第3話

 同じ屋敷に住まわせてもらうようになって、いざなみはできる限りいざなぎのそばから離れないようにした。間者としての役目もあったが、それ以上にいざなぎのことが知りたくなったのだ。

 高天原では目にすることのない国つ神を目の当たりにしてみたかったのかもしれない。

 それにいざなぎが自分を妹のようにかわいがってくれるのが嬉しかったから、「いざなぎ様」と子犬のようについて回った。


 そんなある日……。


「いざなみ様……そろそろ」


 などと侍女が催促し始めた。


「まだ、そんな仲じゃないです。まだまだ先のことになりそうです」

「そんなことをおっしゃっておりましたら、その通りに大王に報告しなければなりませんよ」


 大王に告げ口されると聞いて、いざなみはぐっと押し黙った。


「さぁ、これを用いて……」

「お願い、もうちょっと待って。必ずいざなぎ様と夫婦めおとになるから……」


 いざなみはそう言って、侍女が手渡そうとする毒を受け取らなかった。

 この頃には毒殺するために夫婦にならねばならないよりも、いざなぎと一緒にいたくて夫婦になりたい思いが強くなってきていたのだ。

 いざなぎ様と、人なつこく後ろをついて回っているうちに、いざなぎが優しくて立派な人で、いざなみにとって理想の男性だと強く思えた。

 今は殺すことや大王のことなど考えたくなかった。

 毎日のように侍女に責め立てられて、いざなみはどんどん落ち込んでいった。とうとう、ある晩、強く願った。


「鵺様……どうかどうかいざなぎ様をお守りになってください……! 侍女を国許に帰してください」


 その翌日、侍女がいなくなった。いざなみは密かに鵺に感謝したのだった。

 



 一年後——。

 今日も今日とて、いざなぎの働いているところへ、いざなみは手にごちそうを持って訪れた。手作り料理に、手作りの腰帯。勾玉だって作れる。いろいろなものを手に、甘えるように声を掛けた。


「いざなぎ様ァ! わたくしをお嫁さんにしてください」

「また、オレをからかっているんでしょう? オレはカムナキだから、結婚はできないといったじゃないですか!」


 いざなみは甘えるようにいざなぎに抱きついた。そのたびにいざなぎはオタオタと慌てる。


「でも、鵺様がわたしとの結婚をお認めになれば、夫婦になれるんじゃないですか」

「鵺様は……」


 一年も同じ事を繰り返しているうちに、鵺の返答も少しずつ変わってきているようで、いざなぎは押し黙ることが多くなった。




 とうとう、粘り勝ちの一年と半年後、鵺がいざなぎを通していざなみに告げた。


『夫婦になることを許そう。だが、お互い清いままでなければならぬ。でなければ、カムナキであるいざなぎがわしの言葉を聞くことができなくなるからな』

「本当でございますか! 鵺様、大好き!」


 その言葉を聞いたいざなぎが優しく微笑みながら、いざなみの手を握った。


「いざなみ様……いや、いざなみ。オレと夫婦になってくれるか? 妹だと思うようにしていたけれど、それもいまや無理になった」

「いざなぎ様……」


 待ちに待ったプロポーズにいざなみはメロメロになった。一年半もアプローチしてきて、とうとう願いが叶ったのだから無理もない。

 この頃には間者としての使命も何もかも忘れ去っていた。高天原から何の便りもないままだったので、きっと、侍女が自分を信用してくれたのだと安堵していた。

 いざなぎと夫婦になってから、二人は仲睦まじく過ごしていた。


「いざなぎ様、はい、あーんして」


 照れながらもいざなぎは口を大きく開けて、いざなみの用意した料理を食べた。いざなみは季節の野菜や肉を工夫して違う料理に仕立て、毎日数々のごちそうを食卓に出した。

 もちろん、鵺にはどぶろくをたっぷりと供えた。こうしていざなぎと夫婦になれたのは鵺のおかげだからだ。

 鵺も最初のうちは姿を隠していたが、今は堂々たる体躯をいざなみの前に現して、杯に注がれたどぶろくを飲むようになった。

 ふわふわのたてがみは狐の尾よりも立派で柔らかく、しなやかで筋肉に包まれた体躯は見たこともない雄々しい肉食獣。金毛に黒の縞模様は見るも鮮やかで飽きることがない。大きく太い四肢は滑らかな茶色い毛に覆われていて、器用にものを掴む。尾の蛇は艶やかな白い鱗を輝かせ、いつもゆらゆらと揺れている。

 美しくて強い国つ神である鵺のことを、天つ神と比べようがないといざなみは感じていた。自分も末席といえど、天つ神の一人だ。けれど、国つ神は自ら名乗りを上げて神となった天つ神とは違う。体のつくりだけでなくその存在が全く異なっているのだろう。

 だから、一年半前に自分が強く願った願いを叶えてくれたのだ。天つ神ではできないことをしてくれたのだ。


「むぐっ、一人で食べられる、いざなみ」

「いいえっ、わたくしの手でお料理を召し上がれ」


 そんな幸せな日々がいつまでも続くと思っていた。




 ある日。

 以前侵略した遠い国から、姉がいざなみを訪ねてきた。

 久しぶりに会った姉にいざなみはとても嬉しくて歓待した。


「お姉様! お久しぶりです。お元気になさってました?」

「わたしは元気にしていましたよ」


 ニコニコと微笑む姉は、今や遠い国の女王となっていた。

 姉の来訪を祝う宴が開かれて夜中まで飲めや歌えの大騒ぎになった。

 そのうちに夜も更けていき、姉といざなみは先に寝所に失礼することにした。

 宴会場からは、姉に従ってやってきた男たちといざなぎの部下やいざなぎたちの騒ぐ声が聞こえてくる。


「男たちは喜んでいるようですね」

「いざなぎ様も久々の宴で喜んでいます」

「ところで、いざなみ、話があるのだけど……」

「なんですか? お姉様」

「あなたのお部屋に行きましょう」


 姉の提案で二人はいざなみの部屋に移った。


「どうしたんです? 急に」

「お座りなさい、いざなみ」


 いぶかしく思いながらも、いざなみは素直に座った。

 いざなみの前に座った姉が、急に改まった様子で話し出した。


「あなたは当初の目的を忘れたのですね」

「……え?」


 今まですっかり忘れ去って、幸せにどっぷり浸かっていたいざなみは、いきなり現実に引き戻された。


「わたしたちが各国に送られておさを殺して侵略してきたことを忘れたのですか」

「わ、忘れていました……」

「いま、高天原ではあなたの親族の粛清が始まろうとしているのですよ。あなたのお母様のためにも務めを果たすのです。勝手に侍女を殺したことは黙っておいてあげます」

「え? どういうことですか!?」

「一の兄者が侍女の連絡がないから、わたしにここへ赴くように命じてきたのです。しかし、あなたの侍女が見当たらない……ということはあなたが裏切ったということになります」

「で、でも……わたくしは……」


 国に帰って欲しいと願ったから、てっきり侍女は逃げ出したのだと思っていたのだ。逃げ出せば自分の命だけは助かるから。


「言い訳は無用です……このことを一の兄者に知らせるか、今夜いざなぎを殺すか……どちらかに一つです」

「そ、そんな……」


 うろたえるいざなみの手の中に、姉がぎゅっと毒を握らせた。


「さぁ、やるのです。わたしは闇夜に紛れて一の兄者の元に戻ります。もしここでやらねば、あなたも殺さねばなりません」

「うう……」


 いざなみはうなだれて、床に突っ伏した。

 姉は何事もなかったように立ち上がって、部屋から出て行ったのだった。

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