第8話 オフ・ザ・ボール
「もっと追いかけろ! 自由を与えるな!」
「わかっています。でも体が重い」
「若い者が何を情けないことを言っているんだ」
「情けないこともわかっています」
「では改めなさい」
「こんなはずじゃない」
「どんなはずだったんだ?」
「もっとドラマチックにゴールに迫れるはずなんです」
「劇的なことは最後の瞬間に用意されているものだ」
「そういうものですか」
「だが、それまでの努力がなければそうもいかない」
「はあ」
「まずは追いかけて相手の体力を奪っておかなければならない」
「走り負けるなと言うんですね」
「勝利の女神を味方にするのは楽ではない。追い続けることは嫌かね?」
「ずっと主人公の後を追っていました」
「何の話だ?」
「昔見ていたドラマの話です。寄り添うように追いかけていた」
「寄り添うほど好きだったんだな」
「突然、場面が変わりみんなどこかへ行ってしまったんです」
「何が起こったのだ?」
「主人公にも休息は必要です。コーナーフラッグを越えてボトルに手を伸ばすように」
「しばらくして戻って来たのか?」
「それどころか場面はどんどん遠いところへと向かって行きました。今まで訪れた場所、現れた人などどこにも見当たりません。何やら時代がかった部分ばかりが目に付いていました」
「まるでタイムスリップしたように?」
「SFでもその種のファンタジーでもなかったのです。おかしいでしょう」
「回想して過去に切り替わることはよくあるがな」
「それでも辻褄が合わず、背景から流れている音楽までもまるで雰囲気が違うと気づいたのです」
「世界観が異なっていたと?」
「はい。人々はみんな着物に身を包み古風な言葉で話し始めたのです」
「なるほど」
「いつの間にか時代劇に変わっていたのです。誰かがチャンネルを変えたのです」
「気づかない間にか?」
「あるいは、気づかないようにこっそりと変えられたのかもしれません」
「それは災難だったな。しかし今でも覚えているとは」
「敵はどこに潜んでいるかわからないということを学びました」
「近くにいるから味方とは限らない」
「自分の見えない場所で動くコントローラーがあったのです」
「なるほど」
「お奉行様が悪人に裁きを下してから、ようやくあるべき世界に戻りました」
「間に合ったのか?」
「彼らがそこにいたという意味では。でも何か違和感がありました」
「話が見えなくなってしまったのか?」
「ずっと寄り添っていた彼らが、随分先に進んでしまったような気がしました。取り戻すことのできない距離ができたように思いました」
「久しぶりに親戚の子にあったような感じか?」
「少し見ない間に大人びて物静かになってしまったような」
「同じ時間を生きてきたのにな」
「それは同じ時間ではなかったのです。僕はどこにいたのだろう……。どこで何をしていたのだろう……。そのような匂いがする場所が、ピッチの中にもあります」
「それが自陣の中だと言うのかね?」
「はい。そこではシュートも打てませんから」
「確かに打てはしないだろう。だが、そこを攻撃の始まりにすることはできる。攻撃全体を一つのシュートと考えるとどうだろうか?」
「シュートは最後に僕が打つものです」
「一人で背負い切れる時ばかりではない」
「自分の本当の居場所がどこにあるかを知っていたいんです」
「人生の時間はどこで誰と過ごすかによって長さや楽しさが変わる」
「だからです」
「耐えて待たねばならない時があるのだ。力のバランスによっては」
「今がちょうどその時なのかもしれません」
「必ず押し込まれる時間帯があるものだ」
「長引けば長引くほど、心が折れそうになります」
「そこを耐えなければならない」
「シュートがないと自分が欠けていくように思えます。一番消えたくない場所で、自分が消えていくことが辛いのです」
「耐えてこそ訪れるチャンスがあると信じるしかない。信じ続けるしかない」
「見えていたはずのゴールが、幻のように霞んでしまいます」
「ゴールが消えてしまうわけではない」
「だんだんと不安の方が膨らんでいくのがわかります。僕はここで何をしているんだろう」
「機会は思わぬ形でやってくる。強者も完璧でいることはあり得ないからだ」
「はい。ほとんど自分の存在さえも忘れかけた頃に」
「攻撃が長く続くほど自陣に隙ができるものだ」
「僕らにとっては敵陣。僕のいるべき場所」
