夜にとける、海にしずむ


あなたと私は、いつも近くて遠い。


物理的な距離は遠くないけれど、

寮で特殊な職業の訓練をしているあなたは、精神的に遠い存在だった。



私があなたの住む街に行きたいと強請るとき、

あなたはいつもダメ、と私を突き放す。



アルコールの力を借りてダメ元で告げた今夜、

あなたは初めて「おいで」と短くメッセージを返した。




少し肌寒い秋の夜だった。





うれしかった。

駆け寄って抱きつきたいと思った。

引き剥がされて笑われるだろうし、頭を撫でるなんてことはしない人だとわかっているし。

そんなことはしないけれど。



行ってどうする、とか何を話すとか、帰りの電車とか、門限とか、

何も考えられなかった。

会いたい、と話したい、だけが心を支配して、

むしろ考えることはそれだけでいいようにも思えた。




初めて降りる小さな駅。

人はまばらで、辺りは暗く、突然不安に駆られる。

本当に会ってくれるのか、迷惑じゃないだろうか。

でも、もうここまで来ちゃったという強引な意識がシーソーゲームを制した。




いつもはためらう通話ボタンも今日は押せちゃう。

『もしもし』

落ち着いた私の大好きな声が耳を解す。

口角が上がった声色に安心と愛しさを感じる。

「もしもし」

私も思わずにやけた声が出る。



『ほんとに来てるの?』

「うん…来ちゃった」

なんてわがままな女だろうとちょっぴり反省しながらもあなたのとびきりの優しさに甘える。



「早く、きて」

『ん。そしたら駅出て左に向かって歩いてきて』

「わかった」



ポロン、とそっけなく切られる電話。

そんなことも、あぁ、あなたらしいと、私を溶かす。

風で乱れた髪を手櫛で直して、小さく踏み出す。




向かいから来るあなたを見つけたのは、それからすぐだった。

こっそり観に行ったサッカーの試合でシルエットは完璧に覚えた。

バランスのいい身体に、小さな顔、O脚気味の脚。

スタイルまで好みだなんて困るなぁ、本当に。



あなたのほうが先に私に気付いたようで、

呆れたようなホッとしたような、(自惚れていいなら)嬉しそうな顔が暗闇に浮かんだ。

緩んだ顔に、思わず泣きそうになり、駆け寄る。



突然来たことを怒るような表情には見えないのに、

『ほんとに来ると思わんかった』

だなんてそっけなく言うのは、いつものあまのじゃくみたい。

LINEでも電話でも会っても同じ性格なあなたに、やっぱり惹かれてしまう。



「まあ、近くでごはん食べてたからね」

たまたま、ではないけどそれは言わなくてもいいことだから隠しておく。

いつもは私と会うことを避けるあなたの、特別な心情を深く噛み締めたかった。




『場所移動しよう。この辺だと知り合いに見つかる』

わかった、とうなずいて肩を並べ歩き出す。




どうでもいいことを口走った。

ぎこちなく歩数を合わせてくれているのがわかって、照れ隠しにバックを揺すった。

アクセサリーがシャランと小さく鳴った。


盗み見る横顔は優しいのに、目は全然合わない。

私もだんだん恥ずかしくなって、俯いて視線を泳がす。

激しく打つ心臓と同じだけ、口はよく回った。

あなたも相槌と会話を繰り返して、私を置いてけぼりにしないでくれた。


ははっと笑うと声が高くなるのも、電話と同じだった。

元から大きくない目がさらにキュっと細められるのが愛しかった。

ずっと笑う私をみて、

『なにずっと笑ってんの、怖いんだけど』

と後ずさりする振りをする。



楽しいからだよ、と言いたいのを抑え込んで

えへへ、と誤魔化す。



『どうしようか、どこか入るにもそんなに店ないな』

すぐ帰らなくていいと言ってるような言葉にまた顔を緩めてしまう。

「いいよ、お店とか行かなくて。こうやって歩いていたい」



それはたしかに本音だった。

けど、本当はもう一言足さなければ本音ではない。



「一緒にいれるだけでいい。好きだから。」



それは言えなかった。

私たちの関係は、「好き」を言い合わないことで成り立っていた。

私たちは名前も呼び合わない。

自意識過剰にならなくても、あなたは私を大切にしてくれるし、私はあなたを心底好いているのに、

私たちは「恋愛」をしていなかった。



私は「好き」と伝えたことは一度もないのに、

あなたは二度私を振った。

春と、夏に。

付き合えないのは、やましいから、ではなく、あなたの「覚悟」だと。

職業柄、いずれ私を不幸にしてしまうとあなたは言った。

私は、私の幸せを決めつけないでと言った。

