第三章 学院の洗礼3
問題のあった次の日、テオドルは講義に出てこなかった。
アルトゥルとローランドもたまに午前中を自主休講にして昼からふらりと出てくることもあるため、そんな感じなのかとリアは考えていた。でも、最後の講義が終わってもついにやってこないとわかると心配になってきた。テオドルがさぼるなんて、信じられなかったのだ。
「あの……テオドルのこと何か知ってる?」
帰ろうとするアルトゥルとローランドをリアは引きとめた。兄弟仲というより関係性からして、知るわけないとわかっているのに尋ねてしまっていた。
案の定、ふたりはすぐに首を振った。リアに聞かれるまで、不在の理由について考えもしなかったのかもしれない。
「リアは何か知ってるの? 心配そうな顔をしてるけど」
ローランドは美しい顔にふわりと優しい笑みを浮かべてリアを見つめた。これは女子からの受けがいいはずだと、尋ねてほしかったことに気づいてリアは思った。
「テディね、ルームメイトとうまくいかなくて、今はひとりで部屋を使ってるみたい。それで、昨日その元ルームメイトを含むグループに酷いことをされてるのを見てしまったんだけど……もしかしたら講義に出てこないのもそのせいなのかなって」
リアは迷いながら話していたのだけれど、ふたりの顔を見れば正解でなかったことがわかる。
「俺にできることはないかな。それは、テオの問題だ」
困った表情を作ってローランドは言う。でも、その言葉はあくまで厳しい。弟を心配するそぶりもない。そのことに、リアは少し傷ついた。
彼らは兄弟といっても、一般家庭のようにずっと一緒に育ったわけではないのはわかっている。それが王族というものだ。公爵家の令嬢であるリアも、そのあたりの感覚は理解しているつもりではあったけれど、もう少し情くらいあるものだと思っていた。
「ローランドの言う通り、それはテオドルの問題だ。男として、王族として、自分で何とかしなければならないからな。下手に手を出してもいいことになどなりはしない。誇りに関わることは、自分で何とかするしかないんだ」
「誇り、ですか……」
アルトゥルに言われて、リアは昨日のテオドルの様子を思い出した。
ずぶ濡れで走り去っていった背中は、あきらかに傷ついていた。でも、彼を傷つけたのは男子生徒たちではなくリアだ。リアが彼の誇りを傷つけたのだ。
そのことが今さらながらわかって、リアの胸は軋むように痛んだ。
「テオ坊はおっとりしてるけど、ただやられたままにはならないと思うな。だって、そのいけ好かないルームメイトを叩き出したんでしょ? それに、ドアには自作の特殊な鍵をつけたらしいよ。大丈夫。そのうち自分でしっかりやり返せるよ」
沈み込んだのを察知して、ローランドはリアの髪を撫でた。そしてさりげなく、テオドルについて知っていることを明かす。ローランドが弟のことに無関心でないことがわかって、リアはほっとした。
「実力を知らしめることができれば、そのうち誰にも手出しされなくなる。そうなるために、まずは我々も自身を磨き鍛えなければな」
「はい」
アルトゥルも励ましてくれているのだとわかって、少し気持ちが慰められたリアは、笑顔でうなずくことができた。
そして、安心して講義室を出た。
アルトゥルとローランドに話して、心が軽くなっていたからだろう。リアは、完全に忘れ、油断していた。
アナスタシアのおかげで狙われなくなっていたけれど、狙われる理由がなくなったわけではないことを。そして、昨日新たに狙われる理由ができてしまったことを。
「……キャッ!」
廊下を歩いていると、突然、頭から突然冷たいものを浴びせられた。視界はふさがったし、ひどいにおいもする。水ではない、何か濁った液体をかけられたのだとわかって、リアは慌てて手で顔をぬぐった。
「……あなたたち!」
視界を取り戻したリアは、すぐに周りを見回した。そして、走り去る男子生徒たちを見つけた。
「みっともないな」
