短編

@nakayadesu

草原

 男は無限に続くとも知れない草原を、一人で歩いていた。脛ほどの高さに伸びた葉が、ジーンズ越しにもこそばゆかった。日は高い位置にあったが不思議と暑くはなく、時折吹く風が心地よかった。



 男は自分がどういう理由で、どこに向かっているのかを永い時の中で忘却してしまっていた。しかし忘却してしまったことも、男は忘却しているのでその事で苦に思うことはなかった。



 草原に昼はなく、そして同様に夜もなかった。ただ、今だけが永遠に続いていたのだ。若しかしたら、本当は座標なんてものも存在しないのかもしれない。充分ありえることだ。



 ある時、男は一本の樫の若木を見つけた。それは目の前に不意に現れたと言っても過言ではなかった。一番低い位置の樫の枝には、首吊りロープが吊り下げられていた。白く細いロープは見かけによらず頑丈そうに見える。輪に頭部を入れ、向こう側を覗く。

その先には少女がいた。真っ黒なワンピースを着ている。顔立ちはどこか小学校の頃の隣の席の女の子に似ている気がするし、写真で見た母の昔の姿にも似ている気がする。周りの風景から察するに少女も際限なく広がる草原にいるようだった。

「こんにちは」

 男は言う。

「こんにちは」

 少女は返した。

「君も草原をずっと歩いているのかな」

「私もずっと草原を歩いていたわ。そしたら急に現れた樫の木の首吊りロープから、貴方が現れたのよ」

「それは怖がらせてしまったね」男は申し訳なさそうな声を出す。

男と少女はその後くだらない話をしばらくした。それは、好きな詩の話だったり、哲学についての話だったりした。時間の経過が分からないのでそれらの話は数秒で終わったかもしれないし、数千年かけてようやく語り終えたかもしれなかった。しかし、そんな二人だけの会話は存外呆気なく終わる。


「ねえ、君はここがどこなのか予想がついてたりしないかな」

「そんなもの、考えずとも分かりますよ。ここは――」



 男は少女に礼を告げ、ロープから頭部を抜いた。一度瞬きをしたら、樫の木も、ロープも消えていた。広がるのは、見慣れた草原だけだった。一度深呼吸をして、男はまたいつものように草原を歩き始めた。男が少女に会うことは、その後二度となかった。

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