第4話

 意外に湯船は広くて、三、四人はゆうには入れそうだ。


「そうか……いざなみ教の名残なのだな……」


 信者を何人も抱えていただけに、風呂用の椅子と桶が数個置いている。

 満夜が体を洗う横にぺたんと座る鵺も、すっかり慣れたものでボディソープで体を泡だらけにしている。

 それを横目で見ながら、やはりレッサーパンダにしか見えないと思いつつ、満夜は鵺の体の泡を流してやり、一緒に風呂に浸かった。風呂の縁に両手を置いた鵺のほっぺは、毛で見えないが、きっとぽかぽかお風呂でほんのりと染まっているだろう。


「いい湯なのだ。先頭に来たみたいな気分だな!」

「うむ。さっきのぽっとしちゅーなるものといい、もてなしが行き届いている。この後酒が出れば完璧だ」

「おまえ、オレの家だけでなく他人の家でも酒を飲むつもりなのか!」

「よき酒は五臓六腑に染み渡る」


 そのとき——。

 ガラッとだれかが入ってきた。


「な、なんだ!?」


 満夜が風呂から立ち上がり身構えた。

 湯気で辺りが曇っているが、入ってきた声ですぐに状況を察知して、慌てて湯船に浸かった。


「満夜くん! お背中流しましょう〜」


 腕まくりをした美虹が無防備な満夜の前に現れた。

 満夜は鼻まで湯に浸かり、体を守った。

 ここで言うなりになってしまったら、清い体が俗世の垢にまみれてしまう!


「ほーらほら、上がってきて、わたしに背中を洗わせるのよ〜」


 どう見ても背中流させろ妖怪にしか見えない。


「あっちへ行け! 体はもう洗ったから、もう一度背中を流す必要などない。それより、年頃の娘がいたいけな男子を弄ぶなどもってのほかだ!」

「背中を流すと申すか。どれ、わしはそうさせてもらうか」


 ザバッと二本足で風呂の縁に立ち上がった鵺が、ぴょんとタイルの床に飛び降りる。


「きゃっ、鵺ちゃんの毛がぺっしゃんこじゃない。かわいい〜」

「え! もふもふちゃんの毛が!?」


 美虹の背後から菊瑠の声まで聞こえてきた。


「おまえたち、姉妹で風呂場の脱衣所に待機していたのか! この変態姉妹が!」


 いつにない満夜の罵声が飛ぶ。


「わたしは着替えを持ってきただけです〜。さっきから背中を流すっていって聞かないのはお姉ちゃんだけですッ!」

「美虹くん! 公序良俗に反するおこないだぞ! 今すぐにここから出て行くのだ。というか、オレは子供ではない。自分の体くらい自分で洗えるのだ! 現にもう洗い終わっている」

「まぁまぁ、そういわずに。遠慮してるのかな!? まさかわたしが満夜くんによからぬことを企んでいるとでも!?」

「企んでいるではないか! 出て行くのだ!!」


 満夜は女子のようにわーわー騒ぐだけ騒いで、湯船に潜ってしまった。

 ぶくぶくと泡が湯面に浮き立つ。

 そんな満夜を横目に、美虹は自分の前にぺたんと座り込んだ鵺の背中を流し始めた。


「鵺ちゃんの毛がくるくるするね。うふふ。うずまきー。尖っちゃうぞぉ」


 などと遊ばれているが、鵺は気持ちよさそうだ。とろんとした目をしている。

 長いことそうやって鵺で遊んでいたおかげで、湯船に浸かっている満夜の顔はゆでだこのように赤くなってきた。


「熱い……熱いが上がれない……今上がれば美虹くんの餌食だ」


 聞こえないように満夜はつぶやいた。


「餌食などにはならんぞ……ならん……な……ふあああ」


 ブツブツつぶやいているうちに、だんだん頭が沸騰してきて、とうとうプカァと湯船に浮かんでしまった。

 もちろんその後の記憶はない。




 何か油断ならない焦燥感に襲われて、満夜は目を覚ました。

 天井が見えるが、明らかに自分の家ではない。


「夢か……?」


 さっきから涼しい風が自分の頬を撫でている。おでこにはひんやりとしたシートも貼られている。


「夢じゃありませーん」


 悪夢のような美虹の声がした。


「ひっ」


 思わず悲鳴が出た満夜は慌てて飛び起きた。


「オレは一体どこに!? さっきまで風呂場にいたはず……ひいい」


 気付くといつの間にか短パンとTシャツに着替えているではないか!

