第9話 内緒のラストキス

 勇気を出して軒先をのぞき、俺は花に埋もれながら笑っている澄香(すみか)を見つけた。あの頃より随分と髪が伸び、きれいに編み込んで一つにまとめられている。仕事がしやすいようにだろう。澄香はとてもラフな恰好をしていた。真っ白の長袖のTシャツにデニムパンツ。長袖とは言っても、肘当たりまで袖は捲り上げられ、化粧っ気もない。その上にエプロンをかけているのだが、エプロン姿の澄香を見るのは新鮮で、化粧もしていないというのに、やけに澄香がきれいになったように見え、俺の心臓がバクバクと鳴った。穏やかな笑顔の澄香。その澄香の笑顔を見て、俺はホッとした。そして、いつも俺が呼んでいたように。俺と澄香の間では、もう何年もそうであったように。

「澄香」

 そう、俺の方から声をかけた。

 俺は、澄香がそのままの笑顔でこちらを向いてくれるものだと信じ、そう願っていた。けれど、顔を上げた澄香の顔はこわばり、見開かれた目の中に、戸惑いと驚愕。

 澄香はその顔にひきつった笑みを浮かべると、たくさんの花が生けられたショーケースの奥に向かって声をかけた。

「かあさーん! あたし、ちょっと出てくるからー」

 澄香は、急いで濡れた両手を自分のエプロンで拭き、そのエプロンを無造作に外すと、それをレジ横の椅子にかけ、小さな手提げかばんを持つと中から出てきた。そうして俺の袖を引き、その場を後にする。俺は、澄香にされるがままだ。

 俺と澄香は無言で、まだまともに声すら聞けていない。澄香は家の車庫から、赤い軽自動車を持ち出し、無言でその助手席に乗るように俺に合図する。俺は手にしていたお土産の袋を持ったまま、助手席へと乗り込んだ。

 お義母さんにお土産を渡し、ご挨拶を……と、気合を入れてスーツを着てきたけれど、そういう雰囲気ではなさそうだ。

 車は無言の俺たちを乗せて、海岸線を沿った道路を進んだ。

 久しぶりに見る海。時折運転席の澄香の方を盗み見るのだが、澄香と澄香の向こうに見える海を、俺は助手席から黙って見つめるしかなかった。

 言いたいことはたくさんあったし、言うべき言葉を決め、何度も頭の中で復習してきた。澄香に俺の言葉を聞いて欲しい。そう思うのだけれど、澄香は怒ったような顔で無言で運転している。この状況では、とても言葉を発することは出来なかった。

 澄香の住む街からかなり離れた海辺のカフェで、ようやく車が止まった。相変わらず無言のまま澄香が先にカフェに入り、俺は黙って菓子折りの入った袋を持ったままその後に続く。そうして海が見える窓辺の席に、向かい合って座った。

「コーヒー二つ」

 澄香は俺に聞くでもなく勝手に注文をし、ようやく俺に目を移した。見つめ合う俺たち。最初に口を開いたのは澄香だった。

「こんなところまでどうしたの? 仕事は?」

 どうしたの? って、澄香のことを迎えに来たに決まってるじゃないか。そう言いたいけれど、俺は自分の虫の良さを痛感しており、そう簡単に澄香に強い言葉を言える立場ではない。けれど、どうしても俺は言わなければならない。そのためにここまで来たのだから。俺は自分を奮い立たせ、澄香をまっすぐ見つめながら言った。

「戻ってきてくれないか? また一緒に暮らそう!」

 澄香は静かに目を伏せた。迷っているのか? 困っているのか? 迷惑なのか?

 澄香と俺は、五年前から一緒に暮らしていた。お互いに大学進学のために田舎から出てきた俺たちは、最初はそれぞれ一人暮らし用のアパートに住んでいたのだけれど、同じ大学で知り合い、付き合うようになって、お互いの部屋代や生活費を浮かせることを思いつき、ルームシェアみたいなそんな感じで同棲を始めた。

 何しろ、学生の俺たちにはお金が無かった。二人でバイトをしてやりくりをし、あの頃の贅沢と言えば、発泡酒ではない、ちゃんとしたビールを買って、夜空を見ながら飲み明かすことくらい。

 あの頃の俺たちは何も持っていなかったけれど、それでも充実した毎日を過ごしていた。二人でいることが当たり前で、嬉しくて、幸せだった。

 同棲を始めて二年が経った頃、俺と澄香は大学を卒業した。それぞれ自分が希望した就職先で、仕事も満たされた。収入も、バイトの頃とはくらべものにはならないくらいに増え、秋には海外旅行へ行ってみようか? なんて話しもしていた。いつまでもずっと一緒だとそう思っていた。

 でもある日、俺が仕事から帰ると、テーブルの上に残された一枚の紙切れを見つけた。

「ごめんね。さよなら」

 たったそれだけの一枚の紙切れを残し、澄香は俺の前から消えた。電話もメールも入れてはみた。けれど、最初は着信拒否。そしてしばらく経つと「この電話番号は、現在つかわれておりません」その機械的な音が繰り返されるだけになった。澄香の会社にも連絡を入れてみたけれど、急に退職した……と告げられただけ。

