第5章【月の川を渡る少女】

 微睡まどろんでいたユーシアは「起きてくださいよ」とリヴの言葉で目を覚まし、そして何故か目の前にどんと鎮座している絢爛豪華なホテルの外観に顎が外れそうなほど驚いた。

 なんか門前に獅子の銅像が飾ってあるし、観葉植物は巨大だし、シャンデリア下がってるし、なんか高級ホテル独特の匂いがするし!?

 混乱するユーシアは「早く出てくださいよ」とリヴに促され、ライフルケースを片手に助手席からようやく車の外へ出た。リヴは後部座席に寝かせておいたネアを抱き起こしているところだったので、ユーシアは彼が変な気を起こさないうちにネアを背負ってやる。


「なーに、このホテル。めちゃくちゃ金使ってるじゃん」

「ムーンリバーホテルって名前らしいです。有名みたいですよ」

「従業員は全員マフィアかな」

「玄関に立ってる優男がそう見えるなら、そうなんじゃないですか?」


 リヴはホテルの従業員に車を任せると、軽やかな足取りでロビーへと入っていく。ユーシアもネアを背負い直して、重たいライフルケースを引きずりながらロビーへと足を踏み入れた。

 絢爛豪華をそのまま体現したかのようなロビーは、たくさんの旅行客で溢れ返っていた。家族連れに恋人同士、果ては一人旅なんてのも多岐に渡る。それぞれ旅行鞄を携えていて、談笑しながらチェックインを待っている。

 きちんとした料金で宿泊することはできないだろうな、とユーシアは思いながら、手近なソファにネアを下ろして、自分も隣に座った。煌びやかな空間では少しばかり浮いている雨合羽レインコートのリヴに、


「じゃあ、リヴ君。頼んだよ」

「ご希望の階数は?」

「最上階がいいなぁ」

「了解です。五分ほどお待ちくださいね」


 リヴはそう言うと、足音も立てずにロビーから一瞬で姿を消した。おそらく人混みに紛れて最上階へ向かう昇降機エレベーターでも利用するのだろう。彼の存在感の消し方は、全く本当に恐れ入る。

 上半身裸の上から雨合羽を着てる変態なのに、仕事になると途端に頼りになることが不思議でならない。「なにか手伝いますか?」と問いかけてきた従業員の男を片手であしらいつつリヴの帰還を待つユーシアは、隣に座らせたネアが動く気配を感じ取った。

 安らかな寝息を立てていた金髪の少女は、ぐずるように「ん、んぅ」と呻いて、それからようやく目を覚ます。

 ぼんやりと翡翠色の瞳で虚空を見上げ、現実を認識した彼女は弾かれたように立ち上がる。大理石の床を裸足で踏みしめたネアは、怯えたような表情でホテルのロビーを見渡した。


「な、なんで……なんで、ねあ、おうちにかえってきたの……?」

「あれ、ここってネアちゃんの家があるの?」

「おにいちゃん!!」


 知っている人がいるという安心感からか、ネアが勢いよくユーシアへ抱きついてくる。精神年齢が後退しているからか、力の加減ができずにユーシアの腰に綺麗な括れができそうな強さで抱きついてくるので、ユーシアは軽く冥府へ旅立ちかけた。

 ネアは気絶寸前のユーシアの胸板に額をぐりぐりと押しつけると、何故か涙を流し始めた。


「こわいよ、おにいちゃん……ねあ、ここにいたくない……ひとりぼっちなんだもん……」

「…………そっか。ネアちゃんは一人でお留守番をしてた訳だ」


 ネアの小さな頭をポンポンと撫でてやっていると、遠くの方で「しーあーせんぱーい」と間延びしたリヴの声が聞こえてきた。上手く人混みを回避してやってきた雨合羽野郎は、任務を終えたらしくバリバリの存在感を発揮していた。

 誰もが二度見する中で戻ってきたリヴは、ユーシアに抱きつく少女とユーシアを交互に見やると、


「なにこの羨ましい状況。殺していい?」

「今まさに死にそうだからやめて。モデルもびっくりする綺麗な括れができそう」

「そうなったらモデルでも目指せばいいじゃないですか。やったね先輩、モテモテですよ」

「そんなモテ方は嫌だい」


 茶化してくるリヴに対して吐き捨てるようにして応じたユーシアは、部屋の戦果を視線で問いかける。すると、彼は首を横に振った。


「最上階は部屋が一つしかありませんでした。鍵がかかっていたのでちょちょいと侵入したのですが、部屋に人はいませんでした。どこかに出かけている可能性が高いですが、どうしますか? 乗っ取ります?」

「うーん、戻ってきて騒がれても大変だしねぇ。ちなみに何号室?」

「最上階が三五階なので、三五〇一号室になるかと思います」

「ねあのおへやだよ!」


 ユーシアに抱きついていたネアがパッと顔を上げ、それからいそいそと熊のポシェットから黒く塗り潰されたカードを取り出した。

 リヴがカードを受け取って確認してから、ユーシアに手渡してくる。つるりとした表面に刻まれた部屋番号は、確かに最上階の三五〇一号室とあった。

 野郎二人で顔を見合わせると、この絢爛豪華なホテルを住処とする少女は、怯えた様子から態度を一転させて嬉しそうに微笑んだ。


「おにいちゃんたち、おへやにくるの? ねあ、おにいちゃんたちといっしょなら、おへやにかえるよ!!」


 ☆


 全面が鏡張りとなった最上階まで直行する昇降機に三人は乗り込み、ネアが迷わず最上階のボタンを押す。一緒に乗った旅行客は驚いたようにネアを二度見してきたが、成り行きでできた兄二人と一緒にいられることがよほど嬉しいのか、ネアは周囲の視線を気にした様子はない。

