第7話 プレイ・ザ・ゲーム

「さっきは激しいチャージを受けたようだな」

「いつものことですよ。多少悪質な当たりではありました」

「大丈夫か? 随分長い間、倒れ込んでいたようだが」

「すぐ起き上がるには、衝撃が強すぎました」

「頭から落ちたからな」

「倒れている間、どこか別の場所に行っていたようでした」

「地獄の淵を見てきたのか?」

「とても高い場所でした」

「雲の上にでも上がったか?」

「僕はそこを離れたくはありませんでした。とても魅力的な玩具が目に留まってしまったからです」

「玩具売場まで行っていたのか? 子供たちに贈り物でも?」

「僕自身が子供でした。どうしてもそれが欲しかったのです」

「夢でも見ていたんだな」

「それを手にするまでは、どうしても離れたくなくて。それでそこに座り込みました。強情な犬のように深く腰を落として、テコでも動かない構えをして」

「よほど魅力的な玩具だったのだろう」

「でも、それを表現する言葉がまだありませんでした」

「子供だからな。それで犬のように」

「他に交渉の手段がありませんでした。実ろうとも実るまいとも、そうする他にアイデアがありませんでした」

「わからなくはない。だがその態度はただ大人を困らせるだけだろう。執念だけは伝わるかもしれないが」

「好きなものはずっと見ていたかったのです。本当は触れたかったけど、それは硝子ケースの中にあったのです」

「強固な守りの中にあったというわけだな」

「そうです。厳重に鍵がかかっていました。そうでなければ、手を伸ばし触れられたのに」

「カテナチオか。大人になるためには、あきらめを多く学ばなければならない」

「僕はどうしても離れられませんでした。そのままそこで死んだとしても」

「まだ天秤が未熟なんだな。それが子供らしさでもあるのだが」

「離れないつもりでした。そうした時間が長く続けば硝子の扉がいずれは開くことを、どこかで期待していたのかもしれません」

「期待通りにはいかなかったのか」

「母の声が聞こえてきます……」

 いつまで眠っているの? 起きないの? 調子悪いの?

 眠っているだけだよ。まだ早いんだよ。

 行きたくないの? 始まるよ。みんな行ったよ。

 違うよ。行きたくないんじゃなくて、ここにいたいだけだよ。

 いつまでもそうしているの? 何がそんなに嫌なの? 困らせたいの?

