第7話 49日での再会
狭いアパートの一室。玄関からそう長く歩くでもなく、僕はお世辞にも立派とは言えない小さな仏壇の前に通された。その手前の小さな白木の祭壇に、白い布で包まれた箱が置かれていた。僕は座布団に正座すると、しみじみとその小さな仏壇を見つめた。そして自分が何をするためにこの部屋を訪れたのかを思いだし、慌ててロウソクに灯された火に線香を近づけ火を移すと、すぐに手を振ってその炎を消した。白い煙があがり、独特の香りがたちこめる。
チーン。その音は、か細い金属音。なのに、いつまでも部屋の中に響きわたった。耳の中に、奥に、いつまでもその音が響いていく。
白い布で包まれた箱の横に飾られた遺影の中の彼女は、あの頃よりもふっくらとしてはいたものの、その笑顔を見ると、僕の胸の中に忘れかけていた痛みが渦巻く。お互いに年を取ったものだよな……ついぼんやりしそうになって、僕は慌てて手を合わせた。
僕が彼女の消息を聞かされたのは、彼女が亡くなって四十九日を迎えた頃だった。それが僕と彼女の三十年ぶりの再会。こんな再会になるなんて、思ってもいなかった。昨日、友人から電話がかかってくるまでは。
僕が座布団の上から滑り降り、後ろを振り向くと、僕の後ろに控えていた女の子がぺこりとお辞儀をした。遺影の彼女の目元そっくりの、そして父親譲りの強い意志を含んだ唇が、あの二人の娘であることを証明している。既に四十九日を終えていたため、女の子は喪服は着ておらず、真っ白のブラウスに黒のフレアースカートを身に着けていた。僕からしてみればかなり年下なので、女の子としかいいようがないのだが、この女の子は今年三十歳になるはずだった。
「わざわざありがとうございます。気にかけていただけて、母も喜んでいると思います」
「いえ。こんなに遅くなってしまってすみません。昨日まで知らなくて」
言い訳がましく言うと、女の子はクビを振り、隣の部屋にあるキッチンへ向ったようだった。カチャカチャと音がする。お茶でも淹れてくれているのだろう。僕は所在なく、喪服の黒ネクタイを少し緩めた。そして部屋のあちこちを観察し、質素な暮らしをしてきたのだなと思った。
間もなく女の子は蓋付きの茶器を盆に乗せて現れた。僕の前に、その茶器をそっと置く。
僕は一度お辞儀をしてから、雫を落とさないように蓋を開け、片手で湯呑を持つと一口お茶をすすった。胃に温かいカタマリが沈み、少し落ち着いた気がする。何しろ昨日、彼女が亡くなったと聞いてから、一人で慌てふためいていたのだから。
「大串先輩はどうされてますか? お母さんが亡くなられてさぞ気落ちされているでしょう? 今、会社はどちらへ?」
僕が聞くと、女の子がにこりと笑った。その笑顔に彼女が重なってどきりとする。
「父は、私が十歳のときに交通事故で亡くなりました。それ以来、母が女手一つで私のことを育ててくれたんです」
「えっ」
僕は絶句してしまった。大串先輩が亡くなっていたなんて。
「では、お通夜やお葬式など大変だったのでは?」
大串先輩と藤田(女の子の母のことなのだが)が駆け落ち同然に結婚したことを知っている僕としては、すぐにそのことが浮かんだ。でも、女の子は笑いながら首を振った。
「母、乳がんだったんです。事前に告知も受けて、自分なりに覚悟していたみたいです。お葬式の手配や支払のこと。これからの私のことなんかも全部ノートにまとめてあって、なんだか母らしくて笑っちゃいました」
藤田らしい。昔から藤田は頑張りやだった。何に対しても。大串先輩が亡くなっても、きっと親戚に頼ることもなく生きてきたのだろうと想像がつく。僕にくらい連絡してくれたって良さそうなものを。でも、そうか。藤田はどうしても僕ではダメだったということなのだろう。ずっと昔のことなのに、鮮明に思い出せる。あの時の痛みさえも。
