第5話 思い出のアルバム

 あぁ、マジ女って、なんでこんなに面倒臭いんだろう?

 俺は、スマホで何度目かのコール音に耳を澄ます。追いかけて行くべきだったかもしれないけれど、たったあれくらいのことで出て行った彼女に呆れて。口に出してはいけないと思いつつ「面倒くせぇ」そう思わず言ってしまって、悪い癖だ……と自分の口を押えた。

 さっきから何度もかけているっていうのに、おそらくひどく憤慨している彼女が電話に出る気配はない。

 そっちがその気なら……面倒くさいし、もういいや。俺は携帯をベッドに放り投げた。

 テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、さっき彼女が持ってきたケーキの箱と、開かれて放置されたままのアルバムがのっていた。

 あー、片づけるのも面倒くせぇ。そう思いながら、自分のマグを取り上げた。まだ湯気が立っていることからも、彼女がほんの数分前までここにいたことを物語っている。

 俺すらも忘れていたアルバム。その開かれたアルバムの中で、俺はむちゃくちゃ嬉しそうにピースサインをしていて、俺の横には、斜め結いに髪を結んだ俺の初めての彼女がセーラー服姿で笑っていた。くりくりとした大きな瞳はリスのようで、恥ずかしそうに笑う彼女を見つめているうちに、俺の中に切なさが蘇る。

 そんな切なさとは裏腹に、こんなこと、もう昔のことじゃないか! と腹が立ってきた。大体、俺がトイレに入ってる隙に、勝手に人の棚を漁ってアルバムなんか見つけんなっつーの!

 コーヒーを一口飲んでみるものの、口の中に苦味ばかりが広がり、俺はそれ以上飲むのを止め、マグをテーブルに置いた。イライラしながらベッドに寝転がる。

 怒って帰った彼女とは、まだ付き合って一ケ月。大学の学食で隣同士に座ったことがきっかけだった。学食の新メニューになったというエビのグリーンカレーを俺が食べていて、興味津々にアイツ、愛結(あゆ)が隣りから「それ、どんな味ですか?」って声をかけてきたのが始まりだった。俺は「食べてみる?」と冗談でスプーン一口分を差し出したのだが、アイツはそれをまともに取ったようで、差し出されたスプーンを見つめながら真っ赤になって「そんなつもりでは……」と口ごもってしまった。

 何てことない何気ないやり取りだったというのに、俺の中になんだか強く彼女の印象が残ったのは事実だ。それに、広い大学の中で学部も違う俺たちがそうそう会うことはないと思っていたというのに、翌日も俺たちは学食で再会した。そしてそれからは、特に待ち合わせをするでもなくちょこちょこ学食で会うようになって、俺たちはあっという間に打ち解け、時には隣りに、時には向かい合って座り、お互い別々のメニューを頼んでは、一口分交換したり、おかずをシェアして、入学してそう経ってもいないというのに、学食メニューを全制覇することに成功した。

 その制覇と同時に、俺が告白をしたのだ。

 食の好みが似ていたし、笑うタイミングとか、笑う内容、そういうのが同じだなって思えたからだった。照れくさいから愛結には言わないけれど、これは運命じゃないかとさえ思ったりもした。

 愛結ははにかみながらも頷いてくれ、俺たちは正式な「恋人」という存在になったわけだ。

 今日は初めての俺んちデートで、俺なりにテンション上がってたし、元カノの私物は処分してたし、楽しい一日にするぞ! そう思っていたというのに。

 彼女は大学とは違い「デート」っぽい装いをして現れた。大学では邪魔にならないように結んでいる髪の毛をおろしていたし、その長い髪がきれいに巻かれていることからしても、彼女も「デート」だと自覚してオシャレをしてきてくれたのだと分かった。それだけで俺はハイテンションになっていたというのに、彼女が俺のアパートに備え付けられているキッチンでコーヒーを淹れてくれている後ろ姿を見ていると、すぐさま襲ってしまいたくなる衝動に駆られた。けれど、今日は「初めてのおうちデート」なのだ。そう自分に言い聞かせ、彼女がコーヒーを淹れてくれるのを大人しく待ち、彼女が持ってきてくれたお土産のケーキの箱を開いて、数少ない食器の中から、愛結のケーキが少しでも映えそうなお皿を取り出すことに専念した。そこまでは何ら問題はなく、楽しい一日の始まりだったはずなのだ。

 ただ、そこで俺がちょっとトイレにって……。そのトイレに立ったほんの二、三分の間に彼女は、俺の許可なく書棚を漁ったのだ。

 俺がテーブルに戻ると、彼女は俺のアルバムを開いていて、数年前の俺をその中に見つけて責め始めた。

「奏也(かなや)くんの彼女は私でしょ? なのになんでこんな写真、大事に取ってあるの?」

 言い訳だととられるかもしれないが、俺にしてみたら、そんな写真はすでに過去のもの。元カノとは高校卒業と同時に終わっている。そもそも、大事にとってたわけじゃないし、アルバムが棚に入ってたことすら忘れてたというのが正直なところだ。

 勝手に漁って取り出したアルバムもそうだけれど、過去の彼女が映っていた写真が残されていたというだけで怒って出て行ってしまった愛結は悪くないのか?

