第6話 泣ける女と泣けない女

 今私は、白いテーブルを挟んで、彼氏である凌太(りょうた)と向き合って座っている。この白いテーブルは、二年前に凌太と二人で選んだものだ。凌太が一人暮らしをすると言うので、二人でご飯を食べるために選んだ家具。その家具を挟んで私は凌太を見つめ、凌太は俯いていた。凌太がこちらを向くことはなく、緩い天然パーマの髪の毛の間から二つのつむじが見える。稜太には、普通は一つしかないつむじが二つあり、そのせいもあってか、天パの髪の毛を整えるのが大変らしかった。今は寝起きなのか、整える時間もなかったのか、いつもよりうねりがひどい。

そんなつむじを見つめながら、私は稜太が口を開くのを辛抱強く待っていた。当の稜太は、何から話せばいいのか相当悩んでいる様子で、私たちの間には沈黙が生まれ、一向に進まない話しに苛立った美咲(みさき)が口を開いた。

稜太とは反対にこれでもかとばっちりメイクをし、気合の入った女子力高めのワンピースを着ている。彼女は真っ赤で艶艶した唇を動かし、煮え切らない稜太の代わりに私に挑発的な目を向けた。

「咲良(さくら)は気づいてなかったかもしれないけど、私と凌くん、付き合ってるの。ね? 凌くん?」

 美咲がそう言いながら凌太の袖を引く。凌太はちらりと美咲を見て、私の方を恐々と上目遣いに見つめてくる。

「だからね、咲良、凌くんとは別れて欲しいの。これは凌くんの希望でもあるの。ね? 凌くん?」

 美咲は何度も念を押すように凌太に声をかけるけれど、当の本人の凌太が返事をしない。ただ申し訳なさそうに、後ろめたいという気持ちだけを目で訴えてくる。はっきりと別れを切りださない凌太に、美咲が苛立って声を上げた。

「凌くん、咲良が怖いって言ってたもんね。だから私のところへ来たんだよね?」

 媚びを売るように凌太にすり寄り、凌太の腕に自分の腕を絡ませる美咲。けれど、その絡まれた美咲の手を、凌太は自分の手からそっと放した。そしてようやく顔を上げ、私をまっすぐ見つめて言い訳を始めた。

「咲良、違うんだ。確かに美咲と関係を持ってしまったのは事実だけど、それは酔った上の過ちで、好きとか嫌いとか、そういう感情があったからではなくて」

 必死に言葉を繋ぐ凌太に、美咲は最後の手段とでもいうかのように、涙をこぼし始めた。今時のマスカラは濡れても落ちない。技術は進歩しているなぁ。他人事のように美咲のマスカラに関心していると、美咲はわあわあ叫びながら泣き喚いた。

「ひどーい! 凌くん、私のこと遊びだったの? そりゃあ、最初は酔った勢いだったかもしれないけど、そのあとはお酒なんか入ってなかったじゃない! 咲良と別れるって言ってくれたじゃない!」

 稜太の腕を掴み、その腕にすがって泣き出す美咲に、凌太が慌てて側に合ったティッシュの箱を渡し、肩を抱いた。

「美咲のことも遊びってわけじゃないんだ。ちゃんと好きだよ。でも、俺は咲良のことも好きなんだよ」

 そんな二人を見ていた私は呆れ果てて立ち上がった。話しがあるから来てくれと言われたから来てみれば、なんというバカバカしい展開。

「咲良?」

 美咲の肩を抱きながら、私の名前を呼ぶ凌太。

 バカじゃないの?

 声をかける気にもなれず荷物を持って玄関の方へ向かうと、凌太が慌てて追いかけてきた。そして私の腕を掴む。

「咲良、二人だけでゆっくり話し合おう! お互いに落ちつこう! ね!」

 私は凌太の腕を汚いものでもあるかのように振り切り、その整った顔にパンチを一発お見舞いしてやった。まさか私からパンチをもらうとは思いもしていなかっただろう凌太の左ほほに、私のグーパンチ。

 しかも、右手薬指につけていた指輪が食い込んだらしい。その指輪は去年のクリスマスに稜太がプレゼントしてくれたものだった。近い将来、もう少し奮発した指輪を贈るから、その予行練習みたいなものだと思って? あの時、稜太はそう言った。その自分がプレゼントした指輪で鉄拳をくらったのだ。自業自得もいいところ。

 凌太は尻もちをついた上に、左ほほに当たったリングの部分に青あざが出来ていた。

「いってー」と言いながら、左ほほを押える凌太。その凌太の元へ、美咲が走り寄って跪くと、稜太の左ほほにそっと触れる。

「咲良ひどい! いくらなんでも凌くんにパンチするなんて、そんなのひどい!」

 非難を続ける美咲と、左ほほを押さえたまま動かない稜太に、私はバッグから出した鍵を投げつけた。凌太のアパートのスペアキーだ。

「咲良!」

 凌太が何か言いたげな目で私を見つめてくる。私はこの部屋に入ってから、初めて言葉を発した。

「さよなら! 凌太!」

 そして靴を履くと、玄関から出た。ゆっくりと閉まる扉の向こうで、凌太が「咲良!」と私の名前を叫び、美咲が泣きながら「行かないで!」と引きとめる声が聞こえていた。私が足を止めることはなく、その扉の前から歩き出す。