 事態を飲み込んだ満夜はきゅっと体育座りをして、えもいわれぬ恐怖に満ちた目で美虹を見つめた。


「見たな!」

「いいじゃない。減るもんじゃないし。ちゃんとタオルを掛けてたよ」

「わたしは見てません」


 背を向けたまま座っている菊瑠が震える声で言った。


「お姉ちゃんが芦屋先輩のパンツをじっくり見てたなんて知りません」


 その場にいたかのような供述に、満夜は悶えた。


「わしは見ておった。減るもんじゃなし、まして男子たるものおなごに裸を見られたくらいでうろたえるものではない」

「オレは女子供にうつつを抜かしている暇はないのだ! この身と精神を精進し、術師としての鍛錬をせねばならないのだ」

「えー、満夜くん、その年でお年寄り臭い」

「なんとでもいえばいいのだ」


 いつまでも体育座りをしているわけにもいかず、満夜は開き直ったように、あぐらをかいた。


「気が済んだならば、俺は帰るぞ」

「お泊まりセットあるのに? 凜理ちゃんがせっかく持ってきたのに。それに課題を終わらせるんでしょ?」

「ぬう」

「満夜くん一人で課題を終わらせられるんなら、帰っても良いよ。でもあと二日でどうにかなるかな!?」

「わたしは課題を済ませたし、芦屋先輩をお手伝いする程の学力はないですけど、応援はします。ふれーふれー」


 菊瑠が両手を広げてふさふさしたあれを振るように左右に動かした。


「おのれ、人ごとだと思いおって……」

「そんなことないですよ。全身全霊で応援します!」

「全身全霊というが見ているだけだろう! ええい、オレは見世物ではないぞ。ううぬ。致し方ない。今日のところはおとなしく勉学に励むとしよう。場所が気に食わんがな……」


 気付くと、用意が良いことに座卓には課題のドリルが置かれて、いつでも課題ができるようになっていた。

 しかも気が利いていることにそばには麦茶と茶請けまであった。


「ゼリーでなかっただけましか……」

「え? 先輩ゼリー食べますか! みんなおなかいっぱいらしくて全然減らないんです」

「ぬぅ、やはり。ところで白山くんはあのゼリーを味見したことはあるのか?」

「ありますよ〜。だって味見しないとへんな味になっちゃうじゃないですか!」

「味見を、して、いるだ、と……!?」


 あの味でか! と、満夜は絶句した。

 そこに美虹がコロコロ笑いながら、


「菊瑠ちゃんてば、味を足すのが好きなんだよね。うふふふ」

「なにぃ!? なぜ味を足すのだ!」


 味さえ足さねば、もしかするとうまいのかもしれない。


「え、だって、よりおいしくしたいじゃないですか!」

「ぬうう」


 まさか、本人を目の前にして「まずいのレベルを超えている」という真実を告げるのはためらわれた。頑張って心を込めているのがわかるだけに。


「わしは酒が飲みたいぞ」

「じゃあ、一緒にキッチンに行きましょう」


 といって、菊瑠と鵺は座敷から出て行った。

 満夜は気を取り直して、適当にドリルを開いた。早速わからず、穴が開くほど例文を眺めるハメになった。


「なになに?」


 背中に何か当たる感触がしたかと思ったら耳元で美虹の声がした。

 寄りかかるような寄り添うような軽い感触なので不快ではないのだが、思いも寄らない感覚がある。

 背中にふにゃっと当たるものはなんだ!? と満夜はぞっとした。男にはないもの、ましてや毛もふの鵺の感触でもない。


「いやいやいやいや」


 まさかそんなはずはない。

 そうだ、これは縁日で売られている水風船。もしくはぎゅっと握ってストレス発散するウレタンのボール。それか小さなクッション。


「うむ。それだろう」


 自分で言い聞かせて納得したように頷き、再びドリルに集中した。

 それなのに、ムニューとやはり何かが押しつけられる。


「ぬうう」


 満夜はただならぬ殺気を感じ、畳の上をずざざざざと滑って端まで這っていった。


「悪霊退散!」


 と言いながら九字を切った。


「悪霊なんて酷いよ」


 美虹がぷんすこと頬を膨らませた。


「女人は禁制だ! 修行に女人は俗世の欲を生むのだ! 課題も然り。修行の邪魔だ! 出て行くのだ!!」


 満夜は一心不乱に叫ぶと、美虹を追い立てて座敷から閉め出した。


「はぁはぁ……全く油断ならん……」


 肩で息をしながら、一人ではとくこともままならないドリルに立ち向かった。


「ふふふふふ……」


 不気味な含み笑いが背後から聞こえ、満夜はハッとして勢いよく後ろを振り向いた途端、ピシャッとふすまは閉じられた。


「ここは妖魔の巣窟だ……」


 満夜はそうつぶやき、意識を失うまで全く進まないドリルと格闘したのだった。

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