第2話
***
一の兄者が率いる兵が、平坂国の周囲を囲むようにして野営しているのだを告げられたからだ。
「今度はおまえの番だ、いざなみ。わしのための礎になってくれるな!? おまえのような美しい娘を妻にしたくない男などいようはずがない」
いざなみの艶やかな黒髪、しなやかな肢体、大人び手いて愁いを帯びた美しさに、いろいろな男性が恋心を抱いているらしかった。
でもそんなことは大王の娘に生まれてしまったいざなみには関係ない。
「おまえの美しさで平坂国のおさを手玉にとり、寝首をかいて、おまえの父であるわしを喜ばせてくれるだろうな!?」
いやって言えたら凄く楽なのに……いざなみは頭を下げたまま思った。間者なんていや、人を騙すなんていやなんていったら、大王がどれほど怒るかわかっているから口に出せない。
前の侵略のとき、他の王女がいやだといったら、あっというまに親族郎党皆殺しの目に遭った。姉王女は泣きながら人質という名目でその国に行き、兄王子に命じられるままにおさを毒殺したのだ。
そうなのだ、いざなみの父親である大王は絵に描いたように冷酷無比、残虐非道なのだった。
「平坂国は今までの地とは違う、特別な地だ。我ら以外の国つ神がいる地なのだ。国つ神を我らのものにすることができれば……」
大王がうっとりとしたように言った。
口を挟むわけにはいかないが、平坂国の神が大王のいうとおりになるとは思えなかった。平坂国を侵略しようとしている天つ神の味方になるなんて、いざなみには考えられなかった。
「首尾良く一の王子を引き入れることに成功した暁には、おまえを平坂国の女神に引き立ててやろう」
引き立てられても、結局は一の兄者の傀儡になるだけだった。
大王にとって娘は利用できる道具であり、大事なのは息子たち、特に一の兄者だけなのだ。
こんなに力のある国なのだから、高天原で高みの見物なんかせず、堂々と戦いを挑めば良いのに。そんなふうに不満がたくさんあるけれど、大王には道具としか思われてないので、言い返すことなんかできない。
「平坂国のいざなぎは、見目のいい男らしいぞ? おまえも不服はないだろう。それに偶然おまえと名が似ている。親しくなるきっかけになるだろう!?」
「おっしゃるとおりです……大王」
「いざなみ、平坂国は特別な地だ。国つ神のみならず、この世ならざる国への入り口もあると聞く。それを牛耳れば、この秋津島だけでなく、この世ならざる国をも治めることができるだろう」
いざなみは陶酔したように話す大王を見てから、周りに目をやった。
大王の元に赴いているとき、おじたちが自分に話しかけてきた。
『絶対逆らうなよ? おまえの返事次第でわしたちの出世や命が関わってくるのだ』
おじたちは自分を見捨てて道具にすることしか考えてないのだ。いざなみはきゅっと赤い唇を噛んだ。
「かしこまりました、大王。きっとお望みのままにいたします」
こうして、いざなみは友好の印として人質となり、平坂国に送られたのだった。
***
見渡す限り金の稲穂が広がる平坂の様子を目の当たりにして、いざなみは「わぁ」と歓声を上げた。
「これが我が国、平坂ですよ」
いざなみを後ろに乗せ、馬にまたがったいざなぎが説明した。
「こんな素晴らしい地を治めていらっしゃるのですね。民がみな富み栄えているのがひと目でわかります」
「いやいや、この地を治めているのは我が神、鵺様でいらっしゃいます。オレは神の意思を民に告げるカムナキに過ぎません」
「こんなに広く豊かな地を前にして、自ら治めたいと思わないのですか?」
いざなみが驚いた。大王ならば、絶対にいざなぎのようなことをいわないと思ったからだ。こんなに豊かな土地を自分のものにして、利を独り占めしたくないのだろうかと不思議でならなかった。
「この平坂は民草のものです。オレは民草を守る神のカムナキです。それ以上のものになろうと思いませんよ」
それに、といざなぎが片目をつぶって付け加えた。
「神はいつもここにおわします。ほら、この肩の上に」
「え?」
すると不思議なことにいざなぎの肩に茶色の毛並みの大きな足が現れた。
その獣の足には鋭い爪が隠されていて、その大きさにいざなみは息を飲んだ。
「神はこう言っています。この地に災いをもたらせば、この爪と牙で思い知らせてやろう、と」
「まぁ、怖い」
いざなみは本当にそう思った。空中から突如として現れた足は現れたときと同じようにいきなり消えた。
「こんな風に、鵺様はオレのそばにおります。そして、この地に災いをもたらす全てから守ってくださっているのです」
「まぁ……」
こんな未知なるものに守られている平坂を、大王が奪うことができるのかと疑った。もし奪えなかったとしたらそれはとても面白いと思った。
「そんな素晴らしい国に来ることができてわたくしは幸せです」
「そのことなのですが……」
「なんですか?」
「オレは鵺様の言葉を民に伝えるものです。この身を清浄に保たねばなりませんから、妻は持てないのです」
「え……」
そんな話は大王や一の兄者からも聞いていなかった。とすれば、なんとかしてこの男を陥落させなければならないということになる。けれど、そんな手管をいざなみは知らない。
どうしようと口ごもっていると、そんなことなど知らないいざなぎが、にっこりと微笑んだ。
「でもご安心ください。あなたのことは妹のように大事にしましょう。人質といえど客人。あなたの国と平坂をつなぐ平和の架け橋になっていただかなくては」
この人は自分や大王のことを疑ってないのだと、いざなみの胸は痛んだ。
こんな純粋な男を騙さねばならないのだ、それも恐ろしい国つ神の裏をもかかねばならない。そんなことが自分にできるのだろうか……?
不安になっていると、いざなぎが心配そうに声を掛けてくる。
「高天原を離れて一人で平坂国に来たことを後悔していますか? 寂しいのでしたら、同じ年頃の娘をお呼びしましょうか? 男のオレでは話せないことを相談できるものが欲しいでしょう?」
「いいえ、大丈夫です」
いざなみは自分の背後から徒歩で突いてくる侍女たちを見やった。
「高天原から、こうして身の回りの世話をするものがついてきておりますから。ご心配はいりません」
けれど、この侍女たちは本当は自分を見張っている監視役に過ぎない。
間者としての役目を果たすかどうか、大王に疑われているのだ。
姉たちも同じ思いをして、自分の夫になった男たちを殺してきたのだと思うとさらに胸が痛んだ。
いざなみは周囲に広がる金の稲穂に目をやった。
この地が火の海になるか、血に染まるかわからないけれど、できれば大王に踏みにじられることがないように願った。
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