第9話 緑の王様
「サポーターのがまんも限界に近いようだな」
「あのブーイングは、怒りを通り越したように響いていますね」
「そうさせたのは我々に他ならない」
「はい。監督」
「まずは自覚と反省が必要だ」
「僕は彼らを怒らせるためにやってるわけじゃない」
「勿論そうだ。ここにいる全員がそうだろう」
「楽しませたいんです。みんなを楽しませたいんです」
「そのためにはまず自分たちが楽しまなければならない」
「僕たちにはその資格がある」
「みんなプロなんだからな」
「ここに足をつけた瞬間から、僕たちは楽しい」
「子供たちの手を引いて入ってきた時からな」
「笛が鳴る遙かに前から楽しかった。だけど」
「不都合な勢力が現れた?」
「ここにいる者は、敵であってもみんな仲間です」
「パワーバランスが傾きすぎたんだな」
「楽しさが消えたわけではありません」
「楽しいだけではなくなってしまったんだな」
「楽しさを凌ぐ感情に覆われてしまった」
「怒りだろうか、恐怖だろうか?」
「楽しさばかりが続くのは、本当は楽しくないんですよ」
「単純すぎては飽きてしまうからな」
「ほんの一時的なものだと思うんです。楽しくないように映るのは」
「我々には長いがまんの時間が必要だ」
「もう十分です」
「そうは言っても……」
「もう耐えているのは、うんざりなんです」
「相手がそれを許すだろうか」
「僕たちは駄目な時間に慣れてしまいそうです。できない自分たちを、自分たちで認めてしまいそうです」
「経験が事実を作ってしまうわけだな」
「最初は勢いよくボールを蹴っていたはずなのに、今はそれもままならない」
「蹴ることは一番大事な基本だぞ」
「弱い気持ちがボールに伝わったように、ボールは意図したところに届かない」
「その度に顔を曇らせるサポーター」
「活気づく敵のベンチ」
「沸き起こるブーイング」
「怖じ気づく僕たち」
「鳴り止まぬブーイング」
「天を仰ぐ僕たち」
「ブーイング、またブーイング」
「ミスにつぐミス」
「抜け出せない悪循環」
「こんなはずじゃあなかったのにな」
「誰もが思うことだがな」
「変わらなければ」
「抜け出すためには変わらなければ」
「どうやって」
「どうにかして」
「いったいどうやって」
「答えはピッチの中で」
「走りながら見つけなければ」
「走り続ける者だけに」
「見える景色があるでしょうか」
「見ようとした者だけが見ることができるだろう」
「それは本当ですか? 自信を持ってそう言えるのですか?」
「聞き手の中の不安は、すべてに疑問を挟んでしまう」
「でも、聞き手は慎重であるべきでしょう」
「そして話し手の中の不安は、容易に聞き手を覆ってしまう」
「いったいどういうことなんです?」
「不安の中で戦ってはならないということだ」
「僕らを不安にさせるのは、パワーバランスの崩壊です」
「不安は反省や批判と同じだ」
「僕らの進歩のためには、みんな必要なものでしょう」
「勿論。だが、それをゲームプランの中に持ち込んではならない」
「最初から持って入ったわけではありません」
「スマホや任天堂のゲーム機と同じように、持ち込み禁止なのだ」
「バスの中までということですね」
「その通りだ。バスの中、あるいはホテル、ロッカールームの中に留めておくべきものだ」
「不安が見え始めたのは、最初の小さなミスからでした」
「そうだ。強者は常にミスを待っているし、その瞬間を決して逃さない」
「いつもならかわせると思えたところがかわせなかった」
「それはほんの少しの差だった」
「そして次も、そのまた次も、同じようなことを繰り返して……」
「微かな不安は、足下にも伝わって微かな隙を生むものだ」
「確かにあったはずの足下の自信が、徐々に揺らいでいきます」
「不安は相手に対する畏怖の念にも変換される。それは一層、自らの足下を不安定にさせるものだ」
「何か次元の違いのような感覚を抱いたこともありました」
「問題の始まりは、ミスに対するネガティブな自己評価にあるのだ」
「上手くいくと思っていたんです」
「君はチャレンジしたのだ」
「そして失敗したんです」
「だがそれは紙一重だったのではないか」
「勝負は勝つか負けるか、そのどちらかです」
「紙一重で結果は変わっていたのかもしれない」
「その次も、その次も、結果は変わりませんでした。負けてばかり」
「何万回失敗が続いたとしても、もしもそれが紙一重のものだったとするなら、それは可能性に満ちた失敗だったと言えるだろう」
「そんなに負けてばかりでは、僕たちはみんなこの場所に立ってはいられないでしょう」
「だが現実には、そのようなことはあり得ない。結果はどこかで入れ替わる。どんな強者も、ミスを犯すからだ」
