第6章【可愛い子には夢を見せろ】

「いやー、全くお風呂まで借りれちゃうとはねぇ。どこまで警戒心がないんだか……」


 熱いシャワーを全身で浴びながら、ユーシアは家主の寛容かんようさに呆れていた。

 今日知り合ったばかりの野郎二人を部屋に入れただけではなく、こうして風呂まで貸してしまうのだから、どれだけユーシアに気を許しているのだろうか。熊の人形一つで豪華なホテルの最上階に無料で宿泊できるのだから、超がつくほど安上がりである。

 ネアは今、相棒のリヴと一緒に人生ゲームの真っ最中である。小さい子供が好きとは聞いていたが、精神年齢が退行していれば成熟しきった少女でも対象になるリヴの変態さに驚いた。

 とはいえ、これは相手の好意である。無下に断れば悲しませるだけだし、そもそも安宿のアテがなかったので好都合だ。


「…………なーによ、俺の風呂の邪魔をしないでくれる?」


 シャワーを止めて、ユーシアは背後に佇む少女へ胡乱うろんげな視線をやった。

 浴室に設置された鏡には、ユーシアの上半身が映っている。その後ろにはニコニコとした笑みを絶やさない金髪の少女が、優しげに佇んでいるだけだった。シャワーを浴びた影響で風呂場は濡れているにもかかわらず、彼女の可愛らしいワンピースは濡れた箇所などない。

 少女はなにも言わない。ただニコニコとしながら、ユーシアを観察しているだけだ。

 気味の悪い笑みを浮かべる少女に、ユーシアは手を差し伸べる。少女の小さな手がそっと濡れたユーシアの手に乗せられるが、そのふっくらとした手のひらからは温かさが感じられない。


「全くさぁ。お兄ちゃんのお風呂を覗くような妹に育てた記憶はないんだけど」


 ユーシアは苦笑するが、少女が応じることはない。

 この少女は、ユーシアの幻影である。ユーシアだけが見える幻影であり、ユーシアにしか彼女は微笑みかけない。

 ――ユーシア・レゾナントールもまた、ネアと同じく【ODoverdose】である。

 発現した異能力は、撃った相手を強制的に眠らせること。眠りが浅い人でも眠りが深い人でも、ユーシアは平等に安眠を与えることができる。その深さも幅広く、朝スッキリ目覚めたい健康的な睡眠から、一生起きることが叶わない昏睡状態まで対応が可能だ。ユーシアはこの異能力を『眠りの森の美女』と推測している。

 この異能力を発現させたおかげで、ユーシアの弾丸は誰も傷つけることはなくなった。視界の端からユーシアへと笑いかける幼い少女が、いつも射線に入り込んで邪魔してくるのだ。少女を貫通した銃弾は殺傷能力を削がれ、代わりに相手へ安らかな眠りを与えてしまう。


「お兄ちゃん、狙撃手なんだよ。誰も殺せない狙撃手だなんて、商売上がったりだよ」


 笑いかける少女の頰を撫でてやっても、そこに温度はない。まるで人形を撫でているように冷たい。

 やれやれと肩を竦めたユーシアは、再び洗髪の作業へと戻る。少女の幻影はまだ鏡の中にあり、ユーシアの後ろで佇んでいるが、唐突に幼い彼女は桜色の唇を開閉し始めた。


「――――?」


 シャワーコックを捻って、ユーシアはお湯を止める。

 少女の声は聞こえないが、読唇術を獲得しているユーシアにとって彼女の言いたいことを察知することなど朝飯前だ。

 鏡を凝視して、少女の唇の動きを読み取る。


(――あ・お・お・あ……『あの子が』……う・う・お……『くるよ』かな。あの子がくるよ。誰のことを示してる?)


 その時だ。

 浴室の扉の向こうでなにかが揺れると、ユーシアがまだ入っているにもかかわらず扉が開く。少女の幻影を掻き消して音もなく滑り込んできたのは、黒い雨合羽レインコートの相棒――リヴだった。


「ちょっとリヴ君、俺がまだ入ってむぐッ」

「静かにしててください」


 ユーシアの文句を途中で塞いだことにより、ただならぬ気配を察知した。なるほど、幻影の少女はリヴがやってくることを告げていたのか。

 リヴが浴室の扉を指で示して、ユーシアは静かに頷く。なるべく足音を立てずに、存在感を消して、浴室の扉に張り付いて部屋の音へ耳を傾けた。


「また外出していたな、この馬鹿娘!! 外出禁止だって何度言ったら分かるんだ!!」

「いやああああ!! おこらないで!! ごめんなさい!! ごめんなさいいいい!!」


 男の怒号と、少女の悲鳴。

 フードを被ったリヴの横顔が恐ろしい気配を帯び、ユーシアは今にも飛び出していきそうな黒いてるてる坊主を押さえるように肩へ手を置いた。

 なにかを殴る音が聞こえてくるが、おそらくネアが殴られているのだろう。そしてその相手は、彼女が恐れていた幻影のもと――ネアのだ。


(――先輩、殺しちゃダメですか)

(今飛び出していったら、ネアちゃんがクソ親父を庇うか、クソ親父が逆ギレしてネアちゃんを殺しちゃうかの二択が予想できる。いくらお前さんの暗殺の腕前がすごくても、今は我慢して)