 凌太が浮気をしていることは、三か月ほど前に気づいた。凌太の部屋のあちこちに痕跡が残されていたからだ。洗面台に、私のものではないピアス。料理が出来ない凌太が作れるはずもない、肉じゃがやサラダ。それらがタッパーで冷蔵庫に保存してあった。テーブルの下に無造作に転がっている口紅。それらを見つけるたびに、これは偶然ではなく、私(かのじょ)に対する挑戦として残されているものだということに気付いた。

 その意味を悟ったとき、凌太の浮気相手が誰であるのかに気づいた。私と凌太の共通の友人、美咲だ。大学の頃から付き合っていた私と凌太に、あの頃から付きまとっていた美咲。

 どういう経緯で飲むことになったのかは分からないけれど、酔って関係に持ちこんだのは美咲だろう。酔いが覚めて、きっと凌太は慌てたはず。でも、凌太の優柔不断さにつけこんで美咲は関係を続け、私から凌太を奪おうと考えたのだろう。美咲っていうのは、そういう子なのだ。

 ヒールの音をこだまさせながら歩いていると、背後から音が近づいてくるのが聞こえた。 誰かが走ってくる音。その音はだんだんと大きくなり、私のすぐ側でその音を感じた瞬間、私の左腕が掴まれていた。

 はあはあと息を吐きながら、凌太は掴んだ腕に力を入れた。逃がさないと言いたいのだろう。

「咲良、別れるなんて言わないでくれ! 俺、お前がいないと……美咲とは別れる! 絶対に別れる!

だから咲良、俺を捨てないでくれ!」

 必死に懇願してくる凌太。左ほほの青あざが痛々しい。私がその青あざに触れるために手を上げようとしていると、凌太を追いかけてきたのだろう。美咲が走ってくるのが見えた。

「ヤダ! 凌くん! ヤダ! 私、凌くんのこと好きなの! ヤダ! 行っちゃヤダ!」

 こんな往来で、大声を上げて叫び、喚き、泣く美咲。おそらく凌太が飛び出した後をそのまま追いかけてきたのだろう。美咲は裸足だった。ワンピースも膝の上までずり上がっているし、さっきまできれいに結ばれていた髪の毛はすごいことになっていた。涙には強いマスカラも、ごしごしと手でこすられればひとたまりもなかったのだろう。美咲の目はパンダのように真っ黒に汚れてしまっている。

 そんな美咲と私を交互に見比べ、どちらとも決めきれずに迷っている凌太を見て、頬に触れようとしていた手を降ろし、私は言った。

「凌太、行きなよ。あんなにあんたのこと追いかけてくれる子なんて、そうそういないよ?」

「咲良……」

 凌太がぐっと拳を握るのが分かった。私が凌太から一歩後ずさると、凌太が拳を握りしめたまま、今日初めて私の目を見つめた。

「咲良は俺のことなんてどうでもいいんだよな。いっつも冷静で、クールで。浮気すれば嫉妬してもらえるかも? なんて、俺がバカだった」

 私の心にいろいろなものが突き刺さる。でも、私はクールだそうだから、それを表面には出さない。

「さよなら。咲良」

 握られた拳が微かに震えているのを見ながら、私は答えることもなく、くるりと向きを変えて歩き出した。凌太が美咲の方へ歩いていくところなんて、見たくない。自分の心が嫉妬で狂いそうなんて、認めない。走って、逃げて、どこかで大声が出せるところまで。それまで、私は……

 どこをどう歩いてきたのかなんて覚えていない。それでも、無意識ながら人気のない場所を選んでいた自分を褒めてやりたい。ここなら。ここでなら。

 ようやく、頬に温かいものが流れた。嗚咽が漏れ、それは次第に叫びにすら近くなっていく。私のどこが冷静なのよ! 私のどこがクールなのよ! 浮気して開き直る彼氏がどこにいるのよ! 長い間一緒にいたのに、私の何を見てたのよ!


 逆流しそうな胃液。

 止まらない涙。

 溢れてくる怒り。

自分が、どれだけ凌太のことを好きだったのかを痛感する。

 

女には二通りのタイプがいる。泣いてすがるタイプと、表面上は冷静なタイプ。男からしてみたら、泣いてすがる方が可愛いのかもしれない。でも、それが女の計算だとは気づきもしないのだ。

だから、強いと思われている方が負ける。

 男の心理として、それは分かっている。でも、私はその心理を利用したくない。可愛くないと言われようと、計算で手に入れるシアワセなど欲しくない。そう思う私は、やっぱり「負けた」ことになるのだろうか。

 でも、例え負けたのだとしても、「泣かない女」でいられたことを、私は誇りに思いたい。私は、美咲のような「泣ける女」にはなりたくないのだから。




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