第8話 先生さようなら
二チームに分かれて黒板の右と左で競争が始まった様子を、開かれた本の遥か向こうで見ていた。
「好きなところに線を引きなさい」
迷いなく次々と引く者もいれば、恐る恐る何かを傷つけないように優しく黒板に触れる者もいる。
「五画!」
先生の指示に耳を傾けながら、みんなは決められた数の線を黒板に付け足す。
「八画!」
ある限りのスペースを大胆に使う者もあれば、あえて限られた範囲の中に自分の陣地を築くようにしるしを残す者もあった。線は徐々に複雑になり、何かのけじめが必要とされる時が近づきつつあった。僕の興味の大部分はそれでもまだ本の内にあった。
アンカーとして、ちょうどその日が誕生日だった僕の名前が呼ばれる。名前を呼ばれた後になっても、僕はまだ半信半疑の態度を崩さなかったし、すぐに席を立って前に行くような真似もしなかった。
(えっ? 僕なの?)
後ろを何度も振り返り、他に出て行く者がいないことを慎重に確認してから、ようやく黒板の前に進み出た。同時に呼ばれたもう一人の対戦相手は、とっくに目的地にたどり着き、月夜のうさぎのように黒板を抱きしめていた。
「全部つないでください」
先生の短い指示を迷わず受け止めた向こう側の世界では、もうチョークが走り出す音が聞こえた。
「どこ? 全体?」
僕はそのペースにまったくついていけず遅れを取った。先生は僕の質問にまともに答える様子はなく、ただ不機嫌そうに黒板の右上を指した。最初に説明した通り。恐らく最初に説明した通りだと思われるゲームのルールが三行ほど箇条書きにされてあった。
(三角形を作る)
三角形だって? 線の端と端をつないで三角形を作るのだ。ふむふむ。そうだ、三角形を作ればいいのだ。なんとなくわかり始める。先人が並べた準備の後を、アンカーがつなぐことによってちゃんとした図形を形作る。重要な役目を、与えられたのは僕だった。いい感じで、三角形が増え始める。勝つんじゃない? 勝っちゃうかも。要領をつかめば、三角形は面白いようにでき始めた。それどころか、終わりが見えないほどだった。いくらでも、できてしまうじゃないか。
(パチパチパチパチ……)
隣のライバルに送られる拍手。まだ鳴り止まない。戦いは終わった。僕はゆっくりとペースを落として、続きの三角形をつないだ。ルールから解放された後で、何かが載っているように肩の辺りが重たかった。終わりの合図をして欲しかったのに、拍手が終わってからも先生は敗者側の世界について触れることはなかった。誰も関心を向けることのない月の裏側で、僕はいつまでも終わることのない三角形を作り続けた。本を読んでいたからだ。一ページ分だけ、僕は遅れていたのだった。
誤解を解きたかったけれど、前で話しているのはもはや別の先生だった。敗戦の黒板から引き返す足取りがあまりにも遅かったので、その間に入れ替わってしまったのだ。今はもう国語の授業が始まっていたけれど、頭の中に入って来る言葉は、何もなかった。
(勝てたんじゃないかな)
くたばれ! こんちくしょう。
くたばれ! この野郎。
とっととくたばっちまえ!