 ユーシアの言う状況も考えられたのか、リヴは唇を噛み締めて押し黙った。ぶかぶかの袖にはおそらく、得物のナイフかなにかが仕込まれていることだろうが、自称紳士の彼にしてはよく耐えている。

 やがて、扉の向こうで繰り広げられていた暴力沙汰は終わりを迎えたようだった。父親らしき声が吐き捨てるように、娘へ言う。


「いいか、ちゃんと薬を飲んでおけよ。そして外出は禁止だ。今度また外に出たら殺すからな」


 娘の方はなにも答えない。

 苛立ったような足音が近づいてきて、ユーシアとリヴは息を殺して通り過ぎるのを待つ。

 まさか野郎二人が浴室にいるとは考えなかったらしい父親は、そのまま荒々しく扉を閉めて部屋を出て行ってしまった。完全に気配がなくなったことを察知してから、リヴが真っ先に飛び出していく。


「分かるけどねぇ。俺まだ全裸なんですけど」


 そもそも今までシャワーを浴びていた身なのだが、今はそんなことも言っていられない。全裸で年頃の少女の前に出ていくのもあれなので、ユーシアは腰にタオルを巻きつけてリヴを追いかけた。

 リビングの方から「ネアちゃん、ネアちゃん!!」とリヴの声が聞こえてくる。ユーシアも遅れてリビングへ足を踏み入れると、そこは悲惨な状況となっていた。

 ユーシアが買ってやった大きな熊のぬいぐるみは首をもがれ、中身の綿をぶち撒けた状態で転がっている。人生ゲームのボードはひっくり返り、駒はそこかしこに散らばっている。そして家主のネアは、リヴの腕の中で体を縮こまらせ、ガタガタと震えていた。その顔は赤く腫れあがるどころか、青痣を作っている始末である。


「いや……いや……おこられたくない、の……おねがい……おとうさん……おこらないで……ねあ、ものむから……おそとにもいかない、から……!!」


 譫言うわごとのように呟くと、ネアはソファに投げ出したままだった熊のポシェットに飛びついた。青痣を作った細い腕でポシェットを引っ掴んで、真っ逆さまにする。中身が床に散らばって、ネアは落ちた飴玉を拾い上げた。

 飴玉の包装紙を引き千切り、ネアは中身を口の中に放り込む。ガリゴリと本来は舐めて溶かすはずの飴玉を噛み砕き、次の飴玉を口の中に押し込んだ。


「ひぎッ、ぐッ、ううッ……」


 ネアは泣きながら飴を食らっていた。飴の破片によって口の中を切ったのか、唇から少量の血が流れる。それでも構わずネアはポシェットに入っていた飴を全て噛んで飲み込んで、それでもまだ足りないかと考えてテレビの横に置いてあった大量の飴玉を詰め込んだ瓶をひっくり返す。

 陶器製の瓶が落ちて割れ、破片と共に飴玉を散らばらせる。ネアは必死に飴玉を口の中に押し込んで、噛み砕いて、無理やり飲み込んで、父親の言いつけをきちんと守ろうとしていた。

 その飴玉が、おそらく【DOF】なのだろう。ネアは飴玉を口いっぱいに押し込んで、そして耐え切れなくなって全て吐き出した。嗚咽を漏らす少女の口から、色とりどりな飴玉が転がり落ちる。


「ネアちゃん」


 頃合いを見て、ユーシアはネアを呼びかけた。

 涙に濡れた瞳でネアはユーシアを見上げて、それから迷子の子供がようやく母親の影を見つけたかのように、ユーシアへと飛びついてくる。文字通りである。【DOF】を大量に摂取したことによって彼女は自在に飛び回る力を得て、ユーシアのもとまで飛んできたのだ。

 金髪の少女をしっかりと抱きとめてやり、ユーシアはネアに優しい口調で問いかける。


「ネアちゃんのお父さん、怖いね。俺もちょっと怖くなっちゃった」

「うん……こわいの……ねあね、おとうさんに、おそとでちゃだめっていわれてて、でも、おとうさんが、おへやのなかにたくさん、いるから、こわくて……」

「そっか、そっか。ねえ、ネアちゃん」

「なあに?」

「ネアちゃんのお父さん、殺しちゃってもいいかな? ネアちゃんも、もう痛いの嫌でしょ? だから、もうネアちゃんが痛い思いをしないように、俺とリヴ君でお父さんを懲らしめてあげるから」


 それは、五歳の精神しか持ち合わせない彼女にどう響いただろうか。

 ネアは翡翠色の瞳を瞬かせて、そしてユーシアの「懲らしめてあげる」という言葉を都合よく解釈して、彼女は「ん」と頷いた。


「――という訳だ、リヴ君。殺しちゃおうか」

「いやー、滾りますね。久々に張り切っちゃいますよ、僕」


 思考回路まで真っ黒に染まったてるてる坊主は、フードの下でにんまりと笑った。


「ところでシア先輩、それ羨ましいので殺してもいいですか?」

「待ってリヴ君。その殺意を俺に向けられても困るんだけど!?」


 とにかく、まずは着替えが先決だ。

 ユーシアはネアを殺気をまとい始めたリヴへと押しつけて、脱衣所へと取って返すのだった。

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