第4話 女の友情
「葉子(ようこ)!」
不意に自分の名前が呼ばれ、私は条件反射で振り返ってしまった。もう二度と聞きたくない。そう思っていた「声」のはずなのに。
私が急に立ち止まったせいで、一緒にロビーを抜けようとしていた同僚の実里(みのり)も足を止めた。私たちはお揃いの紺色の制服を着ており、このビルの中にあるオフィスで事務をしているOLだ。今は昼休みで、近くのカフェにランチに行った帰り。後十分ほどで午後の業務が始まる。
私が振り返ったすぐそばに、もう会うことはないだろうと思っていた彼の大きな影が落ちた。彼の背に陽が当たっているために、表情ははっきり見えなかったが、影の主である彼は、徐々に私たちへ間合いを詰め、その表情が露わになる。彼は私たちに屈託のない笑みを遠慮なく浮かべた。そして懐かしそうに私を見ながら、真っ白な歯を見せて笑った。相変わらず立派な体格だ。学生時代ラグビーをしていた彼は、今も身体を鍛えているのだろう。
「久しぶり! 元気だったか?」
相変わらずな物言い。隣りに立つ実里は何か言いたげに私の方をチラリと見た。誰なのかを知りたい。という合図だと理解し、私は紹介したくないと思いながらも、彼の方を向いた。
「秋山典彦(あきやまのりひこ)さん。二年前に別れた元婚約者。このビルの二階にある会社に勤務してたの。でも、転勤になったと聞いてたわ」
私が言うと、実里は更に何か言いたげな顔をしたけれど、その実里を遮って、典彦さん、昔は「典ちゃん」と呼んでいた彼が口を開いた。
「元ってひどいなぁ。俺たち、嫌いで別れたわけじゃないだろう?」
今更! そう思ったと同時に、気を利かせるべきだと思ったらしい実里が、コホン! と咳をひとつ。
「葉子、私、先に戻ってる」
余計な世話を! そう思う私を残し、実里はポニーテールを揺らしながら、ピンクのポーチを抱えて、さっさとエレベーターに向かって歩いて行った。制服の胸元で結ばれた濃いめの赤いリボンがエレベーターの中に消えていく。実里、助けてよ~。そう言いたいのを我慢して、私は目の前の彼と向き合うしかなかった。
元婚約者とはいえ、二年も前に破談になり、それ以来会ったこともなかった人。突然会った今、何を話せばいいのかすら分からない。戸惑っている私とは反対に、彼は嬉しそうに、あの頃の馴れ馴れしさそのままに言葉を続けた。
「葉子、今日の夜、飯でもどう?」
どういう神経をしているのだろう? 婚約破棄をした相手と何故今頃になって食事をしようと? それに私が応じるとでも?
二年前に忘れたはずの怒りが再燃するのを感じ、私はプイッと顔を背けた。
「行くはずがないでしょう? 私たち、他人なんだから」
冷たく言い放っても、典……もとい秋山さんは、諦めるでもなく笑った。
「俺たち、嫌いで別れたわけじゃないだろう? それとも、今付き合ってる彼氏でもいるの?」
さっきから何を言ってるのだろう? 私の胸の中に、あの頃の燻りが蘇ってくる。
『嫌いで別れたわけじゃない』
そうかもしれない。確かに「嫌い」という感情ではなかったかもしれない。でも、「嫌い」という感情で破局を迎えていた方が、あれからの私の生き方を左右する問題に発展することはなかったかもしれない。
「とにかく、もう話しかけてこないで。私と秋山さんは他人なんだから!」
「他人」という言葉を連呼し、くるりと回れ右をして走り出そうとした私の腕を、秋山さんがさっと掴んだ。腕を掴まれたせいで、勢いのついた私の身体が前のめりになり、その後バランスを崩した。倒れる! と思ったけれど、そんな私を秋山さんは難なく支え、気が付いたときにはその逞しい胸に手をついていた。
「俺のこと嫌いになったの? 何がダメなの? 俺、葉子とヨリを戻したくて本社勤務願いを出してさ。ようやく受理されて戻って来れたんだ」
