第10話 優先順位
私の前に差し出された一枚の紙切れ。薄くてツルツルし触感のその紙は、紙としては大した重さもないくせに、これからの私の人生を大きく変える重大な重みを持った紙切れだ。
私は続けて差し出されたペンを受け取り、自分の名前を記入した。もうそうするしか、私には選択肢がないのだから。
「東堂菜穂(とうどうなほ)」
五年間名乗ってきた私の名前。ようやく慣れてきたその名前を書き終えるとペンを置き、紙を眺める。
なんだろう? もっとぐっときて、号泣しちゃうかと思ってたけれど、自分がとても冷静なことに驚いてしまう。
「菜穂さん、ごめんね」
私の真向かいに座る彼が言った。私はその声を聞きながら、自分が使っていた「東堂」の印鑑を押した。これで離婚が成立したことになる。
ピンと張りつめていたものが途切れ、それまで聞こえていなかった雑踏。ファミレスという場所であるが故の、ガヤガヤとした音が戻ってきた。
「で? これからどうするの? って、もう私に聞く権利はないか……」
私が呟くと、彼は困ったような、それでいて嬉しいような笑みを浮かべた。一緒に暮らしていた頃とは違い、ピンと糊が効いたシャツを着て、ビシッとスーツを着こなしている彼。私がおろそかにしていたアイロンがけも、今の彼女はしっかりこなしている人なのだろう。それに、心なしか随分頼もしくなったような気がする。彼の表情一つ一つに自信が溢れ、やる気がみなぎっているのが伝わる。
もともときちんとした人だったけれど、今はさらに磨きがかかり、きりりとした顔立ちがスーツによって引き立てられているのかもしれない。
「彼女と籍を入れて、子供が生まれるのを待つよ」
「そう……」
分かっていたことだけれど、声に出して言われると、なんだか複雑な気持ちになる。
「ねぇ、聡(さとし)? もう性別は分かったの?」
「女の子らしいって聞いた」
子供の話になった途端、聡のきりりとした表情が緩み、それだけ待ち望んでいたことなのだと思い知る。
「そう……」
私は、なんとかコトバを続けようと、話題を探した。言葉が途切れたら、もうそこで聡とは本当に他人になってしまう気がしたからだった。
「ねぇ、菜穂さん? あそこ見て?」
聡が指を指したのは、ファミレスの奥の席。そこには、まだ初々しいカップルが、お互いに照れくさそうに話しているのが見えた。テーブルの上にはたくさんの本がのっていて、試験勉強をしているようだった。
「俺たちもあんな感じで過ごしてきたよね?」
ぐっと言葉が詰まった。どうして今頃そんなことを言い出すの? 今ここで昔話をして何になるの? 悲しみと怒りが入り交ざった気持ちを抱え、声を出せずにいると、聡は私の様子に気づかないまま続けた。
「俺、菜穂さんと会えてほんとにシアワセだった。この二年くらいは行き違いが増えて、寂しかったり悲しかったりしたけど、やっぱり今思うと、菜穂さんに会えたことは、俺の人生の中で大事なことだった」
どうしてそんなこと! どうして今言うの!
聡は三つ年下で、大学のサークルで知り合った。静かで控え目で、それでいてしっかりしていた彼。年の差を感じなくて、一緒にいると寛げた。そんな私たちだったから、自然に一緒にいることが増え、いつの間にか付き合うことになっていたように思う。社会に出て仕事を始めても、それらが変わることもなかった。
私が二十七歳になったとき、聡からプロポーズされて結婚。結婚することにも悩みはしなかったし、このままの日常がずっと続いていくものだと思っていた。ずっと私のわがままに付き合ってくれるんだと、そう信じて疑いもしなかった。
「菜穂さん!」
「菜穂さん!」
結婚しても、聡は私のことを「さん」付けで呼んだ。もう結婚して、奥さんなんだからって笑っても、もう癖になっちゃってるんだよねぇって、いつも笑っていた聡。聡はいつも私にシアワセをくれた。コトバもプレゼントも、与えられるものはすべて私に与えてくれ、とても大事にしてくれた。私にはそれが普通で、それ以下のことなんて思いもしていなかった。これこそがシアワセだということに、気づいてもいなかったのだ。
半年前、聡が部屋を出て行き、「離婚したい」と言われた。
なぜそんなことになっているのか私には理解できなくて、だったらどうぞ! と喧嘩腰に返事をして……
聡がいなくなった部屋に一人になって初めて私は気づいた。私が家庭ではなく、仕事を優先していたことに。聡の優しさにつけこんで、結婚しておきながら、自分一人で好き勝手やっていただけだったということに。
私は大学を卒業してから、Webデザイナーとして働いていた。小さな広告の仕事から、HPのデザイン、小さな仕事も大きな仕事も、与えられたもの、チャンスにはすべてチャレンジしてきた。その結果、成功の積み重ねに成功し、スキルを上げることができ、私の仕事への意欲はますます上がっていった。個人的にも会社のチームとしても業績が認められ、仕事が面白くてたまらなかった。私という存在、自分を認めてもらえることが快感だった。
聡もまた、同じような職種に就いたものの、彼は仕事よりも「家庭」を大事にするタイプで、休みもきちんと取っていたし、私と過ごそうと努力してくれているのも理解はしていた。私が応じなかっただけで。
二年くらい前になる。
「ねぇ、菜穂さん? そろそろ子供とか欲しくない?」
そう言いながら背後から抱きしめてくる聡の腕を、私は払った。子供なんて、考えたこともなかった。私と聡、今はそれでいいじゃない?
