第7話 野生の目

 海底では種々のボディ・フェイントやシザーズを駆使して、凶暴な魚たちの網にかからないように動いた。幻惑的なシザーズを高速で繰り出す時、そのトリックにかからない外敵はいなかった。時には、自分自身でその動きにみとれ、惑わされてしまう場面もあった。けれども、多くの魚たちが集団で迫る領域を抜けて行く時、体力を多く使ってしまった後では、得意のシザーズを繰り出すことは困難だった。低速のシザーズでは、劇的な効果を期待することは望めず、下手をすれば最初から読み切られてしまうという危険も否定できなかった。本能的に動き始めるボディ・フェイントが、幾度も危機的状況を救ってくれた。それは遠い日に身につけた基礎的な動作で、脳の指令より早く動く。コーヒーよりも深いミルクのようなものだった。

 まだ体は揺れ続けていた。とっくに彼らを断ち切ったことは、頭ではわかっていたけれど、まだリズムは強く体内深くに残ったままだった。

「あの人、まだ鱗をつけてるよ」

 深海から飛び出すには強いエネルギーを必要とした。地上の空気に慣れるには、長い時間も必要だ。

「もう七月なのにね」

 心ない言葉が上から響く。




 信号に近づいたところで、雨が降り出した。薄暗い横断歩道を一っ飛びで越えた。近道をしようとして道に迷った。行き過ぎたのか、行き足りないのか、不確かな内に住宅街の中に入り込んでいた。泥棒の足取りに似ているようで、自分が怖かった。気がつくと神社のような場所に来ていた。自分の家の近所に、このような場所があるとは知らなかった。細くひねくれた階段を上って行く。近道をしようと考えたばかりに、不安の深まる道にはまり込んでしまった。不安定な足下は、それがゴムの階段であることを示していた。気づけば随分と高い場所まで来ていて、見下ろすと恐怖が湧いた。その時、明かりのついたあの窓の向こうから、誰かが見ていたとしたら……。何かよからぬことを考えている人に映るだろう。そして、もう一度下を向いたら、本当に危ないことを考えてしまいそうだった。

 雨は上がっていた。突然、視線の先に見覚えのある看板。ゴムの階段が脚に絡みついて、記憶を引っ張ろうとしていた。居酒屋か、パチンコ屋だったか。あの無駄に持て余した明るさは。絡まるゴムを解いて、どうにか脚を引き抜く。階段を戻る脚が震える。階段も一緒に震える。近道を目指したのが、愚かだった。大通りから、見慣れたところを経るべきだったのだ。こんなところで失敗したくない。輪になった階段から階段へ、乗り移る途中で脚の震えは尋常ではなかった。もう心底嫌になった。

(ああ、面倒くさいな。自分は……)

 そう思うと不思議と緊張は和らいでいた。

(大丈夫じゃないか)

 たかが階段を下りるくらいのこと。




退屈なゲームだった。何もない空間の中で、誰もいない。悪者も、話し相手も、謎も夢もない。どこに行っても行き止まりで、ファイアーボールに触れる度に、命を失った。何度も死んで、また生かされることで、退屈が始まる。目的のゲームの中に置き去りにされることに、一つでも意味はあったのだろうか。

 退屈なゲームが延々と続いていた。続いて行くということ自体が、もはや退屈の中に溶け込んでおり、どこにも出口は見当たらなかった。僕は破れかぶれでシロクマをジャンプさせてみた。長い闇の中に入った。世界が壊れてしまったのだとしても、今までと違う感触を得ただけで、十分それは心地よいものでもあった。今まで一度も足を踏み入れたことのない洞窟の中に、シロクマは着地した。

 新しい退屈の始まりかもしれない。けれども、池の中にあるものを見つけた瞬間、その考えは覆された。最新式の巨大望遠鏡が浮かんでいたのだった。シロクマを跨がらせて、操作を学習させた。不器用なクマに機器の扱いを覚えさせることは容易なことではなかったが、困難な課題が生まれたこと自体が既に喜びだった。何もなかった頃に比べれば、困難など何でもない。そして、ほどなくクマは結果を出した。何が変わったかと言えば、遠くの世界が見られるようになったこと。依然としてどこにも行けないことに変化はないとしても、遙か彼方の世界を知れるように変わったのだ。

 触れれば触れるだけ、クマは上手くなって行く。横顔には自信のようなものが加わっている。突然すべては変わり始めた。もう、退屈なだけのゲームではない。




 夜明けは窓にトカゲが張り付いていた。それをきっかけにして、窓の外に目を向ければ、多くの野生が、すぐそこまで訪れているのがわかった。コアラが、そこまで来ている。光る目。あれは何か。何であれ、何も入って来られないように部屋のすべてに鍵をかける。目の光に遅れて輪郭を捉える。あれはシマウマだ。あれは緑の、何かだ。

「緑だって? シマウマだって?」

 父が疑いの目をこすりながら、どこからともなく起きて来た。確かにシマウマだと言っても、まるで信じようとしない。僕の言葉を信じられないなら、世の中の何を信じられるというのだろう。

「ねえ、よく見てごらんよ」

 トカゲのそばまで近寄っても、父にはまだ真実が見えないようだった。こうなったら仕方がない。僕は窓を開けた。

「ほら、ね」

 ガラガラという音に驚いて、何かが逃げ出した。駆けて行くに従って、それは野性味のない青年の輪郭に変わった。父の目が好奇の輝きを持って、逃げて行く背を追っていた。シマでもない、柄のシャツを着た青年だった。

「なんだ、人か」

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