切なそうに眉を寄せる秋山さんを見て、少しだけ心が揺れた。優しい人ではあるのだ。それは知っている。でも、優しいからこそ、私たちはダメになったのだ。私は慌てて秋山さんの胸から手を離し、一歩後ずさりをした。でもその間、私も秋山さんもお互いの目を逸らすことが出来ず、言葉を発することのないまま私たちは見つめ合っていた。そんな私たちの仲を裂くように、彼の胸ポケットから音楽が流れる。
彼、秋山さんは、逃がさないと言うように右手で私の手を掴み、空いている左手でポケットからスマホを取り出すと、慣れた手つきで操作をし、そのまま自身の耳へとスマホを当てた。
「もしもし? あぁ、母さん? うん。今、会社に着いて。着いたとたんにロビーで葉子と再会してさ」
彼の嬉しそうな声に、揺らいでいた心の動きが止まった。忘れてはいけない。私が秋山さんと結婚への道を踏み出せなかったのには「嫌いになる以上の理由」があったのだ。
私は秋山さんの手を振り払うと走り出した。驚いた秋山さんが「またかけ直す」と叫んだのが聞こえ、後を追いかけてくる足音。私は必死に走ると、エレベーターの「上」のボタンを連打した。でも、エレベーターは最上階にいて、一階に下りてくるにはまだまだ時間がかかる。すぐに秋山さんが追いつき、私の隣りに並んだ。息を弾ませる私とは裏腹に、彼は息すら上がっていない。
「どうしたんだよ? まだ話は終わってな……」
言いかける秋山さんに、私ははっきりと告げた。
「もうこれ以上、私に構わないで。本当に嫌いになんてさせないでよ」
私の目に涙が浮かんだ。二年前のあの時には流すこともなかった涙。私が泣いているのを見て、秋山さんはあの頃と同じに戸惑った表情を見せた。
「葉子、俺は納得してない。二年前、葉子に『破談にしてほしい』と言われた時も、きちんとした理由を言ってくれなかったよね? 俺、葉子に嫌われるようなことをした覚えがないし、今でも俺は葉子のことを……」
言いかける秋山さんの胸ポケットで、またメロディが流れる。秋山さんは私を見ながら、先ほどと同じようにスマホを取り出すと、再度耳に当てた。
私はエレベーターが早く来てくれないかとボタンの連打を続ける。
ビルのロビーだったこともあり、さっきから何事かと見物人が集まりつつあって、私は早くこの場から逃げ出してしまいたかった。
「母さん、後でかけ直すって。今、葉子と話してるところだから。え? あぁ。分かってる。だから、後でって!」
焦ったような声ではいるものの、相手の存在を尊重し、秋山さんが急いで電話を切ることはない。そんな秋山さんを見て、あの頃と何も変わってないのだと実感した。彼は、私といる時でも、何をしていても……
「ごめん。知ってるだろ? 母さんが心配性だってこと。今日、俺が本社に顔を出すって話してたし、同じビルに葉子が働いてるって知ってるから心配してさ」
秋山さんはポケットにスマホを入れ、照れくさそうに笑った。
「そう……」
忘れかけていた痛みが、私の心を疼かせ始めた。秋山さんのことは嫌いではなかった。好きだからこそお付き合いをしていたのだし、秋山さんからのプロポーズだから受けたのだ。でも、『結婚』という文字が実現する頃になって、私は気づいた。私が秋山典彦さんと結婚することで、秋山家とも『結婚』することになるのだと。
「母さんも葉子のことは気に入っていたし、葉子の気持ちさえ整えば、俺たちやり直せるんじゃないかな?」
嬉しそうに話す秋山さんを見て、秋山さんは良い人なのにな。と、他人事のように思った。たった二年前のことなのに、なんだかずいぶんと昔のことのような気がした。
「母さんも葉子に会いたいって言ってるんだ。だから、今晩……」
