第1章【犯罪都市ゲームルバーク】

 ガタン、という僅かな衝撃で車内が揺れて、ちょうど窓枠に肘を預けて眠っていた男は、振動によって肘を滑らせて窓に頭をぶつけた。思いのほか痛々しい音がラジオがかけられている車内に落ち、運転席に座る黒髪の青年が「ちょっと」と抗議の声を上げた。


「寝ないでくださいよ。もうすぐ着きますんで」

「無理だって……俺に寝るなって言う方が無理だって……」


 助手席で居眠りをしていた男は、寝ぼけ眼をこする。その姿は、さながらぐずる子供のようだ。運転席の青年が「寝るなってば」と器用に揺すり起こしてきたので、眠気覚ましに窓の外へと視線を投げると、ちょうどトンネル内に入ってしまい景色が真っ黒に塗り潰される。

 景色が黒く塗り潰された影響で、車窓に男の顔が映り込んだ。

 くすんだ金髪に無精髭を生やし、やつれた顔の男がそこにいた。身なりをきちんと整えれば渋い雰囲気の色男と捉えることも可能だろうが、これでは仕事に疲れたおっさんでしかない。

 見たくもないものを見てしまい、男は顔を顰める。気分を紛らわせる為に着ている砂色の外套コートから煙草の箱を引っ張り出すと、運転する青年が「やめてくださいよ」と苦言を呈してきた。


「僕の車ん中で煙草を吸わないでください」

「これお前さんの車じゃねーでしょうがよ。パクったんでしょ」

「今は僕の車ですよ」


 ケロッと澄まし顔で言う青年だが、なんでこんな草臥くたびれたおっさんと行動を共にしているのかと疑問に思えるぐらいの美青年であった。

 いわゆる儚い系の容姿であり、艶のない長めの黒髪に線の細い体躯という特徴らしいものは一切ない。服装も黒い雨合羽あまがっぱと革手袋などで、肌の露出を最低限まで抑えている。雨が降っていないのに雨合羽を着ている理由を問いかけたことがあったが、そうしたら答えは「え、だって返り血がついたら嫌じゃないですか」と真顔で返ってきた。

 煙草も吸っちゃダメとなると、あとは車内にガンガンと響き渡るラジオに耳を傾けるしかなく、趣味の悪いロックが延々と垂れ流しになっていた。耳を通り越して頭が痛くなってきたので音量を下げたら、青年が不機嫌そうに「下げないでくださいよ。盛り上がらないじゃないですか」と言って、また最大音量に戻した。


「というか、暇なら後ろの奴らをどうにかしてくださいよ。さっきから振り切ろうとしてるけど、振り切れねーんですけど」

「振り切るな振り切るな、後ろは後続車両でしょ。殺そうとしないの」


 男はシートに背中を預けて、やれやれとため息を吐く。同行者の青年は誰でもまず『敵だ』と認識してしまうので、少し軌道を修正してやらないと一般人との区別もつかなくなる。

 案の定、男の言葉に納得した青年は「じゃあ殺さなくてもいいかぁ」と物騒なことを呟く。このまま断れば、きっと車を停めてでも飛びかかっていただろう。


 ――


 耳元で甘く囁く悪魔の声。

 遠くをぼんやりと眺めていた男の視界の端にて、艶やかな金色の髪を持つ幼い少女が笑っていた。可愛らしい桜色の唇が凶悪的なまでに歪み、天使のように無垢なる少女の姿を象った悪魔は言う。


 ――どこに逃げても無駄だよ。


 逃げるだなんてとんでもない。

 これは単なる復讐劇の幕開けに過ぎないのだ。

 少女の幻影から逃れるように瞳を閉じた男だが、唐突に運転席から伸びてきた青年の手が顎に群生する無精髭を毟り取った痛みにより、「ぎゃあ!!」という悲鳴と共に飛び起きた。


「シア先輩、他人の話は聞きましょうよ。寝るなって言ったでしょうが」

「リヴ君はいつになく暴力的だね!? もう少し優しい起こし方はなかったの!?」


 無精髭を毟り取られた金髪の男――ユーシア・レゾナントールは、涙目でひりひりと痛む顎をさする。おかげで眠気はどこかに飛んでいったが、痛みで起こされるとか最悪なこと極まりない。

