第2話

 ガラガラと引き戸が開き、エプロンをした美虹が玄関に出てきた。後ろから菊瑠も顔を出して、鵺を見た途端目を輝かせた。


「あら、鵺ちゃんも来たんだね!」

「何を作っておるのだ、娘」


 鵺が訊ねると、


「お昼にクリームシチューを食べようと思って。あついけど、暑い日ほど熱いものを食べなくちゃね!」


 なんだかわかるようなわからないような理屈を美虹がのたまってそのまま引っ込んだ。


「ポットシチューを作ってるんです!」


 どうぞどうぞと菊瑠に促されて二人は玄関から上がり、縁側のある和室に通された。


「信者さんはどないしたん?」

「ああ、お母さんの信者さんは残りましたけど、宗教入信者は少しずつ減ってきてます」


 少しずつ縮小してきているようで、凜理もそれを聞いて安心したが、


「お母さんの代わりに、お姉ちゃんが拝み屋さんをするようになったら、お客さんの口コミが増えちゃって」


 と言う菊瑠の言葉を聞いて、再び心配になった。


「そういえば、美虹さん、能力があるいうてたな。それは、おばさんと同じ能力なん?」

「そうですねぇ。うちのお姉ちゃんの性格かもしれないですけど、お母さんみたいに大袈裟じゃないですよ」

「お母さんは大袈裟やったんやな……」

「きえええい! とか言ってましたし」


 『きえええい!』のところで、菊瑠は母親の声色をまねして見せた。


「娘、気合いというものを入れねば尋常でない力と繋がれぬものもおる。何もせぬあの娘こそ強き力を持つものではないか」


 鵺がわかったようなことをいって、するりと満夜の肩から下り、さっきからいい匂いが漂ってくる台所へ走って行ってしまった。

 意味深な鵺の言葉を凜理はどこか不安を感じながら聞いていた。


「さて、一体どこから始めればいいものか」


 ドサリと座卓にドリルを置いて、満夜がうなり始めた。

 見てみると課題が出た全教科のドリルが白紙のままだ。


「どこから始めてもどれも同じやな。まずは得意なヤツからかたしてこうか」

「ぬぅ、得意な教科か……」


 それを聞いた満夜がドリルの中を順番に眺めた。

 このままでは選ぶだけで時間が過ぎてしまうので、適当に凜理は満夜の前に並ベられたドリルを一冊手に取った。

 英語の単語ドリルを手に取った凜理は内心ほっとした。これならすぐに終わらせそうだ。その代わり英単は休み明けにテストがあるので、おろそかにはできない。


「とにかく辞書使うて意味を調べて覚えるしかないて」

「うむ」


 満夜も腹をくくったのかおとなしい。

 もっと言い訳するかと身構えていただけに凜理は肩透かしを食らった感じがした。


「なんや、満夜、おとなしなぁ。もっと反論するて思うた」

「この期に及んで抵抗して何になるのだ。オレも愚かではない。―だが、おまえのドリル、貸してくれたらオレもおとなしく、おまえの望むままにつまらん勉学に勤しむことにする」

「ほな……」


 と言いかけて凜理は満夜がさりげなくずるをしようとしていることに気付いて、自分のドリルを背後に隠した。


「だめ。そうはいかへんで。辞書があるんやから、調べるくらい自分でしいや」

「ぬぅ、失敗に終わったか……まぁいい、辞書を貸せ」


 そう言って、満夜はおとなしく辞書を引き始めたのだった。

 やっと勉強をしている雰囲気になった頃、廊下の外から足音がして、がらりとふすまが開いた。


「あ、真面目にやってるな! お茶持ってきたよ」


 美虹がエプロンを着けたままの姿で、トレイに紅茶のカップを載せて入ってきた。


「英単かぁ。なつかしいな。わたし、英文学科だからなんでも聞いてね」

「英文科なんか。よその大学に比べたら平坂大学は学科がそろうとるし、家からも近いし、うちの進学候補なんや。近くにOGがいると安心やな」

「OGかぁ。後輩ができるのって良いよね」


 そこに満夜が割って入る。


「ところで美虹くんは龍神王の後を継いだと聞いたが」

「ああ、それ? 適当適当! お母さんのまねをしてるだけだよ。満夜くんならコールドリーディングって知ってるよね? お客さんの事情を聞いてなんとなくその背後を読み取ってヒントになる言葉から連想した推測を相手に伝えてるだけ」