 澄香との連絡を取る手段さえ無くなって、俺にはどうすることも出来なくなった。実家に戻ったのかもしれない。そう思いはしたけれど、実家に澄香を迎えに行くことは、その時の俺には出来なかった。二人でいられればそれでいい。俺の中ではまだそれくらいの気持ちでしかなく、追いかける勇気も澄香の人生を負うという責任を持つことが怖かったのだ。

 でも、澄香がいなくなって、その原因さえ分からない自分に、俺は次第に腹がたち始めた。何も言わずに出て言った澄香にも腹を立て、もう考えない。忘れるんだ。そう決めた。

 それが約一年前のこと。今更……と思われるのは仕方がない。

 けれど、澄香がいなくなって、あまりまともに部屋に帰らないようにしていた俺が、先週見つけた小さなメモ。冷蔵庫の隅っこに、目立たないようにマグネットで留められていたそのメモに「佐藤医院、母入院午前九時」という走り書きを見つけた。母入院ということは、おそらく、いやきっと、あの頃、澄香のお母さんが、なんらかの病気で入院していたのだ。知らなかった。気づかなかった。そう思ったと同時に、あの頃の俺を思い出す。

「敦紀(あつき)、話があるんだけど……」

「あー、ごめん。疲れてるんだ。またにして」

 締切が迫っている企画書、続く残業、なかなか休みも取れず、休日出勤。疲れていた。疲れ果てていた。余裕がなかった。

 同棲すると決めたとき、二人で作った「約束」である家事の分担も、今思えばそのすべてが澄香の負担になっていたはずだ。そのことに不平すら澄香は言わなかった。なのに、俺は澄香の話を聞いてやることすらしなかった。忙しいから。疲れているから。自分勝手な理由で、澄香を遠ざけていた。

 そんな大事なことに、ようやく一年経って気づいたわけで……

 自分が情けない。そう思うと同時に、澄香を迎えに行かなければと思った。

 アロハを着たオーナーであろう男がコーヒーを運んでくると、澄香は添えられていたミルクを入れた。黒い輪の中に、くるくると白い輪がまわる。

「今更なのはよくわかってるんだ。今更だけど、ようやく気付いたっていうか……。お義母さんの具合、どうなの?」

 俺は澄香の目を見つめる。澄香にも、俺の目を見ていて欲しいと思った。俺が本気だということを信じてもらえる気がして。けれど、澄香は俺を見てくれない。そわそわと海を見、さりげなく目を逸らす。

「今はずいぶんいいの。あのときは……あのときは急だったから、うまく話す暇もなかったんだけど……。お母さんが倒れて、翌日に手術って言われて。一時は危なくて心配したんだけどね。でも、今は落ち着いてる。ただ、右手に麻痺が残っちゃったから……」

 澄香とお母さんが母一人子一人だということは聞いていた。澄香が幼い頃にお父さんが亡くなって、お母さんは一人で稼業である花やを切り盛りし、澄香を育ててくれたのだと。ただ、澄香にとって、母一人子一人の生活はとても息苦しいものだったらしい。その為に、澄香は大学進学を理由に街を出たのだと言っていた。だから、澄香が実家に戻ると決めたのは、相当の理由があるに違いないとは思っていた。

 俺は胸が苦しくなった。あの時、澄香はきっと一人で悩んだだろう。たった一人の肉親がいなくなってしまうかもしれないことへの恐怖。離れて暮らしていても、関係が微妙だとしても、親子は親子だ。知らせがきたときは不安で心細く、怖かったはずだ。

「ごめんな。澄香のメモに気づいたのがつい最近で。俺、澄香の話、全然聞いてやれてなかった。

でも、もう同じことはしない。澄香のことも、お義母さんのことも、俺に守らせてもらえないかな? すぐには無理っていうのなら、準備が整うまで待つよ。俺たちの部屋を処分して、お義母さんも一緒に暮らせるような、もう少し広い部屋へ引っ越して……」

 言いかける俺の言葉を遮り、澄香がきっぱりと言った。

「敦紀、あたしね、来月結婚するの」

 俺は、その一瞬で言葉が出なくなった。言おうと思っていた言葉が、胸やけのように俺の胸の中で消化不良を起こし、ムカムカしてくる。

「ウソ……だろ?」

 やっと出た言葉はそんなもので。自分の声が遠い。

「あたし、母さんと暮らすなんて考えたこともなかったの。それぞれに自由で、勝手に暮らして、

元気でいればそれでいいって。そう思ってた。でも、一年前に母さんが倒れたって聞いたとき、足が震えた。体中が震えて、不安で怖くてたまらなかった。あたし、母さんのこと好きじゃないって思ってたけど、やっぱりあたしにとって母さんは、大事な人なんだなって思ったの」