「そうだ。今まさに敵はこじ開けようとして守備の網にかかった」
「はい」
「さあ、走り込め」
「ようやく主役になれる時が巡ってきました」
「ナイストラップ! いいぞ。敵陣を切り裂いてやれ!」
「ディフェンスが戻って来ました。必死の形相です」
「落ち着け! 一対一だ」
「ボールは僕の足下にあります。わくわくするほどのアイデアと一緒に」
「選べるのは一つだ。迷っている時間もない」
「この瞬間を待っていました」
「今までの鬱憤を晴らす時が来たな」
「僕は何でもできます。右もある、左もある、パスもある、浮かすこともできる、引くこともできる、体を揺さぶることも、股を狙うことも、くるりとターンすることも、足裏でなめることも、跨ぐこと、切り返すこと、何でもできる、すべては自分の足下から、どんな創造も作り出すことができる」
「何でもいい。決断し、チャレンジするんだ」
「僕はリモコンのポーズボタンを押しています。僕だけが次に起こることを決定することができるんです」
「ここは現実のピッチだ。時間を止めることはできないんだ。審判にだってできないことだぞ」
「もっと温めておきたい。この時間を簡単に手放したくはないんです」
「早く目を覚ますんだ! 失ってしまう前に」
「行き先は僕だけが知っています。ボールは僕の足下にあるんですから」
「君がすべきことはポーズボタンを押して時間を止めることじゃない。君は短い間にやり遂げなければならないんだ」
「なぜですか」
「躊躇うな。躊躇いは躓きの元だ」
「どうしてなんです?」
「ああ! それみたことか!」
「ああ……」
「なんて取られ方なんだ!」
「こんなはずでは……」
「どうして仕掛けない? それで取られたのなら私も文句は言わない」
「僕は大事にしたかったんです」
「せっかくのマイボールは、チーム全体として大事にしなければならない」
「大事にしたかったから失ってしまったんです」
「大事にしたかったら決して失ってはならん」
「長い時間、喪失感を味わっていました。最も充実感のあるはずのピッチの上で」
「押し込まれている時間帯は長くあったがそれもサッカーだ。ピッチの上にはパワーバランスが存在する」
「僕らは無力感の中にいることに疲れてしまいました。初雪のない冬の中に置かれているみたいに」
「雪か……。冬の色は地域によって異なるだろう」
「そうです」
「そのような時間もあるものだ。どんな画家も一筆に冬を描くことはできない。筆を手にしたまま動かない時間もある。その間にも冬は画家の頭の中で描き出されているのだ。一番良い時は待たねばならない」
「今が冬だとしても、僕らはただ見送っているわけにはいきません。絵の中の鹿のように、じっとしていることはできない。僕らは走りながら考えなければならないんです」
「その通りだ。ピッチの大半が冬に支配されている時でも、走りながら耐え続けねばならない」
「僕らは必死で耐えていました。時々は春の訪れを期待もしたのです。でもそれはすぐに通り過ぎてしまいます。桜の木の下を歩かなかった三月のように」
「春とは常に幻想のように儚いものだ。儚いが故に美しくもある」
「せっかく取り返したと思ったらファールを取られる。桜も見ないまま桜餅を食べたように」
「名人戦を見たことがあるかね?」
「名人劇場なら何度か」
「棋士は戦いの最中にスイーツを食べるものだ」
「忙しい最中に何をしているんですか? ちゃんと集中しなくて大丈夫なんですか?」
「集中するためには、余白の部分も必要ということだ。つまり空いたスペースがな」
「僕らが戦いの中で口にできるのは水だけです。でもスペースは今は失われているように感じます」
「失われているように思わされているのだ。実に巧妙なやり方で」
「どこにも飛び出せる場所が見えずどうにかなりそうです。鯉が泳がなかった五月のようです」
「戦術的な雲が活発な鯉を覆ってしまっているからだろう」
「僕らは水槽の中の金魚のように自由を失っている。どこかに向かおうとしても、すぐに敵の網にかかってばかりです」
「今はそういう時間帯なのだろう。だが、季節はうつろうもの。桜、鯉、そして祭りへと」
「雨に打たれず雨季を越えても僕らの夏に花火は上がりません。ただの一発だって僕らには火をつける力がないようです。それさえあれば燃える準備はできているのに」
「火種はどこに転がっているかわからないものだ。目を光らせていればな」
「蚊が忍び寄る音だけ広がる夏は、ただかゆいというだけです」
