアちゃん、よろしくね。綺麗に臓器を取り出してね」

「おまかせ!」


 ネアはまたも自信満々に胸を張ると、ユーシアが眠らせた男の腹に跨った。それから衣服をナイフで切り裂いて腹を露出させると、太った腹にナイフを突き立てる。

 目の前で行われる美少女による解体ショーをぼんやり眺めていると、ひょっこりと部屋から顔を覗かせたメイド姿のスノウリリィが短く悲鳴を上げる。


「ね、ネアさん……? なにをして……?」

「スノウリリィちゃんも解体ショー見ていく? すごい手つきが鮮やかだよねぇ」

「貴方の頭はおかしいのですか!?」


 スノウリリィがユーシアに掴みかかる。その手はガタガタと震えていた。

 自分の命を奪おうとした頭のおかしな男に、説教しようというのだ。怖くない訳がないだろう。


「貴方は、尊い命をなんだと思っているのですか!?」

「それさっきも聞いたよ」

「どうしてそれほど簡単に、他人の命を奪えるのです!?」

「そうだねぇ。殺そうと思ったら殺してるよねぇ」

「…………狂ってる、やっぱり貴方は狂ってる……!!」

「このゲームルバークでまともな思考回路を保っていられるのは、お前さんのように根っからの善人だけだねぇ」


 ユーシアはスノウリリィの腕を払うと、


「俺は根っからの悪党だからね。命を奪うことには躊躇しないし、これからも誰かを殺していくよ。殺して奪わなきゃ、生活できないからね」

「……まともに働こうということはしないのですか」

「昔は思っただろうけど、今はそんな気しないな。――それよりも」


 ユーシアはネアのそばにしゃがみ込むと、腹を開かれた男の衣服を剥ぎ取り始める。胸ポケットに入っていた身分証明書を抜き取ると、店の名前と住所を確認した。

 マッドハッターの夢の中、とある。


「不思議の国のアリスになぞらえてるね。やっぱりやっこさんが出入りしているだけはあるのかな?」

「シア先輩、店の名前は特定できました?」

「『マッドハッターの夢の中』だって。もうちょっとエッチな名前をつけたらよかったのにねぇ」


 抜き取った身分証明書を部屋からひょっこり顔を出したリヴに手渡すと、リヴもまた「まだマシな名前があったでしょうに……」と呆れた様子だった。


「でも、この住所なら把握しています」

「今夜にでも潰しちゃっていい?」

「分かりました。武器をたくさん仕込んでおきますね」

「お願いね」


 身分証明書を持ったまま、リヴは部屋に引っ込んでいく。おそらく偽造するつもりだろう。

 スノウリリィは絶望に表情を強張らせて、


「ほ、本当に潰すのですか?」

「本当に潰すよ。経営者も娼婦の女の子も、建物に残っていたら皆殺しにしちゃおう。騒がれたら面倒だしね」

「……狂ってる」

「じゃあお前さんは、比較的まともなネアちゃんのお守りをよろしくね」

「そしてやっぱり帰してくれないんですね!?」


 そんなに娼婦に戻りたいのだろうか、と疑問に思うところだが、もうやり取りが面倒なのでユーシアは笑って誤魔化した。

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