第5話
いざなぎは出迎えてくれたいざなみを見て、小躍りしたくなるくらい喜んだ。生きていた頃と変わらない愛らしい姿、声、仕草……。
「いざなぎ様! お待ちしておりました」
ただ少し違うところは、いざなみの背後に灰色の肌をした巨人が立っていることと、いざなみ自身も肌の色が悪いことだった。
「いざなぎ様、鵺様は? 鵺様も一緒ではないのですか?」
いざなみは自分がどんな仕打ちを鵺から受けたのか忘れてしまったようだ。
「安心しろ、鵺は退治した。二度と蘇らない」
「え?」
いざなみの顔色が瞬時に青くなった。
「退治したってどういうことですの?」
「鵺はおまえを贄として食ってしまったのだ」
「鵺様がわたしを食べた……」
「さぁ、オレと一緒に平坂へ戻ろう」
「でも……鵺様がいない平坂は……」
力をなくしたただの国でしかないのでは……? といざなみが表情を曇らせたのを見て、いざなぎは安心させるつもりで付け加えた。
「大丈夫だ。平坂は無事だ。鵺という化け物を退治したことで平坂には平和が戻った。おまえの姉と兄もこちらに来ている。さぁ、一緒に戻ろう」
「え……兄と姉が!? そんな……鵺様がいない平坂には守りがないではありませんか! 平坂を兄たちが侵略しようとしているのを知らないのですか!?」
いきなり自分を責め始めたいざなみに、いざなぎは面食らった。
「侵略? 何を言っているのだ。オレたちは和平交渉に応じたのだ。しかし、人質のおまえが死んでしまったので、わざわざこうして迎えに来たのだぞ? それなのに、まだ鵺のことを気にしているのか」
「だって……だって、鵺様がいたから平坂は天つ神に襲撃されずにすんでいたのに! それなのに、鵺様を殺してしまうなんて、いざなぎ様のバカバカ!」
「オレがバカだと!? おまえのためにここまで頑張ってきたというのに……」
「鵺様がいなければ、わたしは平坂に戻れないのではありませんか……?」
「そんなことはないぞ。オレが手を引いて黄泉比良坂を登っていこう。黄泉の食べ物を食べていなければ、何の問題もない」
いざなみの顔色がさらに青くなった。
「わたくし……果物を食べてしまいました」
「なんだと!?」
いざなぎは唖然とした。食べ物さえ食べなければ、生前と同じ姿で平坂に戻れたというのに……。
ヨモツヘグイしたいざなみはもう黄泉の住人になってしまったのだ……。
「いいや……!」
そんな恐ろしい考えを振り払うようにいざなぎは頭を振っていざなみにいった。
「他に方法はある。眠りの淵に行けば、ヨモツヘグイをしていても戻る手立てはあるかもしれない……それを二人で探そう……幸いなことに黄泉と平坂の時間の進み方はずいぶんと違う」
「違う?」
「そうだ。平坂でのひとときは黄泉での一年、平坂での一日は黄泉での十年なのだ」
「それで!」
いざなみが嬉しそうに手を叩いた。
「あんまり迎えが遅いからわたくし本当に心配しておりましたけれど、本当は一日しか経ってなかったのですね」
「心配掛けたな、いざなみ。さぁ、眠りの淵に参ろう」
いざなみと手に手を取り合って、二人は眠りの淵までやってきた。
眠りの淵で過ごすうちにいざなみは子供を身ごもった。それがくくりひめだ。
「この子は特別な子だ。黄泉のものであるおまえと平坂のものであるオレとの。生と死の狭間を生きる子だから、きっとオレたちの架け橋になってくれるだろう」
生まれたばかりのくくりひめはそんなことも知らずにすくすくと育っていった。
そしてある日、ようやくいざなぎはいざなみを元の姿のまま平坂に戻る方法を考えついた。
「オレが唱える呪文をおまえも唱えながら黄泉比良坂を登るのだ。そうすれば……」
確信には至らないが試してみる価値はあった。
いざなみはいざなぎにそう言われて、心から嬉しかった。
「本当ですの!? またいざなぎ様と平坂で暮らせるのですね!」