 器用に片手でハンドルを切りながらユーシアの顎鬚を毟り取った青年――リヴ・オーリオは、毟り取った髭を捨てながら「起こしてあげたんだから優しい方ですよ」としれっと言う。

 野郎二人組の旅の行く末は、中心にガラスの塔を擁する雑多な街並みに繋がっていた。


 ――犯罪都市ゲームルバーク。

 一見すると普通のなんでもない平和な街であるものの、その裏では犯罪者が多数身を隠し、暴力団組織が息を潜めて、毎日のように大小様々な犯罪が起きている、表と裏で温度差がありすぎる、そんな都市だ。

 通りを歩く家族連れやのほほんとした老夫婦などの一般人の姿も散見できるが、もしかしたら彼らの中に犯罪者が紛れ込んでいるかもしれないと考えると、毎日をお気楽に過ごすことはできなさそうだ。


 ☆


 長い長いトンネルをようやく通り抜け、ゲームルバーク内へと入ったユーシアとリヴの二人は、誰かから拝借した盗難車を適当な路肩に停めて乗り捨てる。どうせこのゲームルバーク内では車の所有権を主張したところで意味などなく、また別の盗っ人が車を掻っ攫っていくことだろう。

 車の後部座席に放り込んであった長大なライフルケースを引っ張り出したユーシアは、「あいてててて」と呻いて腰を叩く。


「こ、腰が……腰が痛い……」

「おっさんですか。おっさんでしたね、ごめんなさい。愚問でした」

「おっさんって連呼しないでくれる? これでもまだ二七歳なんですけど」


 長時間に渡るドライブにより腰を痛めたユーシアは、重たいライフルケースを引きずって歩く。自分をおっさん扱いするリヴに苦言を呈するが、彼は「でも十分におっさんですよ」と一蹴した。

 確かに四捨五入したら三十路になるかもしれないが、それにしたっておっさん扱いはさすがに精神的にきついものがある。「そんなにおっさんかなぁ」とくすんだ金髪を掻くユーシアの横で、リヴがすぐそばを通り過ぎた恰幅のいい老爺を視線で追いかける。

 ご丁寧にもフードまでしっかりと被った黒い雨合羽野郎は、そっと足音を消して通り過ぎた老爺の後ろをつけようとして、


「はい、リヴ君。どこに行こうと言うのかね」

「……ちょっと、そこまで」

「手の中の得物をどうにかしてから言い訳を考えようか?」


 体格を隠す大きめの雨合羽なので、リヴの手は完全に隠れてしまっているのだが、ユーシアは彼の一瞬の行動を見逃さなかった。

 リヴは苦々しげに舌打ちをすると、雨合羽の袖をめくって革手袋に覆われた手を見せる。その手には小さな自動拳銃が握られていて、しっかりと安全装置も外された状態だった。どこからどう見ても一発しか撃てない代物だが、ただの人間を殺すのならば銃弾一発で十分すぎる。

 ユーシアが無言で右手を差し出すと、リヴは渋々といったような感じで小さな自動拳銃をユーシアの右手に乗せる。ユーシアはリヴから自動拳銃を取り上げると、引き金の部分に指を引っかけてくるりと手のひらの中で回す。


「殺すんじゃなくて眠らせる方がいいでしょ。――走って、リヴ君」

「……無駄だと思うんですけど、やるんですね?」

「当然」


 ユーシアは先を歩く恰幅のいい老爺の背中に、小さな自動拳銃を照準する。

 ざわり、と全身の毛穴が総毛立つ。視界の端にいた幼い少女の幻影が、老爺にそっと近づく。彼女は華やかな笑みを浮かべて、老爺の両肩にふわりとのしかかる。


「――少し眠らせるだけでいいんだ。頼むぞ」


 まるで自分に言い聞かせるような台詞である。

 ユーシアは、躊躇いもなく引き金にかけた指先を屈伸させる。タァンという細々とした銃声と共に銃弾が射出され、老爺の肩にのしかかって笑う少女ごと老爺の後頭部を的確に射抜いた。

 少女の幻影は掻き消え、撃たれた老爺は膝から崩れ落ちる。脳天に命中したのだから即死しただろうが、おかしなことに、老爺には傷一つついていなかった。それどころか血の一滴も流すことなく、すやすやと健やかに眠っている。