 でも、そうだな。愛結もだけど、アイツも似たようなことを言ってたっけ。

 目を瞑って浮かぶのは、さっきアルバムの中に見つけた俺にとって初めての彼女である夢乃(ゆめの)だ。高校の三年間、俺たちはずっと付き合っていた。三年生の頃は、付き合っていたのかどうか微妙だが、とにかく俺と夢乃は付き合っていた。だが、最初の頃はそうでもなかったのに、付き合う年月が長くなればなるほど、俺たちは些細なことで喧嘩するようになっていた。一年の頃は同じクラスだったけれど、二年からは文系と理系に分かれ、クラスが離れたこともあるだろう。

「今日、奏也のクラスの萌子ちゃんと奏也が腕組んでたって聞いたけど?」

「私はもっと一緒にいたいのに、どうして時間作ってくれないの? 男子とは遊びに行く時間があるのに、どうして?」

「私はこんなに奏也のこと好きなのに、どうして好きって言ってくれないの?」

「ほんとに私のこと好き?」

 夢乃とは昼休みに一緒に弁当を食べていたけれど、こういう発言が増えたこともあって、俺は一緒に弁当を食べることを止めた。メールも電話も、あまり返信することもなくなった。夢乃から何か言われるたびに、俺の行動を逐一監視されてる気がして、すごく息苦しくなってしまったのだ。

 ケンカするほど仲がいいっていうし? 最初は夢乃の文句ひとつひとつに言い訳もしていたし、夢乃の機嫌も取っていた。だけど、それすらもだんだん面倒になってしまったのだ。

 三年生になると、受験という厳しい現実の毎日を過ごすことだけで必死で、夢乃のわがままに付き合うのに疲れたというのもある。受験へのストレスと、些細な喧嘩の積もりに積もったものが、三年生の冬にマジ喧嘩に発展して大爆発。

「彼女だからって、俺の友だちとの時間まで制限する権限はないだろ!」

「好きとか、愛してるとか、四六時中言ってる男なんていねーし! いたらいたでキモいわ」

「お前、バカじゃね?」

 彼女が言う言葉を全否定して。そして最後に言った言葉がやっぱりこれ。

「お前、マジめんどくせぇ」

 それが俺と夢乃が別れる原因になったように思う。言ってしまってから、夢乃のひどく傷ついた顔を目の当たりにして、正直後悔もした。でもどうしても「ごめん」が言えなくて、これで終りなら終わりでいいんじゃねぇの? そう思うことしか出来なかったのだ。

 そして、夢乃とはそれっきり。廊下ですれ違った卒業式の日でさえ声もかけず「さよなら」すら言わなかった。

 寝転がっていたベッドから起き上がると、テーブルの上のアルバムをそっと手に取ってみる。写真の中の俺と夢乃は、すごく幸せそうだった。初めてのデートで遊園地に行って、通りすがりの人に頼んで撮ってもらった写真。俺たちの後ろには観覧車が映っていて、その観覧車の一番高い所で、俺たちが生まれて初めてのキスを交わしたことを思い出す。

 俺も夢乃も、何もかもが初めてで、何もかもにドキドキして、何もかもが新鮮で。あのドキドキを持続できなかったことが、今更ながら急に悔やまれた。そしてその写真を見ながら、俺、すごくひどいことをしたんだな……と思った。

 確かに付き合い始めの頃と別れる頃では、夢乃に対する扱いがひどくなっていたのは事実だし、もっとちゃんと話をして、お互いに譲り合える場所を見つければよかった。最後に「さよなら。元気で」くらい言えばよかった。今頃そんなことに気づいても、もう遅すぎるのだけど。

 不意にスマホからメロディが流れた。俺は急いでスマホを掴んだ。このメロディは、愛結が好きだと言っていた曲で、わざわざダウンロードして設定した愛結専用のものだったからだ。

「もしもし……?」

 緊張しながら電話に出ると、向こう側から小さくすすり泣く声が聞こえた。

「も……なんで……なんで追っかけてきてくれないのよぅ」

 愛結はそう言って泣いていた。

「ごめん。俺、今やっと気づいてさ。愛結、今どこ? 迎えに行く」

 俺が言うと、玄関のドアをコンコン! と叩く音がした。俺はスマホを耳に当てたまま、玄関を開いた。と、目の前に愛結がいて、耳元で「勝手に見てごめん」と声がした。

「おかえり。俺こそ、ごめん」

 俺たちはスマホを閉じ、きゅっと抱きしめあった。

 俺はバカで、女心なんて分からないし、いや、分からないって決めつけて考えてみようと思ったことさえなかった。付き合うっていうのは、夢乃や愛結だけ、もしくは俺だけでは成り立たないわけで。お互いがお互いを大事にして、嫌なとこも、好きなとこも全部一緒に受け入れて考えるってことで。

 そんなの当たり前だろ! って言われそうだけど、俺、やっと今気づいたっていうか。数をこなせばいいってもんじゃないし、量より質っていうか。恋って、たぶんそんなものなんだ。

 あー、俺バカだから、うまく言えねぇ。

 だけど、決めた。これから何が起きようと、もう「面倒くさい」は言わない。俺なりに、俺らしく、相手のことを考えて付き合っていく。

 今更だけど、こんな大事なことに気づかせてくれたアルバムの中の夢乃。ありがとう。ごめん。さよなら。いつか……いつか夢乃本人に、ちゃんと向き合って、そう言えたらいい。

 俺は愛結を抱きしめながらそんなことを思った。

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