「ふむ……ではオレが平坂大学に受かるかどうかまで読み取れるのか?」

「ざんねーん。わたしができるのは、未来予想じゃなくて、すでに起こってしまった事柄だけだよ〜。それに、満夜くんには凜理ちゃんていう頼もしい仲間が付いてるからどうにかなるんじゃない?」

「コールドリーディング」


 満夜の考え込む姿を見て、凜理が水を差す。このままだとまた勉強から気がそれてしまう。


「満夜、せっかくやからお茶にしよか。その後英単の続きやろ」

「うむ」


 紅茶を二人ですすっていると、またまたふすまから足音がして、大きな盆からいい匂いを漂わせながら、菊瑠が入ってきた。


「あら、菊瑠ちゃん。それはわたしが運ぶっていったじゃない」

「お姉ちゃんにばっかりしてもらえないよ」

「可愛い後輩たちのためなら何でもするぞ〜」

「後輩?」

「満夜くんと凜理ちゃんは平坂大学を受けるかもしれないんだってさ」

「そうなんですか〜!」


 ココット皿の上にマッシュルームのような形をしたパイ生地が乗っかっている。それを、トレイと一緒に満夜と凜理の前に並べておいた。


「上からスプーンでつついて穴を開けたら、パイ生地と一緒にクリームシチューを食べるんですよ」

「……これは白山くんも手伝ったのか」

「いいえ、全部お姉ちゃんが作りました。台所が狭いから、同時にオーブンが使えなくって」

「そうか、ならば良い」


 どこかしら満夜がほっとしている。

 パイ生地のバターを焦がしたいい匂いと、コトコト煮込んだであろうホワイトソースの香りが相まって、二人の胃の腑を刺激する。


「ではいただくとするか」


 スプーンを手に取った満夜がポッとシチューのパイ生地を真上から割った。途端にほんわりと温かな湯気がわいて出た。甘みのあるミルクの香りが鼻の奥をくすぐる。自然に大きく香りを吸い込んだ。

 満夜は口の中にジュルリと唾液がわくのを感じつつ、スプーンですくったシチューを冷ましながら、口に含んだ。塩気と甘みと旨みが混在した濃厚なミルクのとろりとした舌触りに、パイからにじみ出たバターの香りが、口いっぱいに広がる。


「うまいっ」

「ほんまや、おいしい!」


 後は夢中になってサクサクとパイ生地を割っては食べを繰り返し、食べ終わった頃にはおなかいっぱいになっていた。


「食後のデザートでーす」


 今度は涼しげな色合いをしたミントゼリーがやってきた。ミントの鮮やかな緑色に、下の層はムースなのかほんのりと薄い緑色をしたミルク色だ。脇にはチョコミントのアイスが添えてある。


「わぁ、なんや喫茶店みたいやなぁ!」

「料理が趣味なだけ」


 それなのに、なぜか満夜だけ浮かない顔をしている。おいしそうにポットシチューを食べていただけに不自然だ。


「どないしたん」

「そのゼリーは美虹くんが作ったのか?」

「ざんねーん。菊瑠ちゃん作のお手製ミントゼリーだよ」

「う……オレは腹が一杯なので遠慮しておく」

「えー、そうなんですか」


 がっかりした顔つきで、菊瑠が肩を落とした。

 それを気の毒に思ったのか、それともデザートは別腹なのか、凜理は喜んでゼリーを受け取り、一口口にした。


「……」


 うまいもなにもいわずにそっとスプーンを置いた。


「うちもおなかいっぱいでこれ以上食べれへんわ。ごめんな」

「残念ですぅ……ミントをいっぱい入れて夏らしい味にしたんですけど……」


 確かに色は涼しげで綺麗だし、キラキラと輝いてエメラルドのようだ。だが、壊滅的な味をしているようで、凜理がしきりに紅茶を飲んでいる。

 満夜はそれを横目で見ながら、「やはり」という顔つきでほっとしているのだった。

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