「ああ、くくりひめも連れていこう」
「ええ!」
片言が話せるようになったくくりひめの手を取り、いざなみはいざなぎの手を握りしめた。
黄泉比良坂がやがて見えてきて、おしえてもらった呪文を唱えながら三人は坂を登った。
次第に辺りが暗くなっていく。一寸先は闇という状態になった。
いざなぎに導かれるままにいざなみは付いていく。くくりひめが足が痛いとぐずり始めたら抱きかかえて前に進んだ。
次第に自分の体がおかしくなってきているのに気付いた。
「いざなぎ様、体が重とうございます……もう少しゆっくりと登られてください」
「もう少しだ、いざなみ。もう少しだけ辛抱してくれ」
「もう、ダメです、腕の中のくくりひめが岩のように重とうございます。体もなんだがおかしくて気持ち悪いです」
自分から腐った魚のような匂いがして、腕の中のくくりひめがイヤイヤしているのがわかる。口の中で舌が風船のように膨れてきてうまくしゃべれない。
「いざなぎ様、わたくし、少し休みとうございます……」
「おとうしゃまぁ、抱っこー」
くくりひめまで腕の中で暴れて、腕が痛い。ひっしと抱きしめたとき、くくりひめがドサリと地面に落ちた。
「え!?」
驚いて地面を見てみる。くくりひめはスタスタと前を行くいざなぎに抱きついた。
気付いたら、いざなみの両腕はなくなったいた。
右腕をいざなぎが握りしめたままさっさと進んでいく。左手はくくりひめの重さに耐えかねてもぎ取れたのだった。
「いざなぎ様ぁ……!!」
いざなみは驚いて叫んでしまった。もはや呪文を唱えるのも忘れてしまった。
「いざなみ? どうしたのだ? くくりひめも……うわっ」
とうとういざなぎが自分が握りしめている腐った手に気付いた。
驚愕した顔つきのいざなぎが見える。あれほど暗かった黄泉比良坂の先に見える光が、まるでたいまつの光明のようにいざなみを照らし出した。
「う、うわぁぁぁああ!」
くくりひめを抱きかかえて、いざなぎが走り出した。手に持っていたいざなみの右手を放り出して、一心不乱に坂の上の方へ向かっていく。
「ま、まって、いざなぎ様!」
けれど肉がグズグズになっている両脚では走ることもできない。いざなみは愕然としてひざまずいた。
「ひ、酷い……」
いざなみは自分が今どういう状態なのか知り、絶望した。自分を振り返ったときのいざなぎの顔が脳裏をよぎる。
「いざなぎ様が……わたくしをお見捨てになられた……」
ふいに怒りが込み上げて、いざなみはヨモツシコメを呼び出した。
「いざなぎ様をここに連れてくるのです!」
怒りにまかせて、ヨモツシコメに命じると、灰色の巨人は黒い髪を振り乱していざなぎを追い始めた。
けれど、いざなぎは逃げおおせてしまい、黄泉比良坂の入り口を千曳の岩で封じてしまった。
岩を挟んで、いざなみは恨み言を口走った。
「わたくしをお嫌いになられたのね! もう口も聞きたくないわ!」
「すまない。くくりひめに急に抱きつかれてしまって振り返ってしまったのだ……」
「でも、見るなり逃げてしまうなんて酷い」
散々泣きまくって、いざなみは岩を隔てた向こう側のいざなぎを責め立てた。すまないとしかいわないいざなぎが恨めしかった。
とうとういざなみは黄泉に戻る決心をし、くくりひめを呼んだ。
「なぁに? おかあしゃま」
「くくりひめ、この言葉をお父様に伝えて」
「わかった」
いざなみは一言くくりひめに伝えた。
その言葉をいざなぎに伝えてもらい返事をもらったくくりひめが、小さな声でいざなみに伝えたけれど残念なことに聞こえなかった。
すぐに岩の向こう側の気配がなくなってしまったので、いざなぎは立ち去ってしまったのだと思った。
いざなみは泣きながら、自分の腐った両腕を肩につなげ、黄泉に戻っていった。
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