第5話 ラジオジャック

 ピアニカの音がするのは本当なら三年生になる女の子が悪い魔法使いによって今は虎みたいな猫にされながらもミの音を出そうとして闘っているからだった。音楽に憧れて、一つの曲が認められたら、本当の自分に戻れるかもしれない。微かな道筋を夢の中に描きながらも、まだ駆け出しの音階に触れたばかりだった。もしもミの音一つ、上手く出すことができたなら、そこからきっと恋の季節を歌い切ることもできるかもしれない。あきらめずに、何度も唇に触れる、夏の空気の出発点。どこか遠くで鳴り響く、高い金属音。

 セカンドが倒れて、ショートがカバーに入る。ファーストがオニオンを食べて、ショートがカバーに入る。ライトが光のリバースに呑まれて、ショートがカバーに入る。外野が泡と弾けて、ショートがカバーに入る。監督がビッグクラブに引き抜かれて、ショートがカバーに入る。色んなものが、色んな事情でポジションを空ける。その空間をいち早く見つけ出して、カバーに入る。そんな動作を繰り返し守備範囲を広げて行くショートの職人技を、猫はベンチの下に潜みながら見て覚えた。ある激しい交通渋滞の夜、猫はまんまとスタジオに入り込んで席に着いた。


「続いて雨上がりの小皿さんよりのリクエストです」

 そつなくDJを勤める猫に緊急事態が発生した。リクエスト曲の音源が見つからないのだ。スタッフの不手際か、あるいは新手の嫌がらせかもしれなかった。

「まだまだ夜は終わらないぜ」

 上手く間をつないでいる内に、発見されればよいが。猫は不安を声に出さないように注意した。オリジナル音源の代わりに、やむなくオルゴール・ミュージックが流されることになった。一番が終わったところで、雨の一夜は一層寂しさを増したように思われた。猫はオルゴールを背中につけて、歌い始めた。サビの部分を力強く歌った後で、詞が飛んでしまった。ラララ、ラララ。しばらく、猫はメロディーを追って口ずさんでいた。曲は途中で終わった。

 疲れた足を引きずって見知らぬ街を歩いた。体はすっかり冷え切っていて、暖を取らなければならなかった。古風な喫茶店に入ると恐れていたようにテーブルは低かった。少し前屈みになりながら、僕は自分のやるべきことに夜を使い込んだ。集中することで違和感は消えている。不自然な姿勢は必ず後から響いて来ることが、経験上はわかっていた。周りに座っている人は、みんな顔見知りのようだった。誰かが急に、席替えをしようよと言った。「夜も深まったしね」関係ない。夜が深まったから、何だと言うのだ。静かに打ち込む気配を作ることで、拒否の姿勢を示そうとした。けれども、僕はインテリアの一部に最初から取り込まれた存在に過ぎないのだった。多数決の正当性に流されるまま立ち上がらなければならなくなった。不名誉な形で、夜が取り壊されて行く。ファストフードにしておけばよかった。強い後悔。ささやかな冒険の果てに、自分の席も守れないとは……。

「君、そっちを持って」


「二十三時のラジオジャック。まだまだリクエストも愛も足りないぜ」


 ゆっくり眠るために僕は熊への転身を選んだ。誰にも咎められることなく、ゆっくり眠るためには他に道はなかった。突然叔父さんが亡くなったとか、高熱が出たなどと言い訳を並べて、罪悪感の毛布に隠れ込むのはごめんだ。あらゆる犠牲もよしとしよう。捨てるのではなく、ただ選んだのだと強く信じたかった。中断されない夢が描かれる時、夢と現実はひっくり返るのかもしれない。いつまでも、いつまでも、眠っていたいのだ。

「くまちゃんハウスだよ」

 大御所の声が響く。あとから黄色い歓声が広がった。すごいね。眠ってるの。ずっと眠るの。食べないの。起きないの。すごいね。大きいね。まだ眠り続けるの。食べないの。ひとりなの。聞こえないの。思ったより大きくないね。すごいね。眠っているの。

「さあ、みんな。よく見ておくんだよ」

 すごいね。初めて見た。寝相がいいね。聞こえないの。食べないの。邪魔じゃないの。どうして眠るの。いつから眠っているの。まだまだ眠るの。ねえねえ聞いてみて。あなたが聞いてみて。気持ちよさそう。お利口さんね。すごいね。眠ってる。食べないの。どこから来たの。ずっと眠っているのね。

「あまり騒いだら駄目だぞ」

 だめなの。すごいね。聞こえるの。起きちゃうの。大きいね。食べないの。いつ起きるの。まだまだ眠るの。だめなの。どうしてだめなの。本当に眠っているの。深く眠っているのね。

(眠れないさ)

 起きているさ。いいように言うな。眠ってばかりいられないさ。うるさいんだよ。みんな聞いているよ。お節介共が。見せ物じゃないんだよ。

(早く帰れよ)


「二十三時のラジオジャックは魔法に慣れた生活者のためのファンタジーラジオ。いつまでもおると思うなよ、親と俺」


 階段を下りると腐敗は始まりかけていた。

「暑いところに置いておいたら駄目じゃないか」

 暑くないと即座に母は否定した。

「いつから置いてあるの?」

「いつからってあんた……」

 不条理な問いが発せられでもしたように、母は不機嫌そうな顔をしている。

「夏の最中に」

 夏じゃないと母は季節をも完全に否定してしまう。そんな力が、どこにあると言うのだ。少なくとも、夏は夏じゃないのか。

 食卓前には父も座っていた。

「食べない方がいいぞ」

 やはりそうか。鼻を近づけると予想の通り嫌な匂いがする。台所の流しの一角に持って行くと一気に捨てた。

「一気に捨てなくても……」

 母が捨て方に文句を言った。一気も何もない。捨てるとなったら、もう容赦などいるものか。捨てるか、捨てないか。そこですべての決断は済んでいるのだ。そして、何も食べるものはなくなった。

 空腹な足は再び台所へと歩き、上半身はラーメンを作り出した。

 丼に移した時には、もう秋だ。突然、吸収が始まった。スープが恐ろしい勢いで、すべてを吸い込んで行く。箸をつけても、つけなくても、お構いなく、吸収はどうにも止められない。ラジオがどんどん大きくなって行くが、吸収に呑まれてスイッチは見つけ出せない。レット・イット・ビー。

「うまそうだな」

 下りて来た父が言った。

 テーブルの上にはカルボナーラ。


「二十三時のラジオジャック。まだまだまだまだ夜は続くぜ。

誰に求められたわけじゃない。だけど誰にも止められないのさ」

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