第5話

 満夜は数字の羅列の化け物に追われていた。それは謎の記号も含んでいて、摩訶不思議な形をしている。

 ダッシュで道を駆けるのに、道はくねくねと曲がりくねっている上に上下左右に坂がある。ゲームの中のキャラクターになったような気分で駆け巡る。

 雨が降ってくるが、全てプラスマイナス記号だ。


「悪霊退散! 悪霊退散!」


 喚きながら走っていると、いきなり地面に穴が開き、ストンと落っこちた。


 ——うわあああああ!!


 ひとしきり叫んで目を開けるとそこは真っ暗な場所だった。はぁはぁと荒い息づかいで、落ち着きを取り戻そうとする。

 どうやら自分は布団に寝ているようだ。でも、布団に入った覚えがない。

 まさか!? と思い、自分の着ているものを探ると、やはりパジャマに替わっていた。


「くうう……」


 男子たるもの、二度までも女子に無防備な姿を見せてしまった! と後悔するがときはすでに遅し。

 かくなる上は夜が明けると同時にこの化け物屋敷から脱出しなければと決意した。


「すうぅすうぅ」


 どこからともなく、安らかな寝息が聞こえてくる。


「なんだ……?」


 鵺かと思い周囲を探ると、ぽにょんと何かに手の甲が当たった。


「だれだ!?」


 がばっと起き上がり、自分の隣を見てみる。

 そこには!

 ネグリジェ姿の美虹が!!

 常夜灯でうっすらと照らされた部屋の中に、布団が一つ。

 枕は二つ!


「なんということだ!」


 これではまるで……まるで……寝かしつけされる子供のようではないか!

