其の三

 彼女・・・・鳳時子ほう・ときこは、北千住の、なんてことのない鉄筋三階建ての四角いアパートに住んでいる。


 いや、『』と表現した方が正しいだろう。


 すぐ隣に住んでいた大家の元を訪ねたところ、もう1カ月も前に引き払ったとい


『問題も起こさないし、家賃も毎月きちんと収めてくれたし、ゴミ出しも守って、町内会の掃除も嫌がらずに出てくれてたよ。ただねぇ』


 大家の婆さんは少しばかり声を曇らせたが、


『ただ、なんて言うのかしら。ちょっと寂しげなところがあってね。余計な口は聞かなかったよ。』

『人が訪ねてきたことは?』


『ああ、来てたよ。それがさ・・・・あんまり目つきの良くない連中でね。いつも車に乗ったまま家にはいらないで、一人が双眼鏡であの娘の家を見張っててさ。この辺りは住宅街って言ってもあんまり車の通りも頻繁じゃないもんだから、別に迷惑って訳じゃないんだけどね。気味が悪いだろ?警察に何度か電話したんだけど、パトロールが来る頃には何時の間にかいなくなっててさ。あれは日本人じゃないね。外国人、東南アジアかアフリカか、どっかそっちの方の人間だね』


婆さんの話はまだ尽きそうになかったが、俺は適当に『有難うございました』といって話を切り上げた。


 次に向かったのは横浜、つまりは彼女が勤めていた貿易会社だった。


 住所は元町、港の見える丘公園のすぐ近くの古びた貸しビルの6階。


 お世辞にも立派とは言いかねる構えの会社だった。


 俺は6階まで階段を踏みしめながら上がる。


 俺は殆どエレベーターは使わない。


 あの狭い空間に閉じ込められるのがどうも好きになれないのと、足が鈍っちゃいけないという、まあ自分なりの克己心からだ。

(嗤いたけりゃ嗤えよ)


 かび臭い階段を上がると、6階にその会社はあった。


『東邦貿易株式会社』

 

 

 という古びたプレートが出ている。


 ドアをノックした。

 

 応答はない。


 もう三度叩く。


 やはり応答はなかった。


 俺はノブを握り、ゆっくりと内側に向かって開いた。


 室内は1960年代の日本映画に出てくるオフィスそのままと言った体で、静まり返ってはいたが、嵐が一気に通り抜けたように散らかっている。


 人のすがたはまったくない。


 いや、正確には


 オフィスの一番奥にあるデスクに、一人の頭の禿げた五十がらみの男がつっぷしていた。


 近寄ってみると、頭部からは少し血が流れていた。


 脈を確認すると、まだ少なからずあるようだ。


 男が何か呟いた。


『何だ?何があった?』


 俺が呼びかけると、男は細くかすれたような声で、


『ヤ・・・・ヤシャ・・・・危ない・・・・』そう呟いた。


 四の五の言ってる暇はない。


 俺は机の上の電話を取り、急いで119番と110番にかけた。



 直ぐに警察とパトカーがすっ飛んできた。


 神奈川県警横浜南署の機動警邏隊の隊員は、俺がライセンスとバッジを見せて探偵だと身分を明かしてもなかなか信用せず、しかも1カ月前のあの事件を覚えていたんだろう。


 挙句は銃創があるわけでもないのに、俺が犯人じゃないかと疑い始める始末だ。


 しかし鑑識の判断が功を奏し、俺の疑いは晴れた。


 肝心の東邦貿易の社長は、後頭部を鈍器で殴られてはいたが、命に別状はなかったという。

 しかしまだ事情を聴くには、病院で検査をしてからでないと駄目だということで、その場では何も聞けず、救急車で運ばれて行ってしまった。


 警察はまだ俺に事情を聴きたいと抜かしたが、


『これは仕事上の問題だ』と交わして、俺は何とか警察のから免れることが出来た。


 ビルを出た時、野次馬に混じって、反対側の車線の端に、一台の車が停まっていた。黒い、中古もいいところのセダンである。


 俺が近づこうとすると、泡を食ったように車を発進させ、タイヤを軋ませながら走り去ってしまった。


 しかし、こっちを舐めてもらっちゃ困る。


 はばかりながらこうみえても記憶力だけはいいんだ。


 俺はナンバーをしっかり頭に叩き込んだ。


 

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