第9話 ゾンビ・ゴール
メールの登録がまだですとの通知を受けて病院に向かった。深夜にも関わらず、手術室には大勢の医師やスタッフがいて難しい顔をして立っていた。勇気を出してアドレスを持って来たことを伝えた。
「自分の時間にしてください」
「でも、至急の連絡が届いたんです!」
だからこうして来たんです、と必死で主張するとなんとか認められた。看護師さんが用紙を持って来て、椅子も用意してくれた。手術は一旦休憩に入った。テレビではギャグ王を決める試合が行われていた。
「ここに名前、住所、家族、休日の趣味、座右の銘、好きな芸能人、将来の夢、生まれ変わったらなりたいもの、血液型、特技、今一番会いたい人……」
「僕はメールアドレスを書きます!」
門前払いされそうになった不満が、まだ少し残っていた。僕は強い口調で宣言した。そのために来たのだから、それは当然のことだった。
「時間以内にお願いします」
冷静になって、頭の中で長いアドレスを構築する必要があった。アナウンサーが優勝候補の思わぬピンチを伝える声が、手術室の中に響く。無名の新人選手が驚異的なスコアを出したことによる波乱の予感。
「何か食べていく?」
別の看護師が優しい言葉をかけに来てくれたが、すぐにその申し出を断った。いい人もいるのかもしれないが、基本的にはみんな敵である。
「何も食べないつもりね」
不機嫌な態度を責めながら、女は去って行った。傷ついたプライドは、簡単には元には戻らないものだ。
ピー………………………………………………、
誰も見たことのない動きに、ざわめきが起こる。少しずつ笑いの波が起きるとすぐにそれは会場全体に広がって、抑え難いものとなった。最も冷静な審査員までも、もはやクールな表情を保つことができなかった。最期の時を扱った渾身のギャグが、奇跡の逆転を生もうとしていた。
僕はメールアドレスを書き終えたが、すぐには受理されず、スペルの確認が必要だという。
「Nですか、Hですか? Nにも見えますが」
「Hですよ、それは」
「もう一度、清書してください」
まるで嫌がらせのようだった。気を取り直し、今度は一切の物言いがつかないように、完全なスペルを用いて書き終えた。その頃にはもう難しい手術が再開されており、手術室は高い緊張の中にあった。
「できました!」
ついに僕は自分の仕事をやり遂げた。
「時間切れです」
冷たく看護師は言った。本当はできていたのに、途中で邪魔さえ入らなければ、できていたのだ。ここまで来て、アドレスを持ち帰るわけにはいかなかった。ここまで来て……。何とか受理してもらえるよう、訴えた。
「今は君の時間じゃない!」
中心的医師が厳しい口調で言った。手の中にあるメスが、まっすぐこちらを指していた。
どうして最初の提出で合格できなかったのだろう。反省を踏まえて、頭の中でもう一度アドレスを整理した。警察署前の石の上に座って、ノートを開いた。敗北感を紛らわせるために、美しいスペルで完全なアドレスを書き上げる練習をするのだ。中から警官が出て来ると、こちらに近づいて来た。
「肩をもんでやろう」断ったらどうなるか、わかっているか……
僕は立ち去ろうとして、鞄を取った。向こうの方に人集りができているのが見えた。肩もみを拒んだ男が、警官に取り囲まれて殴る蹴るの酷い目にあっていた。
「見せしめだ!」
「知らしめろ!」
逃亡することの愚かさを学び終えた僕は、即座に作戦を変更した。逃げるのが地獄なら、自ら近づいて行くまでだ。
騒ぎの中心に向かい、僕は歩いて行った。
(肩が凝っています!)