「無理よ。今すごく忙しいし、来年の三月に納期があるのをある程度進めておかないと」
するりと聡の腕から抜け出し、コーヒーを淹れにキッチンへ歩き出す。聡はすごく思いつめた顔をしていて、今のはまずかったかな? と思いはした。でも、聡ならわかってくれるはずだと私は勝手にもそう思いこんでいた。今思えば、それから一年半。聡は聡なりにガマンして私に付き合ってくれていたのだ。自分のキモチを押し付けることなく。
聡が出て行って、ようやくそんなことに気づいた私が、慌てて聡に連絡を取ったけれど、もう既に聡は別の女(ひと)と暮らしていた。
「やり直さない?」
そう言うつもりでこのファミレスへ聡を呼び出した私に、聡が言った。
「子供が出来たんだ」
自分がやってきたこと。聡にしてきた仕打ち。それらを思うと、これ以上わがままを言うわけにはいかないと思った。ようやく分かったからやり直さない? なんて、言える? 言えるわけがないよ。第一、その話し合いの場でも、私は子供に関しては諦めてもらおうと思っていたのだから。どれだけ聡に甘えるつもりよ? 自分に突っ込みながら、ようやく現実を受け入れなければと悟ったから……
だからせめて、これからの聡のシアワセに邪魔にならないように。生まれてくる赤ちゃんが、戸籍上もちゃんと聡の子供だって認めてもらえるように。私にできることといえば、離婚届に名前の記入をして判を押すだけ。
「聡、元気でね」
私が言うと、聡はふっと笑った。
「菜穂さんって強いよね。最後まで泣いてくれなかったね。俺、菜穂さんのそういうとこも好きだったけど、家族なんだから……弱いところも見せてほしかったな」
聡の目は優しかった。私をいつもその穏やかで、優しい目で見詰めてくれていたのと変わらず。
聡が伝票を取って、レジへ向かう。聡の背中がどんどん離れて遠くなっていく。
「行かないで!」
言いたいよ。
「戻ってきて!」
叫びたいよ。
でも、私は唇を噛みしめ、絶対に言わない。
自動ドアが音もなく開き、聡の体ごと消えていく。聡のすべてが見えなくなって、やっと。やっと私の目から涙が溢れてきた。
聡、私、強いわけじゃないんだよ? いつも肩肘張って生きてるだけ。強がってるだけで、甘えることが下手だっただけなの……
涙はとどまるところを知らず、次から次にこぼれ落ちる。こんな場所で泣くなんて……立ち上がりたいけれど、今のこの現状で動くことも出来ず、おしぼりで目を押える。声が漏れそうになるのを耐え、唇を噛む。それでも「ぐっ……ううう……」コトバにならない、なんともいえない音のきれはしが唇の端から漏れていく。
もし、もしも、次に恋をすることがあるなら、次こそは素直になろう。仕事ばかりじゃなく、大事な人を大切にしよう。「二人で」歩くことをきちんと話して、お互いに歩み寄って生きて行こう。聡が教えてくれたこの痛みを忘れないように。
三十二歳。家庭より仕事を優先してしまったおバカで変な私。今は痛いけれど。痛すぎるけれど、泣くだけ泣いたら、背筋を伸ばして前を向いて進みたい。私の人生、まだまだこれからだと思うから。
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