 澄香の目が俺を見つめていた。さっきまでの戸惑いの色が消え、澄香の目の中に固い決意が見える。

「母さんの手術のとき、幼馴染のお兄ちゃんが来てくれたの。母さんの手術が終わるまで、ずっとそばにいてくれた。花やのことも、お兄ちゃんずっと手伝ってくれて。あたし、花やなんてお遊びくらいにしか思ってなかったのに、小さい頃からの習慣で、体が動くの。この花にはこれ。この花にはこれって。でも、一人で店をやっていくなんて到底ムリだし、花やは閉めるつもりでいたの。だけどね、あの街に花やはうちだけだから、辞めないでって声をたくさんもらって……すごく、すごく悩んだわ。その迷ってたときにね、お兄ちゃんが一緒に花やを続けていこう! って言ってくれたの。あたしのことずっと好きだったって。ずっと待つつもりだったって」

 澄香の目にうっすらと涙が溜まってきた。

「敦紀のこと、好きだったよ。それは嘘じゃない。でも、敦紀は長男だし、花やを継ぐ気はないでしょう? 母さんは、この街が好きなの。引っ越すなんて出来ないのよ」

「澄香……」

 俺はもうどう言えばいいのかすら分からなくなって、ただ澄香を見つめるだけ。

「あたし、もう好き勝手やってるだけの子供じゃいられないって思ったの。大人にならなきゃって」

 澄香の目から涙が溢れだす。

 切なかった。もし……そう、もしという機会を得ることが出来るのならば、俺は一年前に戻り、澄香の言葉にしっかり耳を傾け、こんなにも澄香を泣かせることはしない。大事な澄香を、みすみす他の男に渡すなんてことは、絶対にしない。

 澄香の決意が固いことは理解できた。でも、俺は往生際も悪く言った。

「結婚なんて取りやめて、考え直してほしい。『お兄ちゃん』に謝らなければならないのなら、俺が一緒に謝る。土下座だってする。花やのことも、時間をもらえればいい方向にいくように考えて努力する。だから……」

 言葉を一度切り、俺は右ポケットに入れてきた四角い箱を取り出そうと、右手をポケットへ入れた。

「俺と結婚してください」

 そう言うつもりで箱を掴み澄香の前に出そうとしたとき、澄香が自分の涙をくいっと拭きとり、

その目にしっかりとした光をたたえて笑った。今までに見たことがない澄香の顔だった。俺の知らない、別人の澄香。

「敦紀、かっこよくなったね。一年の間にすごく大人になったって感じがするよ。あの頃の私たちって、ただじゃれ合って、好きとか嫌いとか、そういうのだけで、子供だったよね。あたし、こんなところまで敦紀が来てくれた、それだけでもう十分……ありがとう。敦紀」

 澄香の声からも、澄香の言葉からも、もう澄香が俺のところへ戻ってくる気がないことを痛切に感じた。右ポケットの中で掴んだ箱は取り出されることはなく、俺はそのまま指を離した。


 澄香の運転で、駅へ送ってもらった。小さなこじんまりとした駅は、無人駅なんだと澄香が言った。道理で誰にも会わなかったはずだ。改札にもホームにも誰もいない。

 俺と澄香は、ただ二人誰もいないホームで電車を待っていた。

「ここから大学へ旅立つとき、もうこの街に戻ってくることはないだろうって思ってたのに、人生って不思議ね」

 そう言って澄香は穏やかに笑う。

 電車がゆっくりとホームへ入ってくるのが目の隅に入った。これで、もう……?

「澄香」

 俺が澄香の名前を呼ぶと、澄香が俺の肩に手をのせ、ぐっと背伸びをした。そして、そっと俺と澄香の唇が触れた。

「ごめんね、敦紀。ありがとう」

 そう言って笑う澄香を、俺はこのまま連れ去りたい衝動にかられた。けれど、澄香は俺からそっと離れ、自分のおなかに手をあてた。

「最後のキスだから……。パパには内緒ね」

「!」

 澄香……?

 俺はさっきのカフェで、コーヒーにミルクを入れる澄香を思い出した。俺と暮らしている頃の澄香はコーヒーはブラックでしか飲まなかった。ミルクを入れたのは、母親としての澄香の思い。澄香の中に新しい命が芽吹いているから……

 電車が音を立てて止まり、扉が空気圧とともに開く。澄香が俺の背を押した。そして、俺の背に、澄香の声がした。

「敦紀、さよなら。敦紀も幸せになって」

 俺は押されるまま電車に乗せられ、扉の前に立った。

 ピリリリリリリ。

 耳に音が響く。

 プッシュウウウウウウウ……

 振り返ると同時に、扉が閉まる。俺は思わず扉に駆け寄った。ドアが、景色が、動き始める。ゆっくり、ゆっくりと……澄香が手を振っているのが見えた。穏やかな揺れ……

 けれど、その穏やかさとはうらはらに、あっという間に澄香の姿は小さくなっていく。俺は取り戻せないあの頃と、澄香への思いで胸が詰まり……男なのだから……そう思うのに、嗚咽がもれる。

 澄香の住む街の景色が、涙でぼやけて見えなくなった。

 

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