すぐに走って追いかけようと思ったのに、そんなふうに侮蔑のにじむ声が聞こえて、リアの身体は凍りついた。クスクスという馬鹿にした笑い声も聞こえてくる。
姿を見つけるより先に、生徒会の連中だとリアはわかった。
「裏庭の池の水を浴びせられたんだな。あそこは特殊な植物や生物がいるせいで、常に淀んでいるんだ。清潔ではない水を好むものばかりだからな。まあ、余所者臭さが紛れていいか」
近づいてきたマグヌス・ホイスディングはリアのそばを通り過ぎるとき、わざわざ鼻をつまんでみせた。彼の後ろに続く連中も、ひと際大きな笑い声をあげてから、同じように鼻をつまむ。
リアはこれまで経験したことがない屈辱に、身体の奥からドロドロしたものがわきあがってくるような怒りを感じていた。
突然頭から汚水を浴びせられることも、臭いと蔑まれることも、大事に育てられたリアが味わうはずもない辱めだ。
(……私が、悪いことをしたの? こんな目にあわされることが妥当なほどの悪いことを)
自問して、リアはすぐに否定した。
していない。リア自身も、テオドルも、誰も。これが正当性のあることだなんて、どんなふうに考えても思えない。
それに、生徒会の存在が正しいとも思えない。秩序を守るために存在しているというのに、やっているのはいじめの黙認だ。生徒たちのやっていることが正当か不当かの判断は、結局のところ彼らが気に入るかどうかだ。そんなものが正しいはずがない。
「待ちなさい。マグヌス・ホイスディング」
腹に力を入れて、リアは去っていく生徒会に呼びかけた。他の連中には用はないし、そもそも名前も知らない。だから、呼ぶのは中心格の名前だけだ。
「何だ、留学生(よそもの)」
蔑みを隠さない表情で、ホイスディングは振り返った。リアは毅然とした表情を作って彼を見つめた。
「この学院のルールは、あなたに認められるか否か。認められなければ、どれだけ蔑まれ虐げられても文句は言えない。――これで合ってるかしら?」
リアの問いに、ホイスディングは鼻で笑っただけだ。肯定ということだろう。
普通、こんな外聞の悪いことを言われれば否定するだろう。しないのは、それだけリアを軽んじているということだ。
「マグヌス・ホイスディング、私と勝負して。……私闘は禁じているんだったわよね? それなら、模擬試合をしましょう。それで勝って、私は自分の正しさを証明するわ。強いことや実力があることを正義だとするのなら、私はあなたに勝って、あなたに認められない者になら何をしてもいいというのがおかしいと証明するわ」
高らかにリアはそう宣言する。
汚水にまみれても、圧倒的に不利な立場でも、気高くあろうと意識した。
大切に育てられたという自負がある。家に、国に、恥じない人間であるよう教育されたという自負が。何より、リア自身が自分を恥じるようなことはしたくなかった。
「……身の程知らずが。いいだろう。たとえお仲間たち全員でかかってきたところで、負ける気はしないな」
少しの間気圧されたように黙っていたのに、再び馬鹿にするような笑みを浮かべてホイスディングは言った。その表情には余裕がある。虚勢でも何でもなく、本気で負ける気などないのだろう。
「言ったわね。じゃあ、試合の期日もルールも、私が決めるわ。どうであれ勝つというのなら問題ないでしょう?」
「好きにしたらいい。どうせお前たちはみじめに負けるのだから。せいぜい勝てるよう、頭を使って準備するんだな」
「わかったわ」
言質はとった。それならもうこれ以上この場に留まる必要はないと、リアは生徒会に背を向け歩きだした。
それに、身体が震えているのを悟られたくなかった。ずぶ濡れで寒いのと、興奮しているのとで震えているのだ。怯えではないと思いたい。
とりあえず汚水にまみれた状態ではどこにも行くことができないから、リアは足早に人気のない場所を目指していた。誰にも迷惑をかけないところまで行って、水をかぶって身体を乾かさなければならない。
そう思って歩いていたから、校舎と図書室をつなぐ外廊下まで何者かがついてきていることにリアは気づいていなかった。
「“止マレ”」
