第6話 最終目的

 壮大な青の中からゆっくりとこちらに向かって来るものがあった。何かの意思や命令に導かれているかのように、確実に向かって来る。本当に「来る」と思えてからは、加速をつけて接近して来た。海を越えて渡って来た、赤い風船。

(なんて大きい)

 硝子窓に当たり、跳ね返って屋根まで舞い上がった。木枯らしが木々を打つような鈍い音。テレビアンテナに絡まってそのまま引きずり下ろした。その瞬間、画面は砂嵐に変わった。

「さよなら、テレビ」

 チャンネルを変えてみたが、どのチャンネルも肩を並べて砂嵐を流し続けていた。アンテナが、すべてのドラマを、クイズを、ドキュメンタリーをキャッチしていたことが、改めて証明された。振り返ってみれば、自分の時間を割いてまで見るべきものが、どれほどあったかわからなくなる。大家さんに、事故(事件)のことを報告しておいたが、風船の大きさについて、過小評価されたように思えた。

 テレビのない世界で、自然に触れ、自分を見つめながら時が過ぎた。

 再び海を越えて、風船は流れて来た。今度は、三つ同時に。窓に当たり、屋根まで跳ねて、絡みつく目的のアンテナなどはなくて、そのまま庭に落ちて、次々に萎んだ。急いで庭に出ると、その内の一つを動かぬ証拠として確保した。それからすぐ男たちが庭に駆け込んで来た。萎んだ風船に向けて、シャッターを切った。金属製のケースの中に二つの風船を回収し、それから屋根の方を見上げた。なんて礼儀知らずな。

 僕は庭に下りて、異国の言葉でアンテナの被害について訴えた。

「そんな馬鹿なことがあるか!」

 男たちは、真っ向から反論してきた。礼儀知らずで我が強い。

「証拠があるぞ!」

「それならこちらに渡せ!」

 即座に強く証拠の回収を望んだ。それこそが責任を自覚している、何よりの証拠じゃないか。誰が渡すか。すぐに大家さんに連絡してやる。

「待て! 誰と話している?」

 外国人たちは、早口で悪態をついた。証拠の回収をあきらめて、庭を後にした。とても納得はいかないが、深追いをするのは危険すぎた。




 電車はカーブにさしかかり、その分だけ揺れた。

「写真が落ちてるよ」

 抱えすぎたせいか、色んなものが零れ落ちていた。

「大変そうね」

 いつの間にか彼女は、近くにいた。いつの間にか、向き合って座り、言葉を交わしていた。

「家族の?」

 家族のもあり、自分だけのもあった。猫を追ったものも多かったし、狂ったように空と雲ばかりに執着していた頃もあった。

「これは誰かな?」

 クイズを出すつもりはなかったが、意図せずそのような形になってしまった。ハットを深く被っているのは、父が撮った僕だった。少しぼやけているところが、ちょうどよい。何か言いたげに口を開けて、生意気だ。

「この子たちが親戚の子たちね」

「これはたまたま写り込んだだけの。関係ない子」

 人懐っこく微笑みかけている。見知らぬ子も、今ではもう子供ではなくなっているのかもしれない。

「色々と大変ね」

 旅をするには自分を保つための持ち物が必要だし、旅先で手にする新しい物にも、すぐに愛着は生まれてしまうから。何かを捨てたり、置いて行くことも、抱え続けることにも、苦労はつきまとう。

「喉が渇いてしまうしね」

「今ならコンビニがあるよ」

 山田商店や林商店、田中商店や吉田商店といった店舗に入り込んで、古い地元の人の声を聞くこともあったが、コンビニにいるのはもっと若い店員が多かった。 

 いつの間にか、彼女が小さなポカリスエットを手渡してくれていた。優しい人だ。きっと、優しい人なのだろう。声を聞いている内、そんな気がしてきた。

「東京には長くいたよ」

 実際にはそう長くもなく、いたのは横浜だった。

「そうなの」

「路線もわかる」

 自分の通ったルートを知るだけだった。

「君は?」

 彼女の旅の行き先が、突然気になった。けれども、僕が訊いたのは、見知らぬ町の名よりも、もっと核心に迫る場所だった。

「君の最終目的は?」 

 初対面の人に、問いかける言葉ではない。古い写真を引っ張り出して、雲の形について話した方が、遙かに遙かにましだった。もう遅い。

「喫茶店」

「喫茶店……」

 それから長く間を空けてしまった。まるで、何も言葉が出て来ないというように……。彼女はすっと立ち上がり、行ってしまった。最初から誰もいなかったように、無人の席がずっと目の前にあった。

 彼女が置いて行った、ポカリスエットをずっと飲み続けた。言葉は、なかったわけではない。むしろありすぎて迷っていたのに。一番いいものを、見つけたくて楽しんでいたのだ。

 僕も「喫茶店」が好きだった。だけど、もう「好き」を語る人は消えてしまった。




 意識の外壁にある鍵を探しに行くためのあくびだった。尾を引くあくびの向こうに、自分でも忘れていた大事な何かが眠っているのかもしれない。自分は頼りなく、信頼性にも欠けていた。けれども、その向こう側にあるもの、自分の知らない自分なら、少しだけ希望を持つことも許されるように思えた。自分自身はちっぽけな存在だとしても、その中には宇宙の誕生へと続く秘密の道が隠されているのかもしれない。

 僕は次の次に降りるつもりだ。次の次、次の次、次の次……。忘れないように何度も唱える。カーブにさしかかり、ほんの一瞬明かりが消えたと思えたのは、自身の瞬きだろうか。一つあくびをする。長いあくびの尾に、もう一つのあくびが噛みついて、新しい口を開ける。犬も、隣のパンダも、その隣のシマウマにも……。種を超えてあくびは伝わって行った。そこにいるもの、その隣にいるもの、その空間にいるもの、目にしたもの、音を聞いたもの、気配を感じたもの。誰であろうと、あくびへの関わりを拒むことはできないようだった。名もない人から始まった小さなあくびは、抗し難い魔力的な感染力を帯びて、猫からトカゲへ、亀から博士へ、老婆から子供へ、木から花へ、とめどなく大きな広がりをみせて行った。生き物のすべてが、眠ることへの飢えと誘惑を持ち合わせていた。車窓の向こうに流れるものに、気を取られた隙に次を見失ってしまう。次だろうか。次の次は、もう次になったろうか。ドアが開く。ドアが閉じる。

「次は終点、夏休み中央」

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