声を張ろうとしても、空腹のあまりまるで声にならなかった。この叫びに、今夜の命運がかかっている。どうしても、出さなければ……。
「僕は、肩が凝っています!」
三度目でようやく声になった。その調子、その調子。
声に出して、自分を守らなければ。
学校の上を飛び回っていたが注目をあびることはなかった。人々の関心は、今から始まる球技の方に向いている。遠く地上を離れてはいたが、僕は選手たちの声をすぐ耳元で拾うことができた。
「人は呼ばなかったの?」
ミイラが言った。
「誰か入れればいい」
ゾンビが答える。けれども、簡単に味方の見つかる日ではなかった。みんなそれぞれ自分の役回りに忙しい。
ゲームはそのまま始まり、五人対二人の圧倒的不利な戦いを強いられることになった。
始まりと同時に数的優位を生かした激しいプレッシャーがかけられる。苦し紛れにミイラが蹴り上げたボールは、ゴール正面に落ちる。最初に追いついたのはゾンビだ。ゾンビは全身で激しいフェイントを入れながら少しずつ少しずつ、ゴールへと近づいて行く。妖しすぎて、誰もアタックする機会を見つけられない。人魚も、河童も、雨男も、宇宙人も、延々と距離を詰めるばかりで、最後の一歩をどうしても踏み出すことができなかった。打つよ、打つよ。いつ打ってもおかしくなく、いつ打ってもおかしくも思える。傷だらけのフェイントは、数的優位を誇る守備陣をただ目立ちたいばかりの寄せ集め集団に変えてしまった。
ついに、間違って当たってしまった、という風にゾンビはシュートを打った。妖しい光に乗ったシュートは、異世界の住人たちの足元をすり抜けて、最後の守護神の正面に飛んだ。吸血鬼の顔面に当たって跳ね返ると、もう一度、ゾンビの足元に引き寄せられるように戻って来る。喜びながら、舞い上がりながら、ゾンビは強く足を振った。当たり損ねて、ボールはカンガルーのように弾んだ。飛び出して来た吸血鬼の鼻先をかすめて、ゴールマウスに吸い込まれる。ネットが、柔らかく抱きとめる。
「ゴール!!!! !!!!」
起死回生のゴールが決まる。
ゾンビとミイラはハイタッチを交わすが、すぐに表情を引き締めた。(これから先の方が大変だ)
ミイラは、たった一人で駆け回って、時には自らの体を解体させるような仕草で、攻撃陣に必死のプレッシャーをかけた。河童と肩で競り合った後に、雨男が降水確率を導き、宇宙人がノールックパスを出した時には、もうへとへとになっていた。人魚のしなやかな尾びれが、ダイレクトに振れた。一瞬、雲の行方に気を取られたゾンビが、辛うじて拳で弾いた。
「ごめん!」
宇宙人のショートコーナーから河童はダイレクトで、雨男にパスを出す。ミイラのプレッシャーは間に合わない。雨男の放ったシュートは、大きく枠を外れる。敵にも焦りがある、と二人は妙な自信を覚える。クリアに次ぐクリアこそが、ミイラとゾンビにとっては攻撃だった。ゾンビのループで得た唯一の得点を守りながら、時は過ぎて行った。
ゾンビはクロスバーの下で、笛が吹かれる時を待っていた。
(早く、早く吹きやがれ)
ファール覚悟でアタックして行くミイラの体を、宇宙人は世界一のステップでかわして、スルーパスを出した。フリーで待つ人魚の前に、パスは届きそうだ。遅れて飛び出して行く、破れかぶれのゾンビ。決定的な場面を楽しむように、人魚は笑みを浮かべている。河童は皿に手を当てる。ようやく降り出した雨の中、狼男は牙を光らせながらエールを送る。ミイラは湿った芝の上に倒れたまま、動かない。ゾンビは謎の言葉をかけて誘惑した。人魚はそれでも笑みを浮かべたまま、機会を窺っている。そして、アンドロイドが、笛を吹いた。
「勝った!」
会場はどよめきに包まれた。
ゾンビは長く、勝利の余韻に浸っていたかった。魔法がとける時間が迫っていたのか、みんなの足取りは予想以上に早かったようだ。うそで汚れた体を洗い流して、南瓜のバスに呑み込まれて行く人々の前で、ゾンビはまだ傷だらけの勲章を惜しむように自分を守り続けていた。
「ナイスゴール!」
ミイラだったはずの相棒が、肩に鞄をかけながら別人の顔で通り過ぎた。ゾンビは唇を噛みしめながら、笑った。
磨き抜かれた僕の飛行技術は、愚かなゾンビのフェイントや異世界の住人たちのいかれた球遊びのせいで完全に無力化されてしまった。誰も僕のことを蝿のようにしか思わないし、特に危害を加えない限り、首を振って関心を寄せるような者もいないのだった。南瓜のバスが大人しく去って行くのを、遠く離れた空の上から見送っていた。
(みんな行ってしまえばいいんだ)
旋回し、風に乗って上昇する。また少し上まで行ける体になっている。遥か下方に、美しい緑が広がって見え、その中心には人工の建造物のようなものも認められた。謎の集落を発見したに違いなかった。あそこに行けば、今度こそ驚きを持って迎え入れられることになるかもしれない。きっと、まともな人たちなら、関心も、驚きも、優しさだって持ち合わせているはずだ。激しい胸の高鳴りの中で、浮力を落として徐々に高度を下げた。狂ったゲームは、もうたくさんだ。あそこに行けば、あそこに行けば……。
自分は何を見ていたのか。中心はそう遠くないところにあった。人の気配なんてありはしない。あるのはただ、人の残した生活の残骸だけだ。異臭を発する穴の中に、僕は落ちて行く。落ちて行く、落ちて行く。浮力は戻っては来なかった。もう、今はゴミと一緒。
(もう少し、夢見ていたかったのに……)
苦い失望に引かれながら、どこまでも、落ちて行く。
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