 反対に、ユーシアとリヴは居心地が悪かった。精神年齢が後退しているとはいえ、野郎二人が女の子の世話になるなんて情けない限りである。家主を殺して部屋を乗っ取った方が、まだ精神的に楽だった。

 ちらほらと乗客が途中の階層で降りていき、最後に残ったユーシアたちを昇降機は最上階へと届ける。ポーン、という到着を告げる合図が昇降機内に響き、ゆっくりと扉が左右に開かれていく。


「こっちだよ!」


 張り切って先導するネアは、裸足で絨毯を踏みつけて最上階を突き進んでいく。確かに他の客室らしき扉は存在せず、唯一の客室である扉が奥にあるだけだ。

 ライフルケースを引きずるユーシアは、ひそひそと高級ホテルでは悪目立ちする雨合羽野郎に耳打ちする。


「ねえ、今からでも遅くないから安宿でも探さない?」

「ロリを泣かせるつもりですか」

「くっそ、全国のロリにゲロ吐くほど甘い真っ黒てるてる坊主のくせに……」

「シア先輩、明日の朝日を拝めないようにしますか?」

「上等だよ、お前さんの脳天をぶち抜いて永遠の眠りに誘ってやろうか」


 早くも二人の間に剣呑な空気が漂い始めるが、空気を察知する能力を精神年齢と共に欠如したネアには関係なく、弾んだ声音でユーシアとリヴの間に飛び込んでくる。


「おにいちゃん、はやくいこっ?」

「はーい、今行きまーす。案内お願いしまーす」

「ちょ、おい、待ってリヴ君。首が絞まってる首が絞まってるこのままだと確実にお部屋に着くまでに俺死んじゃう」


 容赦なく襟首を掴まれて引きずられるユーシアは、ニコニコと対子供用に用意された綺麗な笑みを浮かべるリヴに訴えるが、彼は一切耳を傾けようとしなかった。

 軽く綺麗な川が見え始めた頃、ネアが扉の横に取りつけられた機械にカード型の鍵を差し込むのを視界の端で捉えた。ガチャンと施錠が自然と外れて、重たい扉を少女は押し開ける。


「はい、どーぞ!」


 見ず知らずの男二人を、ネアは満面の笑みで部屋に通してしまう。

 リヴの手によって部屋の中に投げ込まれたユーシアは、柔らかな絨毯とキスをすることになってしまう。床を舐めるユーシアの脇をリヴが「すごい部屋ですね」なんて言いながら通り過ぎていき、家主であるネアはユーシアの脇にしゃがみ込んで「大丈夫?」なんて問いかけていた。しゃがみ込んでいるのでスカートの中の夢の国がこんにちはしているのだが、彼女が気にした様子は全くない。

 ユーシアは物理的にも精神的にも鼻血を流しそうになったが、鼻を押さえて「大丈夫だよ」と応じる。ライフルケースを引きずってリヴを追いかければ、


「――すっご」


 ユーシアも自然と言葉が漏れていた。

 なんというか、もはや家である。長期での滞在を想定して設計されているのか、大理石のキッチンに家電まで完備の状態である。広々としたバルコニーは屋外プールがついていて、寝室もご丁寧なことに二つある。しかも寝室のベッドはキングサイズだ。大人二人が占領したってお釣りがくる。

 リヴはすでに我が家のように寛いでいて、ふかふかなソファに寝そべってテレビの電源を押していた。バラエティ番組を吟味するようにチャンネルを変えていき、そして可愛らしい少女が主役のアニメが放映されている番組で動きが完全に止まった。

 そんな馬鹿たれてるてる坊主の脳天に拳骨でも落としてやりたい気分になったが、ユーシアはネアへ優しい口調で聞く。


「ネアちゃん、そのポシェットの中身を見せてくれる?」

「いいよ」


 二つ返事で了承したネアは、ユーシアの手のひらにポシェットの中身を全てぶち撒けた。

 ハンカチ、ちり紙、飴玉が数個、そしてアニメ柄の財布。ユーシアはその中から財布を選んで、中身を確認した。

 金銭の類やカード類はないが、一枚の身分証明書らしきカードが発見される。カードを抜き取れば、それは学生証だった。それも、超有名な女子校のものである。

 無表情で写真の中に佇むネアと、その横にネアの本名が並んでいた。

 ――ネア・ムーンリバー。

 そういえばこのホテル、ムーンリバーホテルって言ってたか。


「おにいちゃーん、なにみてるのー?」

「恋して☆えんじぇうですよ」

「あ、ねあもみてるよー!」

「いいアニメですよね。主人公の女の子が可愛くて、もう本当に語彙力がなくなるぐらいに最高」


 ユーシアから興味を移したネアは、アニメに釘付けになっているリヴのもとまで駆け寄っていた。

 ユーシアは財布へ学生証をしまい込みながら、しみじみと呟く。


「お嬢様だったんだなぁ」


 普通に生きていれば幸せになれたのに、【DOF麻薬】に手を出して【OD】となってしまうのは非常に残念である。

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