高校の頃、大串先輩と僕は陸上部に在籍していた。その陸上部のマネージャーをしていたのが藤田だ。大串先輩と僕は藤田のことが好きだった。抜け駆けはしない。僕たちの中でそう協定が結ばれていた……ハズだった。が、先輩が卒業して間もなく、藤田が高校を退学することになり、その理由を聞いた僕は、大串先輩に殴り掛かった。僕も殴られた。お互いに殴り、殴られ、僕たちがボロボロになった頃、僕らの喧嘩を聞きつけたらしい藤田が、泣きながら大串先輩の胸の中に飛び込んで行った。
元々、僕に勝ち目なんかなかった。藤田は大串先輩の子供を妊娠していたのだから。
今では出来ちゃった婚は、授かり婚と呼ばれるようになったけれど、当時はまだ、出来ちゃった婚というのは、世間から白い目で見られる対象だった。そんな冷たい世間の中に身を置かなければならなくなった藤田のことが不憫でならなかったし、そういう立場へと追い詰めた大串先輩のことが許せなかった。
あの後二人はすぐに結婚したと聞いたけれど、親や親戚からは勘当されたと聞いていた。
バカだ。二人とも。
僕は二人を祝福してやる気にはなれなくて、それから二人とは一切の連絡を絶った。藤田が大串先輩と幸せに暮らしているのなんて見たくなかったし、僕がウロウロするのは好ましくないと思ったからだった。
でも、今僕は大きな後悔を抱く。僕が嫉妬に狂って距離を置かなければ、力を貸すことができたかもしれないのに。藤田が困っているときに、僕が助けてあげられたかもしれないのに。
「何にもできなくて、すみません」
僕が頭を下げると、女の子は首を振り、笑ったようだった。
「私、凜々(りり)と言います。あの……?」
僕は、はっとして内ポケットから名刺を取り出した。ここを訪れたのはいいけれど、まだ名前も名乗っていなかったことに気づいたからだ。
「三木(みき)です。三木孝之(みきたかゆき)と言います。大串先輩と藤田、あ、君のお母さんとは、高校の陸上部で一緒でした」
凜々と名乗る女の子は名刺を受け取ると、じっと名前を見つめ、それから僕をじっと見つめてくる。その真剣な瞳が、また僕をどきりとさせた。
「あの、失礼ですが、『ミッキー』さん?」
唐突に僕のあだ名を言われ、僕は戸惑いながら頷いた。女の子の顔がぱあああっと明るくなる。
「良かった! 母のノートの一番最後に走り書きみたいなものがあって。『ミッキー、私、ちゃんと幸せだったから』って。そう書かれていたんです。ミッキーって方に伝えたかった言葉なのだろうとは思ったのですが、どなたのことか分からなくて。でも、はっきり名前を書いていないところを見ると、伝わらなくてもいいって、そう思っての走り書きだったような気もして」
彼女の言葉を聞いているうちに、僕の目には涙が溢れてきた。昨日聞いた「藤田が亡くなったらしい」という言葉よりも、ずっとずっと現実を伝える言葉のように感じた。
藤田は本当にいなくなったのだ。どこを探しても、もういないのだ。
僕は俯くと、両手で膝を握りしめ、嗚咽をこらえながら泣いた。その僕のことを気遣ってくれたのだろう。凜々さんが「お茶を淹れ直してきます」と隣りの部屋へ移動してくれた。
こんな風に気を配れるところ、藤田そっくりだ。そう思うと、余計に泣けた。
大体、なんなんだよ!「ちゃんと幸せだったから」ってなんだよ! しかも、それが僕宛ての最後のメッセージって、なんだよ! 最後までノロケかよ! ふざけんな!
いい年をした男が、嗚咽を漏らしながら泣くなんて、情けないことこの上ない。
でも、僕はようやく。この年になってやっと、ちゃんと失恋できたような気がした。
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