「このまま失敗を繰り返してもいいと言うんですか?」
「チャレンジの失敗は、悲観には値しない」
「僕たちは成功するために、勝つためにここにいるです」
「まずは自分の居場所を知らねばならない。失敗だけが、自分の現在地を教えてくれる」
「自分の現在地」
「それを知ってこそ先へ進めるというものだ」
「堂々と失敗しろと?」
「そうだ! 奪われた瞬間は、ほんの少しのところでかわせる瞬間でもあったはず」
「でも、結果はロストしたんです」
「勝敗は表裏一体のものだ」
「イメージでは、僕が勝つはずでした」
「そうだ。問題はイメージのずれなのだ。僅か先を敵は歩いていたということだ」
「敵の俊足は侮れません」
「ロストの瞬間に無数のヒントが詰まっているのだ」
「幾つかに絞ってくれないんですか?」
「ヒントは多くても困ることはないはずだ」
「無数にあっては見つける自信がありません」
「勿論、一つだって見つけることは容易ではない」
「無数にあるのにですか?」
「今、君が言った通りだ。見つけるにはたゆまぬ努力に加えて運の助けも必要だ」
「間に合うでしょうか? この場所にいる間に、間に合うでしょうか?」
「そいつは時の審判が決めることだ」
「最後は結局、審判が決めてしまうんですね」
「だから、堂々と胸を張ってミスをしろ」
「みんなはわかってくれるでしょうか?」
「当然だ。ここにあるのはミスで作られたゲームなのだから。ミスがあるからミラクルもあるのだ」
「ミスが主人公なんですか?」
「ではミスのないゲームを想像してみたまえ」
「無理です。僕にはとても想像できない」
「ミスがないピッチの上で、どんなドラマが生まれるだろう?」
「はい」
「どんなにレベルの高いゲームでも、ミスはついて回るのだ」
「つき人みたいなもんですね」
「猫に尻尾がついているようにな」
「犬にもありますね」
「君にはないのかね」
「あったとしても、もう思い出せません」
「人生にはかなしみがつきまとっている」
「コーヒーにミルクがついているように?」
「私はブラックでいい」
「サポーターの怒りの声が、まだやみません」
「チャレンジを認め、ミスを許す、これはそんなゲームだ」
「あの声が、監督には聞こえないんですか?」
「そう、心配するな。あれは応援の裏返しでもある。つまり愛だな」
「あれが、本当に愛なのですか?」
「よく見るのだ」
「恐ろしくて見ていられません」
「もっとよく見るのだ。サッカーをするということは、視野を広げるということなのだ」
「ああ、でも、とてもまともに顔を上げられない」
「見ていられなければ見ている振りをするのだ」
「そんなことをして何の意味があるんです?」
「ボールを持てば、王様にならねばならない」
「僕はとても弱くて、わがままな王様でした」
「弱くても強い王様を演じなければならない」
「演じなければならないんですか?」
「できなければできるように演じなければならない」
「僕にできるでしょうか?」
「王でもないのに王であるには演じずにいられまい」
「そこまで王だとは思っていませんでした」
「演じることは欺くことでもある。まずは自分から」
「足下の欺き以外、意識したことがありませんでした」
「演じるためには、体全体で演じなければならない」
「全身ということですか?」
「つま先から頭のてっぺんまでだ」
「全身をうそで固めるというんですね」
「その通りだ! 足先のうそは、すぐに見破られてしまう」
「うそは大きくつけと?」
「その通りだ! 未来の誠は、今日のうそから生まれるものだ」
「全身で大うそつきになれということですね」
「さっきからそう言ってるじゃないか!」
「はい。僕も念を入れながら聞いています」
「楽しくなくても楽しい振りをする。王でもないのに王の振りをする。その内に本当に楽しくなっていく。本当に王になっていく」
「そんなことが本当にあるんでしょうか?」
「自分が信じなければ敵を欺くことはできない。楽しいか?」
「楽しくて仕方がありません」
「さあ、プレゼントパスが届いたぞ。君は誰だ?」
「僕は王様です!」
「いったいどこの王様だ?」
「ピッチの中の王様です!」
「偉いぞ、王様! お楽しみあれ!」
「僕は王様だ!」
「我々のチームはまだまだだ。チャンスは限られたものになるだろう。もっと先を見据えて戦わねばならぬ」
「僕は王様だ!」
「限られた少ないチャンスを自分たちのものにしなければならない」
「王様のお通りだい! 道を開けよ!」
「そして共に結果を手にしよう! 自信がチームを大きくするだろう」
「王様の夢は皆の夢!」
「結果オーライ! 頼んだぞ、王様よ!」
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