クラゲはサカナの夢を見る

瑠璃

サカナはプールで生きられない



「私、将来サカナになりたいんだよね」


「へー。それより俺、お前に拉致られたんだよね」


 生ぬるい風が吹いて水面がゆらりと揺れる。八月三十一日、夜の学校、校舎横のプール。鼻腔を抜ける塩素のにおい。夏休みにもかかわらず制服の私はプールサイドから足を伸ばしつま先だけ水に浸けてぱしゃぱしゃと水を緩く蹴っていた。日中ギラギラとした太陽光を受けていたであろうこの水はお世辞にも冷たいとは言えないけれど、風に当たることで気化熱となりちょっぴり涼しい。また濡らそうと足を浸ければ先端から波紋が広がって更に水面が大きく揺れる。体操服の半ズボンを履いているのをいいことに、プリーツスカートが濡れないよう裾を少したくし上げた。

 隣で突っ立っている慰月は予備校終わりに出待ちしていた私に急に連れ出されたせいで状況把握がいまいちできていないらしい。声色には困惑が詰まっていたけれど、帰れそうにないと察したのかゆっくりとその場に座り込んだ。何の約束もしていなかったのに文句は言えど着いてきてくれた彼のお人好し加減には頭が上がらない。


 今日は夏祭りがあるからか街全体が少しそわそわしている。毎年八月三十一日に催されるそのお祭りは地元の名物で、大量の宿題を終わらせた学生へのご褒美みたいなものだった。行けば必ず友達に会う。なんならクラス全員が揃う。夏休み期間でも学校に来ている先生達も、今日はそっちの見回りに行っているから学校はガラ空きで。ここまで静かな校舎を見るのは初めてかもしれないなとふと思った。


「いや、その、それは……ごめん?」

「なんで疑問形なんだよ」


 目の前で小さく笑う彼をここに連れてきた特別な理由は無い。夏祭りには行かないと言っていたから。落ち着いて話ができる相手だから。それだけ。彼に恋愛感情があるわけでもないし、もしそうならとっくに私から夏祭りに誘っている。ただ夏の終わりがなんとなく虚しくて話し相手が欲しかっただけ。

 本当は夏祭りは友達に誘われていたけれど、そこに行って夏の終わりを更に強く実感するのが嫌で断ってしまった。明確な終わりから目を背けたかった。


 曖昧に笑ってごまかすと慰月は軽く息を吐く。


「で? 暇人の美海サンがサカナになるから見届けろと」

「いや別に今から転生はしないけどさ……ほら、私たちってクラゲじゃん」


 私の言葉を聞いた彼は真顔のまま一拍置いて「まぁ」となんとも微妙な肯定をした。確かに今のは誤解を招く言い方だったかもしれないけど……実際、私たちはちゃんとクラゲなのだ。

 美海と慰月。学校でもよく喋る私たちは下の名前の海と月をとって海月コンビ、つまりクラゲコンビといつからか呼ばれるようになった。彼がどう思っているかは知らないけれど私は案外この名前を気に入っている。


「だからさ、私進路希望調査の紙に書いたんだよね」

「第一志望クラゲって?」

「うん」


 ふは、とこぼれ出た慰月の軽い笑い声につられるようにその時の光景を思い出してくすりと笑う。すごく不釣り合いで記入欄の余白の海にクラゲの文字がふにゃふにゃと頼りなさげに浮かんでいた。その用紙を見ながら自分でも笑ってしまったのを覚えている。「どうだった?」と期待のこもった眼差しで見つめられ、苦笑いしながらも口を開いた。


「めちゃくちゃ怒られた。目の前でプリント破られたもん」


 そう言えば慰月は声を上げて、そりゃそうなるわと笑い飛ばした。少し重たかった空気を吹き飛ばすような笑い声。私は形だけの不満顔をしながらスカートのポケットに手を突っ込んで一枚の折り畳まれたプリントを取り出す。『進路希望調査』とでかでかと書かれたしわくちゃな紙切れの提出期限は七月二十日。一学期の終わりまでに本来は提出だったのに、私だけ延長して夏休み明けが提出日だ。隣でまだ笑っている慰月の目の前に突き出して「……これさ」と小さく呟いた。


「どうしようかなって。流石にサカナって書くわけにはいかないし」

「反省文じゃ済まなくなりそう」

「だよねえ」


 両腕を高く上げてぐっと伸びをしてから、あーあと息をつく。微かに祭囃子の音が聞こえた。今頃お祭りに行ってる人は楽しんでるんだろうな。自分から行かないと言ったくせに、そんな彼らを想像してはなんだか別世界の住民みたいに感じてしまう。


「俺らはサカナには絶対なれないよ」

「なんで?」

「水の中で呼吸できないから。溺死するサカナって字面は面白いけど」

「……仰る通り」


 分かってる。クラスメイトを別世界の住民に感じるように、サカナだって私の手の届かない世界の生き物だ。そんなこと、言われなくても分かってるんだけど。

 改めて突きつけられた正論という名の現実に内心がっくりと肩を落とす。強い風が吹いて塩素の匂いが鼻腔を抜けた。この匂いがあまり好きじゃないのは私が泳げないからだろうか。


 日々を過ごすうちに近づいてくる卒業、受験、進学……そんな文字の数々。でも私が将来やりたいことなんて何も思いつかなくて。また自分の無計画さを実感して、もうやめようと首を振った。今日ぐらいは現実逃避しても許してよ、神様。提出期限は明日だけどさ。