 どこかずれたことで慌てふためき、満夜はそのまま部屋の隅に後ずさる。

 鵺を探すと、布団の足下で大の字になって寝ているではないか。


「神とは思えんだらしない寝相だ!」


 と言いつつも、視線はネグリジェ姿の美虹へと移る。


「まさか……」


 用心深く部屋中を目で探ったが、妹のほうはいなかったので胸をなで下ろした。


「しかし、問題は残っている……」


 部屋の真ん中で寝息を立てる美虹をどうやって追い出すか、それが問題だ。

 とりあえず起こして出て行くように注意すべきだろう。

 大体、いたいけな男子のそばで大胆な寝間着姿で寝るとは不届きなヤツだ。

 悪霊と変わらないと断罪して、腕を伸ばせるだけ伸ばし、ちょんと美虹の肩をつついた。


「うう〜ん」


 美虹がコロンと仰向けになった。

 フルンと胸が揺れて、満夜はたじろいだ。


「いかん! このままでは妖魔にたぶらかされてしまう!!」


 美虹に取り憑いている妖魔か何かを退散させねば、美虹の嫌がらせに近い急接近を阻止することはできないと判断した。

 満夜は部屋の隅に置いてある自分のボストンバッグから十字架を取り出した。

 いつも呪符を使って除霊を試みるのだが、美虹の場合はどことなく悪魔を想起させたので、迷いもせずに十字架を手にしたのだ。


「悪魔よ、主の御名において退散せよ!」

「ううーん」


 美虹がごろんとまた寝返りを打った。


「ぬうう」


 このまま部屋を出ればいいものを、意地でも美虹に触らずに起こして出て行かせたくなってきて、満夜は声を張り上げた。


「悪魔よ、主の御名において退散せよー!」


 その声が静かな白山邸に大きく響いた。

 パタパタと廊下から足音がしたかと思ったら、ガラッと障子が開いて、菊瑠が寝ぼけ眼で頭を覗かせた。


「うるさいですよ! ご近所迷惑です! 早く寝てください!」


 ピシャッと障子を閉めようとするのを、満夜は慌てて止めた。


「まて! 忘れているものがあるぞ!」

「んー、なんですか?」


 ポヤーッとした目で、菊瑠が満夜を見た。


「おまえの姉ちゃんを持って行け!」

「お姉ちゃん? あ……」


 ようやく自分の姉が満夜の布団の中で寝ているのを見つけた菊瑠は「もー」と口を尖らせて、とことこと美虹のそばに寄っていきひざまずいた。


「お姉ちゃん、ずるいですよ! こんなところで眠っちゃ。わたしももふもふちゃんと寝たいです……すやぁ」


 そのままパタンとうつ伏せに倒れて眠ってしまった。

 満夜は脂汗をだらだらと流し、どこまでも満夜の思うとおりにならない姉妹を見つめながら、そっと縁側へ出て行った。




***




 翌朝、満夜は縁側で行き倒れているのを美虹に見つかって、ズリズリと布団まで引きずられた。


「はっ」


 油汗が垂れる額を拭いつつ目が覚めた満夜は、またも自分が布団の中にいることに気付いた。


「まさか!?」


 がばりと起き上がり、自分の服を検める。


「良かった……」

「何が良かったのだ?」


 いきなり鵺に話しかけられて、満夜はビックウッと飛び上がった。


「座ったまま飛び上がるとは器用なヤツだ」

「う、うるさい」

「しかし、このすむーじーなるものは美味だの」


 気付けば、鵺が両手でカップを持って、器用にストローで吸っている。


「スムージー……?」

「おはようございます! 芦屋先輩」


 縁側からトレイを持った菊瑠が入ってきた。


「イギリス風朝食ですよ!」

「イギリス風?」

「お布団に入ったまま朝食を取るスタイルのことです。トーストとスムージーとジャム、紅茶です」

「いや、着替えて台所で食事をするから良いぞ」

「いえいえ、お客様ですから、上げ膳据え膳で」


 などといって、菊瑠は無理矢理満夜の膝の上に足つきのトレイを置いた。


「ぬう」

「おっはよー」


 またも騒がしい音を立てて、縁側から美虹が入ってきた。


「ゆっくり眠れた?」

「ゆっくりもなにも!」


 満夜は昨夜のことを思い出し、顔を赤くして怒鳴ろうとした。


「夢ですよ〜、何もかも夢なのよ〜」


 美虹がニタニタと笑いながら言うのを見て、それ以上追求するとろくなことにならないと気付いた満夜はぐっと押し黙り、トーストに手を伸ばした。


「ダメダメ! ご飯はわたしが食べさせてあげる!」


 スサーッと滑るように満夜の隣に美虹が滑り込んだ。


「!?」


 満夜がうろたえると、その手からトーストを奪い、美虹はたっぷりとトーストに苺ジャムを塗った。それを、ぐいぐいと満夜の口に押しつけて「あーん」などといってくる。


「下がれ! この悪魔め!」


 そう言って昨夜出した十字架を探したが、どこにもない。


「十字架が!?」

「仕舞ったよ」

「なんだとぉ!?」

「出しっぱなしで縁側に寝てたから、お布団に連れてくるついでにバッグに入れたよ」

「やはり、おまえがオレをたぶらかそうとしていたのだな!?」

「えー、お姉ちゃん、芦屋先輩をたぶらかそうとしてたの? わーい、人の恋路は邪魔しちゃならんのです。応援します、ふれーふれー」


 なんだか昨日も見た仕草で菊瑠が両手を振り始めた。


「応援などするな!」


 満夜がこめかみに血管を浮かばせて怒鳴ると、それを見ていた鵺がスムージーをズズズとすすっていった。


「おなごを怒鳴るものではないぞ、大人げないヤツだ」

「鵺、キサマ……!」

「いっておくが、おまえがうろたえている領域をわしはすでに凌駕しておるのだ」


 そう言っている鵺を、応援することに飽きた菊瑠が抱きしめて頬をぐりぐりと鵺の頭にこすりつけている。


「くうう……」

「早う飯を食ってかだいなるものを済ませたほうが良くはないか?」

「ぬう……キサマのいうとおりだ」

「はい、あーん」

「くっ、一人で食える! 下がれ!」

「つまんないなぁ」


 美虹と攻防を繰り返した後、ようやく満夜はトーストを一枚食べ終えて、着替えるために姉妹を追い出した。


「ふぅ……」


 額の汗を拭いながらため息をついたところで、視線を感じた。ハッとして障子を見ると、数センチ隙間が開き、そこから美虹がじっと覗いていたが、満夜が声を上げる前にピシャッと閉じられたのだった。

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