あなたと話せなくなるほうが不幸だと、思っていた。

一緒にいれたら、それだけでいいとさえ思っていた。

あなただって、連絡をしてきてくれちゃうから。

嫌いになれるわけもなく、心をあなただけに捧げたまま、何ヶ月もが過ぎていく。

それでも、なんかもういいやと思えるくらいには、絆されていたし、好きになってしまったし、とにかくバカになっていた。



静かな街だった。

人も車もほとんど通らない。

信号を待つ間や、歩きながら腕と腕が触れたときなど、手に触れるタイミングはいくらでもあった。

酔っていたし、腕に抱きついてもよかったかもしれない。



でも、私たちの暗黙のルールにおいては、体に触れることは「恋愛」を始めることの合図だったから、手は臆病なまま動かない。



はたから見たら複雑でアホっぽくて盲目な想いでも、

私たちにとってはそれがすべてで精一杯だった。



しばらく歩いて、コンビニに寄って、また歩く。

『これどこに向かってるの?』

「え!?わかんないよ、どこ?ここ」

私が叫んであなたが笑う。

そうして私も笑う。



『ん〜じゃあこっち。道渡るけどいい?』

「うん」

ダメなわけないでしょ、と内心ツッコミながらも、一歩うしろをそっとついていく。



ぶりっこを演じてるわけではないけれど、普段の自分とあまりに違うおとなしさに、思わず苦笑い。



あなたは時折振り向いて、私を確認する。

もちろん目は合わないけれど、別によかった。

私だって、目は見れていないから。



何度目かの曲がり角を抜けると、潮の匂いが鼻に飛び込んでくる。

ヤシの木に、波の音。


「わあ、海だ!」


久しぶりの海に心底はしゃぐ私を、クスリと笑う声が追いかける。

『普段都会にいるもんね』

「うん、一か月ぶりくらい」

『そっか、下まで降りる?』

「行きたい!」

もう一度小さな笑いが聞こえた。




海を見ながら、私たちは話し続ける。

『あれがスカイツリーで、あれが横浜』

「そうなのか!夜景きれい、」

『家、どの辺?』

「え、どこだろ、あの辺(笑)」

『適当か』



風はちょっと冷たくて、海は少し波立っていた。

潮の匂いとあなたの匂いが微かに混ざり合って、

一番好きな香水よりも、特別な匂いがした。

心地よかった。



「ねぇ、好きだよ」



心は何度も叫んだ。

控えめに触れる腕が苦しくて、何かが込み上げる。


くるしい、すき、せつない、すき、むなしい。


視線を感じて振り向くとそっぽを向くあなたと、

触れたがる指をもてあます私と。



海はすべてを見ていた。

黒々とうねる波は、すべてを飲み込んでいきそう。

肥大した想いを、育った愛情を、やるせない運命を、私たちをも、飲み込んでいく。


怖くて、寒くて、あなたにちょっとだけ擦り寄る。

逃げられないことに安心して少し目を閉じる。

沈黙はこわくなかった。

あなたの呼吸と衣擦れの音が、波間に馴染んでいく。



あなたの大好きなサッカーの話、

ちょっといやなことがあった話、

私と出会う前のときの話も、

いろんな話をしてくれた。



そのすべてを私は記憶する。

小さな海岸は、私にとって一生特別な場所になる。



『もう23時だ』

「駅まで戻ろっか」



海を背に歩き出す。

帰りたくないのに、

波の音はいつのまにか電車の音に変わる。



改札で私を見送るとき、あなたは初めて私の目を真っ直ぐ見た。

照れたような気まずそうな、でも優しい目だった。



一瞬喉につまった息をなんとか吐き出し、

笑顔を浮かべて改札を通り抜ける。



3歩進んで振り返ったら、もうあなたはいなかった。

「らしいなぁ」

思わずうなって、最終電車を待った。

門限にはどう考えても間に合わないけれど、

どうでもいいや。




『来てくれてありがとね』

『明日の部活がんばって』


「楽しかったよ!ありがと、がんばるね」

『おやすみ』

「おやすみ」



既読がつく。

返信が止む。




私はメッセージバーに静かに文字を打ち込む。





「今日もだいすきだったよ」





そうして、未送信のまま画面を閉じた。




「普通言うべきこと」は今日も伝えていないけれど。



夜空に放った叫びは、海に沈めた想いは、

いつまでも私のすべて。



明日も私はあなたを好いたまま生きていく。

あなただけに捧げた心を抱えて生きていく。






















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