 そんな思考を放棄した私の視界に、不意に夜空の月が映る。暗い空で一際輝くその光は綺麗なのにどこか非現実的で。眺めているうちにぽろりと口から言葉がこぼれ落ちていた。


「月行きたいなぁ」


 きらきら光るお月さま。満月だろうか、ほとんどまん丸に近い黄金色は手を伸ばせば手のひらで隠れてしまうのに決して届くことは無い。クレーターでできた模様があまり兎っぽく見えたことは無いけれど、あの模様が無ければ多分お月様は綺麗じゃないだろうなと思う。きっと黒い画用紙に貼られたシールみたいだ。


「行けばいいじゃん」

「何年後の話よ」

「えー。じゃあ今」


「…………は?」


 いま?


 聞こえたいつもの冗談みたいな台詞を頭の中で反芻して、理解しようとして、でもできなくて。予想外すぎてぽかんとする私とは対照的に、上機嫌な顔した慰月はなぜかサンダルを脱ぎながら至極当然のように言ってのける。そして混乱して脳内でロケットが飛んでいる私に追い討ちをかけるように静かに一言。


「今、行けばいいよ」


 凛とした声が辺りに響いた。弾かれたように顔を上げれば慰月が立ち上がって私を見下ろしていて。いやなんで急に立ってんの、てか行くってどこに? まさか月に? 月旅行って一般人も行けたっけ? 聞きたいことはたくさん浮かぶのに声にならず固まる私を、慰月は馬鹿にするみたいに不敵に笑うとプールサイドの端から助走をつけて裸足で踏み出す。


 え、待って、まさか。


 景色がスローモーションみたいに動いた。裸足で駆ける慰月は心底楽しそうな顔で走って、水面に向かって跳んで。刹那この空間を切り裂いた激しい水音と共に、たくさんの水しぶきが、月光を反射した光の粒が、彼を中心にして円を描くように辺りに飛び散っていく。優しい月明かり、煌めく星々、夜空を反射する深い藍の水、水、水。


 その景色の儚さに見惚れてしまいそうになって、一瞬固まったものの慌てて首をぶんぶんと振ると走ってプールに近づく。私が飛び込んだわけじゃないのに無意識に呼吸を止めていたらしく、我に返った途端反射的に息を吸い込んだ。

 とんでもないことをしでかした慰月はその自覚があるのか無いのか、呑気に水中から顔を出すと掬うみたいにして淡い金色の月を手の中にゆらゆらと浮かばせている。そして私の方を見上げて得意げに


「はい、月とーちゃく」


なんてドヤ顔で言い放つものだから、安堵感から一気に力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまった。ついさっき私の行動を笑われたばかりだけど私からすれば今の慰月の行動の方がよっぽどバカだ。いくら夏だからってプールに飛び込むなんて。


 濡れた黒髪がぺたりとおでこにひっついている彼は手の中で揺らめく月を握りしめて「だってさぁー」と大きく息を吐き出しながら話す。話し方は子供っぽいのに表情は大人びていて私は余計に動揺した。水飛沫を浴びた時にかかった水滴が私の頬を伝って落ちていく。


「こんなに簡単に月にだって触れるんだから。世の中サカナになるより簡単なことばっかりだよ」

「そう……かも、しれないけど」

「それにサカナは卵から成魚になるしか道がないじゃん」


 そんなのつまんなくない?


 プールサイドに上がって隣でTシャツの裾をぎゅっと絞りながら慰月はまるで自分に言い聞かせるみたいに言う。垂れた水が、滴り落ちて足元に水溜りを作る。そこに映った彼は自信満々に笑っていた。



「何にだってなれるよ。俺らはサカナよりよっぽど自由だろ」



 パッ と音がするように。一気に視界がクリアになって、世界の彩度が高くなった気がした。未来への不安、真っ白のプリント、揺らぐにせものの月、苦手な塩素のにおい、響く友人の笑い声、心の奥底から溢れ出る無敵感。より鮮明に色付いたそれらが私の脳裏に焼き付いていく。動揺が治まると今度は笑いが込み上げてきて、私達は塩素水に濡れたまま声をあげて笑い合った。











「ただいまー」

「ちょっとあんたどこ行って……なんでそんなに濡れてるの!」

「あはは……お祭りではしゃぎすぎたかな」

「なに言ってるの、お祭りは行かないって今朝も言ってたじゃない」

「まあまあ細かいことは置いといて! お母さん、今日の晩ご飯は?」


 びしょ濡れとまではいかなくても、水飛沫を真正面から浴びたせいで私の制服はかなり濡れていた。そんな姿で帰ってきた私を見て、目を丸くしたあと顰めっ面で黙り込んでいたお母さんはしばらくして大きなため息をつく。そして「今日は焼き鮭よ」と言いながら私にタオルを押しつけるとリビングへ戻って行ってしまった。

 どうやらお咎めは無しらしい。エプロンの紐が結ばれた背中が遠ざかっていくのを眺めながら、ふわふわのタオルに顔を埋めると思わずふふっと笑みがこぼれる。



「焼き鮭……焼き鮭かぁ」



 サカナにならなくてよかった。


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クラゲはサカナの夢を見る 瑠璃 @Ruri_lapis

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