「静かな夏の後にも収穫の秋は訪れる。最もゴールの予感に近づく季節が」
「僕らの秋は少しも実る気配がありませんね。赤く染まるのは僕らの脛の辺りだけです」
「敵に削られてか? 球際の激しさは必然と言えるだろう」
「僕らの足下は常に攻撃の対象になっています。夏が終わっても、まだ追撃の手を緩めない蚊もいたのです」
「実に見習うべき執念だ。最後は執着の強い方が勝つことになっている」
「蚊の鳴く声から逃げている間に、気がつくとクリスマスソングに包まれています」
「そのようにして攻守の切り替えもされるべきだが」
「攻められてばかりでは季節感も失われていきそうです」
「サンタクロースがプレゼントゴールをくれるのだろう。みんないい子にしていれば」
「僕たちがもらうのはイエローカードばかりですよ。その内みんないなくなってしまうかも」
「なんと嘆かわしい話だ!」
「年が明けたというのにハッピーな言葉もない。僕たちのグリーンはもうそんな場所になりつつあるんです。ゴール裏の、あの人たちの顔を見てください」
「あれは何かを待ち続ける人の顔だ。それはお年玉かもしれない」
「お年玉をずっと探し続けていたんです」
「ずっと?」
「まだ子供の頃の話です。どうしてもそれが欲しくて町を歩き続けていました」
「町を歩いた?」
「待っているよりも自分でもらいに行った方が早いと思ったのでしょう」
「なんと欲深い子供だ!」
「欲望に忠実だったのでしょう」
「決して正しくはないがな」
「はい。後で見つかって叱られました。お年玉は自分から手を出して望むものではないのだと」
「その通り」
「望みに反して大目玉を食ってしまいました」
「どんなお年玉よりも高くついたというわけか」
「ゴールというのはお年玉とは違うはずです」
「まるで違うさ」
「特に僕のようなストライカーにとっては」
「どんなストライカーだね?」
「本物のストライカーなら、どんなクロスにも合わせられる。そのためには自分の居場所で勝負し続けなければ……」
「名人の指はいつも駒に触れているわけではない。マカロンを食べている時には指先をなめているのだ」
「戦いの最中に、そんなことをしていて大丈夫なんですか? そんなことで試合に勝てるんですか?」
「時には目を閉じて眠っていることもあるのだ」
「あり得ない話です。負けたも同然です」
「そうではない。より良い手を見つけるために夢深くまで潜らねばならないのだ」
「夢のような話にしか思えません」
「筆を握らずとも絵は描かれているということだ」
「僕には絵心なんてない。ドラえもんさえ描けないほどです」
「彼らは触れていなくても、触れていることができるということだ」
「真似をしろと言うのですか? ピッチの上で眠れと言うんですか?」
「大きな目で戦いを見ろと言っているんだ。触れている時間だけが試合じゃない。美味しいものを食べている時だけが人生ではないように」
「僕はもっと触れていたい。できればずっと触れ続けていたいくらいです。それなのに、今の現実は違いすぎて……」
「それこそが現実なのだ。我々はドリーム・チームとは違う。ボールに触れている時間も、触れていない時間も、同じくらいサッカーなのだ」
「ただ走ってばかりでもですか?」
「ただ走るのではない。夢を抱きながら走るのだ」
「夢とは何です? ボールですか、ゴールですか?」
「それらは夢の一部にすぎない」
「ゴールがすべてではないですか? 僕はストライカーなんです」
「本当にそう思っているのかね?」
「どういう意味ですか?」
「とぼけているのかね? それとも迷っているのか」
「わかりません。もう、わからなくなってしまいました」
「私もだよ。答えはこの中にしかないのかもしれない」
「あるような気はします。でも捕まえることができない」
「走り続けることだ」
「ずっと走らされているように思えます」
「走らされている間に自分の走りを見つけるのだ」
「自分の走り?」
「自らの意思で走る時より容易だろう」
「どうしてです?」
「理由がないからだ。走らされるというのは不条理だろう」
「不満だらけです」
「自分を探す理由がそこにあるじゃないか」
「どこに? どこにあるんです?」
「そこだ!」
「どこに……」
「そこだ! もっと本気で追いかけろ!」
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