【郷倉四季】あとがきにかえて。

 はじめまして、もしくは、こんにちは。

 郷倉四季です。


「顔のない獣 その① 最低の夜をこえて」が完結しましたので、今回は「あとがきにかえて」です。


「顔のない獣」は郷倉四季が書いている作品ではなく、倉木さとしという方が書いています。

 ならば、「倉木さとし」というアカウントをカクヨムに作って、そちらで掲載すればいいのでは?

  と疑問になる方もいらっしゃる方と思います。

 実際、読者の方に言われたこともあります。


 どうして郷倉四季アカウントで倉木さとし作品を掲載するのか。理由は幾つかあります。

 僕が倉木さとしの世界観を借りて小説を書いていて、その世界観を知ってほしくて郷倉四季のアカウントを作ったから、という根本的な理由。

 そして、僕個人が倉木さとし作品が好き過ぎて解説をしたいから、という理由です。


 ということで「顔のない獣 その①」の解説は次のページにします。

 今回は倉木さとしという作家に関する論とキャラクター小説(ラノベ)の主題について書いてみたいと考えています。

 よろしければ、お付き合い頂ければ幸いです。



 ちなみに、みなさまライトノベルってお好きですか?


 カクヨムに登録されている方や読まれている方でライトノベルを知らない方はいらっしゃらないと思うのですが、好きなライトノベルってありますか?


 僕は高校時代のアルバイトの給料の大半をライトノベルに費やしていました。

 毎月必ず新刊を購入し、「このライトノベルがすごい!」という雑誌も買って、気になったタイトルもチェックしていました。


 今、確認してみると2005年に発売された「このライトノベルがすごい!」が出てきました。

 有川浩が二作目の「空の中」をハードカバーで刊行した状態で壁井ユカコとの対談が載っていたり、桜庭一樹もライトノベル作家としてインタビューに答えていたりしています。


 なんなら鎌池和馬の「とある魔術の禁書目録」は4巻までしか刊行しておらず、イラストレーターの灰村キヨタカが

「(とある~の)第一稿を読んだ感想は、これは少年マンガだな」

 と発言しています。


 ライトノベルは大前提にキャラクター小説という趣があります。

 漫画もキャラクターの為の表現です。


 このキャラクターに関する部分で東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」で興味深い話を書いていました。

 今回はその内容を踏まえて、書かせていただきたいと思います。


 戦後日本の漫画文化の主題は

「手塚治虫が記号の集積に過ぎないはずの漫画のキャラクターに撃たれれば血を流す生身の体を与えこと」

 それこそが手塚まんが/戦後まんがの発生の瞬間でした。


 そして、戦後のまんが・アニメ的リアリズムの土壌によって描かれるキャラクター小説(ライトノベル)の命題は、手塚まんがに近いと言えます。


 それ故に純文学、東浩紀いわく自然主義小説に風穴を開けられる、あるいは次に主体となるべきコンテンツこそキャラクター小説(ライトノベル)なのではないか。


 キャラクター小説(ラノベ)の到達点とは何か。

「身体が記号であるアニメ的世界で「私」を描き、「死」を描く」こと。

 それはつまり、キャラクター的表現と主題の衝突です。


 ここから、やや僕の解釈を織り交ぜつつ進めたいと思います。


 まんが・アニメ的リアリズムの上に立つキャラクターには役割があります。

 涼宮ハルヒは自らの感情と要求にしたがって行動しなければならないし、キョンはそれに引っ張られて「やれやれ」なんて言っていなければなりません。

 そうしなければ「涼宮ハルヒ」シリーズの物語が進みません。


 しかし、そんな彼ら(キャラクター)の土俵を支えるリアリティは、死を含んだ危うい世界です。

 村上春樹手に言えば

「放っておいても人は死ぬし、女と寝る。」

 そういう世界です。


 戦後まんが的リアリティ上でのキャラクター的表現の中に、この死とセックスというアンモラルな命題が潜んでいます。

 リアリティという土俵(死とセックス)にある「キャラクター的表現」と、そのキャラクターが持つ役割を真っ当することを迫られる物語。


 その二つがぶつかることが、「主題」の衝突です。

 それが起こる瞬間にキャラクター小説が「文学」に成り得るのだと東浩紀は書きます。


 では、その「主題」の衝突が起こった作品はなんでしょうか。

 僕がまず浮かぶキャラクター小説(ラノベ)は「イリヤの空、UFOの夏」です。

 最終巻の4巻で主人公の浅羽くんがオナニーをするシーンがあります。

 戦後まんが的リアリティでいうところの身体を手に入れた男子中学生なら当然、オナニーくらいします。


 そして、それ(リアリティに引っ張られた)故に、浅羽はイリヤを守ろうとする役割、「主題」との衝突が起きてイリヤがイリヤでいられなくなってしまいます(読んでいない方は分からなくて申し訳ないです)。


 ここで僕が面白く感じるのは「顔のない獣 その①」の隼人も同じことをしようとした点です。

 それも自らの意思でヒロイン(遥)を使って、オナニーをしようとする。


 自分から役割を捨て戦後まんが的リアリティへと近づこうとし、物語側からそれを拒否されてしまう。

 けれど、その結果、隼人は遥とより大きな溝を作ってしまいます。


 僕は倉木さとし作品のどこか生々しいリアリティがふと顔を出す瞬間を好みます。

 それは倉木さとしが実際に生きてきて感じたリアリティなのだろうと思えるからです。


 物語上のキャラクターとは言え、押しつけられた役割から逃げたい時があったって良いはずです。

 幼馴染の女の子が好きな男の子が、その子を嫌いになろうと頑張ってみたって良いじゃないですか。


 そして、僕はそこに「キャラクター的表現」と「主題」の衝突を見てしまいます。


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