あまり馴染みのない言語で声をかけられ、リアは驚いて足を止めた。その次の瞬間、勢いよく迫ってきた水柱に襲われた。
「――!?」
溺れると思い、慌てて逃れようと身を引くと、今度は熱風が全身を包み込んだ。それはほんの一瞬。熱いと思ったときにはなくなっていて、リアは呆然と立ち尽くす。
「“コレデ少シハキレイニナッタカ”」
「きれいに……洗って乾かしてくれたの?」
リアは、目の前の人物に尋ねた。褐色の肌に銀髪が特徴的な、美しい男性だ。美しいけれど、刃物のような鋭さを感じさせる。
「まさかと思ってアブトカハール語で話しかけたんだが、わかるんだな。ということはやはり、庶民ではないな」
「……!」
男は、特に何の感慨もなさそうに指摘する。それだけに意図がわからず、リアは内心で冷や汗をかいた。
グロヘクセレイとヴィカグラマルクは一応は友好関係にあるから、グロヘクセレイ語を話しても誤魔化しはきく。しかし、アブトカハールとは現在、公の交流はないため、アブトカハール語を習得しているのは特別な人間たちだけだ。
リアだって、かろうじて聞き取ることができただけで話すことまではできない。話せる程度まで習得しているのは、王族やそれに近しい立場の者だけなのだ。
「……あなた、アブトカハールからの留学生なんですか?」
褐色の肌でアブトカハール語を話すのなんて、そうとしか考えられない。それでも、リアは慎重に問いかけた。
「そうだ。正式に手続きを踏んで入国しているから安心しろ」
身構えているのがおかしいからか、男は野性味あふれる笑みを浮かべた。こんなふうに笑う男性か身近にいないから、リアは少し怖いと思ってしまった。
「そう怯えるな。敵のつもりで近づいたんじゃない。さっきのやりとりを見ていて、大したものだと思ったんだ」
「え……」
男のリアを見る目に、蔑む色はなかった。だからそれは言葉通りの意味で、嫌味でも他意があるわけでもないとわかる。
「この学院はおかしいんだ。そのおかしさには多くの者が気づいている。だが、それをおかしいと口にする者はいない。そんな中、お前様は自分の信じることを貫こうとした。そのことは称賛に値すると俺は思った」
「ありがとう、ございます」
褒められているのだとわかり、リアは素直に受け取った。このわかりにくさは、まるで兄ブルーノのようだとも思う。
わざわざ汚れた身体を清め、褒め言葉を伝えるためにこの人は来たのだろうかと、リアは男を見つめた。その視線をまっすぐ受け止め、男もリアを見つめ返した。
「あの男は強いが、身体の動かし方を学べば勝てない相手でははないだろう」
どこか品定めするように男は言う。奥の奥まで見透かされているようで、リアは落ち着かない。
しばらく見つめあってどうすればいいかリアにはわからなくなってきた頃、男はふいに手にしていた杖を小さく振った。
その直後、リアの身体は吹き飛ばされた。そして、壁に叩きつけられる。
「このくらいのことも防げずに、勝つなどと言ったのか。威勢がいいのと勇気があるのは違う。無謀と勇敢はもっと違う。己の実力も弁えられないのなら、他者に従い生きるのが無難だ。……これはお前様が女だから言うわけではない」
男はそう言うと、興味をなくしたようにリアから目をそらし、立ち去っていった。
叩きつけられた背中が痛くて、リアは何も言い返すことができなかった。でも、手加減されていたことはわかる。手加減されていたこの有り様なのだとわかって、リアは泣きたくなってしまった。
彼の言う通り、リアは己の実力も弁えず、無謀と勇敢をはき違えていた。誇りのためなどと考えて、ホイスディングに喧嘩を売った。
それが恥ずべきことなのだとわかって、涙が出てきてしまった。
何とか人に泣いているのだけは見られまいと、リアはうつむいて図書室に飛び込んだ。
意図して見せる涙は武器になるけれど、そうではないものは女といえども恥だ。だからリアは、図書室の奥のほうを目指した。