 全然違うよ。今が一番いいとこなんだよ。夢の邪魔をしないでほしいよ。

 違うよね。誰か呼びに来たよ。行こうって。一緒に行こうって。

 どこにも行かないよ。純粋でいたいから。重たくて瞼を開けないんじゃない。目を閉じて聴き入っているだけ。

 本当にそうしているのね。もう、知らないからね。お母さんだって、知らないからね……。

「心配かけたな」

「僕は干渉を大きく嫌うようになっていました」

「まあそういう時期もあるさ」

「それから考えられない強い力で僕の小さな体は引きずられていきました」

「どこへだね?」

「大人の世界へ」

「戦場に戻って来たんだな」

「自分を傷つけた大男が手を伸ばして上からのぞき込んでいます。僕はその手を取りました。父ではなかった」

「和解だな」

「手を取らないわけにはいかなった。僕はこの場所を離れたくはないのですから」

「終わったプレーを引きずらないのは良い心がけだ。審判のジャッジも妥当だった」

「まだまだ行きたい場所がありました」

「バイタリティーエリアだな。それでこそストライカーだ」

「誰にも干渉されない場所。ボール一つがあれば笑っていられる場所」

「ゴールがあればもっと喜ばしい」

「一つのボールから、すべては始まりました」

「まさに始まりとはそういうものだ」

「誰にも渡さないために、夢中でドリブルに励みました」

「ボール一つあればどこでも遊べるからな」

「僕はいつも一人でした」

「そうか」

「多くの技があることを本やテレビを見て知りました」

「近くに良いお手本はあったのか?」

「練習相手は身近に生えている木でした」

「木を相手に自分の技を試したんだな」

「はい。最初は目測を誤って木に奪われてしまいました」

「木はいつも自然体だからな」

「日々練習を重ねる内に奪われる回数は少なくなっていきました」

「木が学習することは難しいからな」

「はい。とても不思議な体験でした。ボールはたった一つしかないのに、僕が使える技の数は幾通りもあったのです」

「ボールは優れた遊具と言えるだろう。大地の上ではいつだって平等だ」

「大事なものでした。殺人現場に残された最初の手がかりのように」

「誰か殺されたのか?」

「いいえ。謎が生まれたのです」

「随分と複雑な技も試してみたようだな」

「ありとあらゆる技を試してみました」

「謎は解けたか?」

「いいえ。謎は深まるばかりでした」

「ふふ。サッカーはそれほど単純ではないからな」

「あらゆる技を自分のものにしたかったのです」

「不可能だな。意味のないことでもある」

「多くの木を前にして、とてつもなく難しいことだと悟りました」

「最初はみんな好奇心を抑え切れない」

「僕は無限フェイントを足下に抱きたかったのです」

「神様でもできないことだろうな」

「一つの技が次の技につながっている。一つの失敗の中に一つの閃きが隠されている。それはとても楽しいことでした。それは必要なことでした。すべての上達において」

「楽しみを見出すことは上達の近道になる」

「日々繰り返される失敗、閃き、改良の余地、ときめき、楽しいこと。けれども、学ぶこと、出会うことは、苦しいことでもあったのです」

「楽しいことばかりというわけにはいかない。何事も」

「僕がいつも触れていたもの、求めていたものは、抱え切れないことでもあるとわかったのです」

「一人の人間が到達できる場所は限られているからな」

「楽しすぎることはいつも手に負えないことなのです」

「そうかもしれないな」

「初めて人間を相手にした時、実際に使えるものは限られているということがわかりました。人間は木よりもシビアだった」

「人間は意思や欲望を持っているからな。そこが木との差だ」

「僕は多くのものを捨てなければなりませんでした」

「捨てなければ得られないものがあったのだろう」

「一つのものを見つけるためには、そうしなければならなかったのです」

「誰もが通らねばならない決断の道かもしれない。何か一つを本当に得ようとするならば」

「ゴールへとつながる一つのフェイントを自分のものにすること。それこそが何よりも重要でした」

「それは見つかったのか?」

「それほど容易なことではありませんでした。多くのものを手放したというのに……」

「一つの技を極めるのは簡単ではない」

「だけど、どうしても欲しいのです。しがみついても欲しいのです」

「まだ玩具売り場の前の駄々っ子のようだな」

「絶対に渡さない。これは僕の宝物」

「君だけのではない。そうして持っているとまたあの大男が当たってくるぞ」

「大好きだから近くに置いて見ていたいのです」

「それが許される時間がどれほどあるかな」

「見ていると触れたくなります。一度触れたらもう離したくなくなってしまう」

「私の目から見ればボールは君の足下から離れかけているように映る。極めて危険だ」

「大丈夫です。今は空気で触れているんです。風と心でキープしているんです。だから大丈夫です」

「何が大丈夫だ。その遊び心が危険だと言うんだ!」

「わかっています。危険なことくらい」

「リスクの少ないプレーを覚えろ。もっとシンプルにやらなければならない」

「僕たちのやっていることは、共有なんです」

「そうだ。ボールはみんなの勝利のために持たれるべきだ」

「本当にマイボールにしておきたければ、家から出る必要もない。ずっとボールを抱いて寝ていれば済むことです」

「そんなキープの仕方があるものか」

「そうです。そんなのはつまらない。だから、こうして敵の前にさらしているというわけです。さらして、さらして、キープしている。僕はそうしていたい。そうしてボールを見ていたい。みんなにもそれを見て欲しいんです」

「一瞬の油断が命取りになるぞ。ボールの主は一瞬で入れ替わるものだ」

「危険を好んで僕は家からボールを持ち出しました。みんなのボールである時、それは最も僕のものでもあるんです」

「君はそうして自分のテクニックを見せつけたいのか?」

「試したいのです。公園よりも多くの人がいて、木よりも厄介な相手の前で、自分を試したいのです」

「ここは遊び場ではない。敵にとって一番怖いプレーをしなければならない」

「怖いのは守られたボールではなく、どこへ向かうかわからないボールじゃないでしょうか」

「君のやり方はシャボン玉のように危うい」

「どういう意味です?」

「かみ砕いている時間はない。大男の足が迫っているぞ。どうするんだ?」

「見ててください。ルーレットです」

「よし、かわせ! 危ない! 肩が!」

「ああ! 回転が」

「かわし切れない! 回転力が足りない!」

「脚の間に木漏れ日が見える」

「そうだ! そこだ! 股抜きだ!」

「木の向こうに未知の風景が見えます」

「そうだ! そこへ飛び込んで行け!」

「ああ、犬だ。犬が入って来た」

「どうして犬が? どこの犬だ?」

「視野の外から犬が入って来ました」

「なんてことだ」

「審判の笛も無視して走り回っています」

「ここは散歩禁止区域だぞ」

「犬には勝てないや。どうすればいいんだ」

「水を飲め! ここで水を入れておくんだ!」


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