言いかけた秋山さんと私の前で、ようやくエレベーターの扉が開いた。ズイッと出てきたのは実里だ。そして、怒った顔で秋山さんの前に歩み寄ると、一言も発することなく、実里は秋山さんにグーパンチを放った。突然殴られた形になった秋山さんは、鍛えていることもあって倒れることはなかったけれど、一瞬呆気にとられた後、すぐに真顔になって、実里の方へ怒りを向けた。
「何なんだ! 君は!」
左頬を押え、秋山さんが大声を出す。ワラワラと野次馬が集まり、何事かと噂をする声が聞こえ始めた。そんな二人の間で戸惑っていた私だったけれど、実里が私の手を引っ張りエレベーターへと促した。実里は私と手を繋いだまま、部署がある六階のボタンを押すと、閉まろうとしている扉の向こうに戸惑いと驚きに満ちた顔で立ち尽くす秋山さんに言い放った。
「マザコン! 葉子がどれだけ傷ついたと思ってんの! あんたとの破談の後、葉子が一生結婚しないって言ってるのはあんたのせいだからね! 私たちの前に二度と顔見せるんじゃないわよ!」
実里はご丁寧にも右手の中指を突き立て、秋山さんへ思い切り「あっかんべー」までしてのけた。突きだされるだけ突きだされた実里の舌。普段から姉御肌ではあるけれど、実里が私のためにそこまでしてくれたことに驚いているうちに、エレベーターの扉が閉まった。その扉が閉まる一瞬、秋山さんの顔がひどく歪んでいるのが見え、私の心がまたギュッとなって鈍い痛みを感じた。
「葉子、あんた、バカ? はっきり言ってやれば良かったのよ。婚約者だって言いながら、一番の敵から守ってくれない男だから婚約破棄したんだって!」
エレベーターが静かに上へと昇って行く中で、言葉は荒っぽいけれど、実里の声が優しく響いた。私は実里の優しさへの有難さと、自分のバカさ加減が情けなくて、泣いた。
実里の言う通りだ。言ってしまえばよかった。でも、あんな人でも、一度は結婚しようと思った人なのだ。
「っくっく……」
声を押えて泣く私の背を、実里がそっとさすってくれた。
「泣くな! あんな男のためにもったいない。今晩、合コンセッティングしてやるから! 世の中、あんなマザコンばっかじゃないんだからさ。まだ若いんだし、結婚しないなんて決めるのは早いのよ!」
実里らしい慰め方だ。
「あー、それにしても痛かった~。葉子の恨みの分って思ったら、力入っちゃって! でもあいつ、鍛えてそうだもんね。あれくらいじゃ何ともなかったかな? 何か武器を持ってくれば良かった! それにしても、自分で殴ればもっとすっきりしたと思うのにさ。あんたって、ほんと人が良すぎ!」
右手を振って痛みを逃がしている実里。顔を上げた私は、実里の赤くなった右手を見て、なんだか笑えて来てしまった。そして思い出した。あの秋山さんの驚いた顔を!
「ふふ……ふふふ」
泣いてるんだか、笑ってるんだか、という私を見て、実里もまた笑った。
「さ、葉子、仕事よ! 仕事!」
六階を知らせるポーーーン! という音と共に、エレベーターの扉が開いた。扉の向こうから眩しいくらいの光りが射しており、不意に私はその光りを浴びている私の中から、燻っていた感情が消えていくのを感じた。
私がエレベーターから足を踏み出すと、すぐに背後でエレベーターの扉が閉まった。その扉は、私の過去へ繋がる扉のようにも思え、心が軽くなったのを感じた。並んで歩く実里の顔は見ず、涙をグイッと手で拭うと、私はボソリと言った。
「合コン、行ってみようかな?」
私の声が聞こえたらしい実里。クスリと笑った気配がしたと同時に、私の背がポン! と叩かれた。私が顔を上げると「まかせといて!」と笑い、ウィンクする実里の明るい笑顔があった。
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