 眠った老爺に、リヴが素早く駆け寄って回収する。老爺を抱えて戻ってきた彼と共に路地裏へ駆け込むと、ユーシアは眠る老爺を一瞥した。


「脱税か、それとも詐欺師か。どっちだと思う?」

「いいからさっさとやっちまいましょうよ。僕が殺してもいいんですか?」

「よくない。せっかく最初の住人を見つけたんだから」


 リヴが乱暴に汚れた地面めがけて老爺を放っても、彼は不思議なことに起きる気配がない。ユーシアはリヴに「ナイフ貸して」と言って、折り畳みナイフを借り受ける。

 折り畳みナイフの小さな刃を取り出すと、逆手に握りしめて老爺の手のひらに突き刺した。


「ぎゃあ!!」


 悲鳴を上げると、老爺は飛び起きる。つぶらな目とユーシアの濁った瞳が交錯すると、老爺は自分がなにをされるか理解したようで、這いずってでも逃げようともがき始める。

 ユーシアは「ダメだよ、お爺ちゃん」と優しい口調でたしなめ、逃げようとする老爺の肩にもナイフを振り下ろした。小さな刃では致死量の傷とはならないが、それでも迫りくる死の恐怖は相手に絶大な効果をもたらした。


「お爺ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、大人しく答えてくれたら病院に連れて行ってあげるよ。どうする?」

「こ、答える!! なにが聞きたいんだ!!」


 口から泡を吹きながら、老爺はユーシアに質問を許可した。

 ユーシアは折り畳みナイフをリヴに突き返しながら、


「お爺ちゃんは【DOF】っていうお薬の話を聞いたことない?」

「でぃー? そ、そんな薬は聞いたことがない!! わ、私は五年前からこの都市に住んでいるが、知らないぞ!!」

「五年前からいるんだったら、麻薬のことぐらい知っとこうよ。ここ犯罪都市だよ?」

「せ、中央区画セントラルは治安がいいんだ!! 犯罪なんか起きてるものか!!」


 老爺は涙目で叫ぶが、どうやら嘘は吐いていないようだ。

 ユーイルは肩を竦めてリヴへと振り返り、「このお爺ちゃんは外れだね」と言う。「だから無駄だって言ったんですよ」と悪態が返ってきた。


「じゃあお爺ちゃん、次ね。不思議の国のアリスの格好をした誰かを知ってる?」

「あ、アリス?」


 鸚鵡返しのようにその名前を口にした老爺の顔色が、見るからに悪くなっていく。ガタガタと震えるだけでその先を答えようとしないので、ユーシアは引きずっていたライフルケースを蹴飛ばした。


「今度は的当てにしようか?」

「こ、こた、答える!! どこかの暴力団組織に雇われていた傭兵だと聞いたが、所属は分からん!! でもアリスに出てくる青いワンピースを着た子供だとは聞いている!!」


 ユーシアは「そっかー」と適当に応じた。

 その答えが得られれば十分だった。やはりこの犯罪都市までやってきた甲斐はあった。

 リヴへと振り返ると、彼は「やっぱりね」と呟く。彼もアリスがこの犯罪都市にいることは見当がついていたようだ。


「お、おい、答えてやったぞ。私を病院に連れて行ってくれ。痛くて堪らない」

「ああ、そうだった。ごめんごめん」


 ユーシアは老爺から離れながら、


「でもお爺ちゃん、お前さんは【OD】の言葉を簡単に信じちゃダメだよ。【DOF】を使いすぎた重度の麻薬中毒者の言葉ってのは、大体が妄言だからね」


 老爺の表情が絶望に染まっていく。

 ユーシアと入れ替わりにリヴが意気揚々と老爺に近寄っていき、ユーシアはそのあとの顛末など知っているとばかりに目を逸らす。砂色の外套から煙草の箱を取り出すと、白い煙草を口に咥えた。

 丁寧に手入れをしているジッポーで火を灯すと同時に、背後で肉を殴りつける音を聞いた。短く聞こえる「あぎゃッ」とか「かぶぇッ」とかの声は、老爺の命が潰える断末魔だ。


「いやー、運の尽きだったね。家にでも引きこもっていれば、死なずに済んだだろうに」


 ユーシアは出会ってしまった老爺に十字を切って冥福を祈り、紫煙をそっと吐き出すのだった。

 鉄錆の匂いと煙草の匂いが混ざり合い、路地裏を通り抜けていく。

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