叩いた瞬間大人しくなったように見えて、すぐに元気に立ち上がってしまう。こんちくしょう。一瞬大人しくなるのは、見せかけなのか。一層力を込めて、叩きつける。ダメージを受けているのではなく、むしろ力を吸収して、喜びを蓄えているようでもあった。
「もっと!もっと! 叩いてよ」
「僕の憎しみが通じないのか?」
「関係のない憎しみが通じるものですか」
「関係ないだと?」
確かにモグラそのものには、少しの憎しみもないのは事実だった。
「あなたは私を叩いているのに、少しも私の内側を見てもいない」
「うるさい! 黙れ!」
首をへし折らんばかりに叩きつけた。いつの間にかモグラたちは増殖し始めており、穴のないところからも仲間を押し退けるようにして、若いモグラが湧き出ていた。
「ぼくも! ぼくも!」
ああ、これはモグラなんかじゃない。
龍の仲間だ。
煙草をくわえたらどこからともなく火が飛んで来て燃え尽きそうな真っ白い鹿になった。物珍しそうな目を向けながら、人々は足を止めて物語や日常の断片を投げつけて来る。
(与えないでください。決められた餌があります)
文字のかすれた貼り紙の効力は既に失われてしまっている。
「逃げようか?」
「いいえ、結構。どこに行ったところで一緒だから」
投げて、投げつけて、お前にくれてやるって放り投げられる欠片。ふっ、食えねえよ。どれだって食えたもんじゃない。だって、僕らは人間育ちだろ。どうしてこちらから逃げないといけないんだ。燃え尽きるまで、逃げてやるものか。
「さあ、お食べ」
優しいつもりか。少しも有り難くなんかないんだよ。投げて、投げて、投げつける。もうそのマヌケな顔は見たくない。ろくなもんじゃないね。このお節介野郎共。欲しがってないのがわからないのか。また投げて、投げて、投げつける輩。しつこい投げ手だ。いらないって言うの。他に投げるところはないのか。
檻の前に投げ捨てられた、物語の飽和。
夜の霧の向こうから、お腹を空かせた犬がやって来る。
「ふっ、食えやしないね」
だよね。
カップをのぞき込むとコビトが風呂に入っていた。
「あんたが忘れている間に、別の意味を作ってやったよ」
「僕のコーヒーだぞ!」
忘れていた時間なんてない。ただ他のことを考えていただけだ。
「ここは僕の風呂だ! あんたもそう思ってるんだろ」
「おまえが勝手に解釈を変えたんだ!」
「昔の話はよせよ。ここは僕の風呂さ。なぜなら……」
コビトは悠々と肩を沈めたまま、勝手な持論を展開した。
「あんたが口をつけたのは何回だね?」
「それがどうした? 覚えていない」
覚えていたとしても、それは数えるほどのものでもなかった。
「それよりも遙かに多く、僕はここでため息をつき、世の中のことを憂い、ぬくぬくとした幸福な時間を過ごしていたということさ」
「だが、元は僕のコーヒーのはずだ!」
まだ正論にしがみついていたかった。
「また昔の話かい。かわいそうな人だな」
「正しいことを言ってるだけだよ。僕は何も忘れたわけじゃない」
「甘いね。いつまでもコーヒーのままでいると思った?」
コビトの言い分を聞いている内におかしくなった。今ではもう、湯船にしか見えなくなっていた。
「当たり前だろう」
力ない言葉が、口先から漏れた。
「あんたは安心しすぎたのさ。戻りたいかい?」
「ああ。そうできるならね……」
「僕の背中を流してみなよ。さあ、そこにおしぼりがある」
三角地帯はもう今は映画館になっていた。熊出没のアニメか暴走列車かゼロ戦の映画かを決めなければならず、迷った末にゼロ戦の映画に決めた。ゼロ戦の翼の上で跳ねたり、翼の下に隠れたりしながら、僕は時々教室に戻ってみた。
教室の中はすっかり閑散としており、先生と先生が机を挟んで向き合って授業をしていた。教科書の中身や、話している内容まではよくわからなかった。歴史の授業らしいことは、何となく一人の先生の髭の様子でわかった。長い長い川を越えて、再びゼロ戦は飛んで行く。操縦士は、とうとう最後まで姿を現さなかった。
「映画はどうですか?」
映画を見終えたばかりの僕に、パンフレットを手渡す男。今度は、何の授業に変わっているだろうか。微かな期待を抱きながら、教室に戻った。
「もう八月になったので、授業を終わらないと」
そう言って先生は教室の明かりを消した。
まとめの言葉を、僕は待っていた。
「何をしている?」
もう一人の先生が言った。
「終わったら帰りなさい」
もう一人の先生が言った。
教科書代わりのパンフレットを手にし、足元に気をつけながら教室を出た。
月明かりが、道に淡い三角形を描いていた。
(先生さようなら)
三角形の一辺を歩きながら、もう一度あやまった。
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