もう何度も足を運んで、書棚の位置は覚えている。ヴィカグラマルク王国に関する本のある棚は不人気で、人がいるところなど見たことがない。夕食前のこの時間ならなおさら誰もいないだろうと、リアはやっとの思いでたどり着いた。
誰にも顧みられない奥のほうの棚の前で、リアは静かに涙を流した。こらえていたぶん涙の粒は大きく、ポタポタ滴ってブーツのつま先を濡らす。
こんなふうに泣くことすら恥なのだとわかっている。それでも、泣かずにはいられなかったのだ。まるでぴんと張っていた糸が切れてしまったかのように、リアは身体の力が抜けて涙は次々にあふれてくる。
思えば、国を出てからずっと気を張っていたのだ。慣れない環境の中で、初めて尽くしの学びの中で。しかも、憧れの地で学ぶことができるという夢や希望は、早い段階で打ち砕かれている。
理不尽にさらされても、意地だけで踏ん張っていたのだ。
きっと、疲れていなければ泣くようなことではなかったはずだ。小さな嫌なことが降り積もっているだけで、少し泣けば元通りになれるはずだ。
そう信じて、リアは涙を流すままにしていた。
「こんなところにいたのか」
ふいにそう背後から声をかけられ、リアは身体を強張らせた。逃げなくてはと思う間もなく、後ろから抱きすくめられる。
「リアは昔から、人に涙を見せたがらないもんね。でも、こんなところでひとりで泣いてちゃだめだ」
ふわりと香る香水と優しい声は、リアのよく知っているものだ。それだけにきまりが悪くて、リアは唇を噛みしめて涙をこらえた。
「……こうしてたら、万が一誰か来ても、俺の姿しか見えないよ。だから、安心して泣いていい。リアはずっと頑張ってたね。よしよし」
ローランドはまるで子供をあやすみたいに、リアの髪を撫でた。日頃からやわらかな声は、いつも以上に優しい。普段からこうして女の子をなぐさめているのだろうと思うと複雑な気持ちになるけれど、リアの気持ちはかなり救われた。
泣くことは恥ずかしいと思いながら泣くよりも、誰かに許されて泣くほうが楽になる。だから、リアは無心になって泣いた。
ローランドは下手になぐさめの言葉は口にせず、ただ黙って泣かせてくれた。これが並の男であれば、きっと何か言葉をかけて元気づけようとしただろう。でも、ローランドはこういうとき、沈黙が何よりの優しさであることを知っている。
「……ありがとう。すごく楽になったわ」
ひとしきり泣くと、リアは身をよじってローランドの腕の中から抜け出して、ハンカチで顔をぬぐった。それから、すました顔でローランドを見た。どうしたって泣きはらした目や赤くなった鼻はごまかせないのに。
「それはよかった」
紳士然とした表情でローランドは微笑む。ただただ優しいのが気恥ずかしくて、リアはうつむいた。
「……泣いたこと、誰にも言わないでね」
「それは言わない。でも、リアが酷い目にあわされたことや、ひとりで戦おうとしていることは黙ってられないな」
諭すようにローランドは言った。
「俺たちはリアをたったひとり苦しい立場に立たせるために、この国に来たわけじゃない」
「でも……アルト様は私のしたことを怒ると思うわ。実力を弁えないのも、勇敢と無謀を履き違えるのもきっと嫌いだもの」
アブトカハールからの留学生の言葉を思い出し、リアは噛みしめるように言った。強くあろうと日々鍛錬を積むアルトゥルなら、きっと彼と同じ考えに違いない。
「兄さんがもしそういう考えであっても、俺はリアの味方だ。リアのしたことは間違いじゃないと支持する。ひとりにさせない。だから、ちゃんと俺を頼って」
「ロル……」
ローランドは眉根を寄せ、必死な様子でリアに訴えた。いつも飄々としていて、真剣な顔なんてなかなか見せない彼のそんな姿に、リアの心は動いた。
こんなにも心配してもらっている。ひとりではない。異国の地での心細さと理不尽に傷ついた心が、それによって癒やされた。
だからリアは静かにうなずいて、ローランドの胸にしがみついて顔を隠した。
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