第3話 プラチナリング
真っ白なティーカップを染める琥珀色に、黄色のレモンが浮かんで揺れている。そのレモンを華奢な金色のスプーンで取り出すと、彼女はそっとそのレモンを受け皿にのせた。そして、明るい色にカラーリングされた右側の髪をかきあげて耳にかけ、優雅にカップに手を添えてカップの中の液体をこくりと小さく飲み込んだ。
琥珀色を見つめていた瞳が、急に俺の方へ向けられる。
見慣れていたはずのその瞳に見つめられ、俺の心臓がどきん! と鳴った。
見とれてたことに気付かれないよう、俺は砂糖の入っていないブラックコーヒーをスプーンでかき回す。そんな俺の行動を、彼女は見透かしているかのように笑った。
「コウくん、全然変わらないのね。すぐに分かったわ」
ティーカップを持つ小さな指。俯くと分かる睫の長さ。少しはにかんだ様子の薄く染まった頬。
つい見とれそうになり、俺は「コホン」と咳をした。彼女がまた微笑む。その笑みを見て、俺もまた「君だって……」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。女性に「変わらない」という言葉は失礼な気がして。それに、彼女は基本的な部分は変わらないように見えるけれど、あの頃よりずっとキレイになっていて、輝いて見えた。
「びっくりしたよ。こんなところで会うなんて」
俺が言うと、彼女もまた「ほんとにね」と囁いた。
俺たちは、人通りの多い交差点近くのカフェにある、屋外のウッドデッキに設置されたテーブル席に座っていた。俺は通りに背を向け、彼女と、彼女の背後に広がる店内を見ていた。彼女は時折眩しそうな目をしていたけれど、陽射しを嫌がるでもなく、とても楽しそうに見える。こうして二人でテーブルを挟んで向き合っていると、あの頃に時間が巻き戻っていくような錯覚を覚えた。
初めての恋。本気で愛するという気持ちを教えてくれた女(ひと)。忘れたくても忘れられない、俺の一部だった女(ひと)。
俺は徹夜明けで、ヨレヨレになった上着を片手に、横断歩道で信号が変わるのを待っていた。ここのところクライアントとの案件が軌道にのらず、その上、昨夜は後輩の江下(えした)がミスをして、その修正に追われているうちに終電を逃した。会社の一人がけの椅子を横に並べて、とりあえずの睡眠は確保したものの、急ごしらえのベッドは寝心地が最悪で、安眠とは到底言えなかった。意識があるまま横になり、ふわふわした時間を過ごしただけ。始発の時間に合わせてセットしておいたアラームが鳴って起きたけれど、またそこでミスが発覚したと誰かが部屋に駆け込んで来て、始発にもそれ以降の電車にも乗れなかった。結局、ミスを修正するのに昼過ぎまでかかってしまったからだ。
「すみません!」と頭を下げ続ける江下に「気にするな!」と声をかけながらも、気を抜くと寝てしまいそうになり、俺は精一杯の強がりで背伸びをした。そんな俺を見て、さすがに働かせすぎだと感じたのか、課長が午後休を取っていいぞ! と声をかけてくれた。
やっと帰れる。俺は眠気と闘いながら会社を出た。家のベッドで寝るなんて、何日ぶりだろう?
誰が待つわけでもない狭いアパートだけれど、自分の空間に帰ることができるのは何よりのリフレッシュ。
駅前のスーパーで惣菜でも買って、ちょっと奮発して贅沢ビールを。今日は寝るぞ! そう心に決めて、信号待ちしていた俺。寝不足の俺には、太陽の陽射しが眩しくてたまらない。
信号が赤から青に変わり、最初の一歩を踏み出そうとしたとき、俺のYシャツがピン! と張った。その振動で俺が振り返ると、陽射しよりも眩しすぎる笑顔と懐かしい声。
「やっぱり! コウくん! 久しぶり!」
俺のYシャツを握りしめていたのは、元カノ。七年前に別れた美琴(みこと)だった。
「相変わらず忙しいの?」
あの頃にはつけていなかったマニキュアが、やけに目に付いた。ティーカップに手を添えているからかもしれない。美琴の指がやけに気になり、目が逸らせない。
「うん。中堅に入って来たしね。昨日も後輩のミスで徹夜したんだ」
「コウくんに後輩が出来たなんて、なんだか新鮮!」
美琴と付き合っている頃は、まだ新入社員もいいところ。昨夜のミスを作った原因である後輩江下よりも、もっとすごいミスを連発していた。そのたびに、クライアントに頭を下げ、上司とともに「申し訳ありません」と連呼していたのを思い出す。
「時間が経ったのねぇ」
しみじみ言う美琴。その美琴を見つめながら、俺たち、なんで別れたんだったっけなぁ? と考えていた。
好きだった。本当に。美琴の初めてをもらったのは俺だったし、俺が美琴を幸せにするんだ。と思っていた。俺なりに責任を果たすつもりでいたし、俺の未来には美琴が一緒にいるのだと疑うことなく信じていた。
「今、付き合ってる人いるの?」
唐突に聞かれ、俺は顔を上げて美琴を見つめた。首をかしげてこちらを見ている美琴が、たまらなく可愛く思えた。
別れたくて別れたんじゃない。そうだ。俺の仕事が忙しすぎて。会えない時間が増えて。寂しすぎる。美琴がそう言って……
「いや、あれから付き合った子はいないよ」
俺が言うと、美琴は目を見開いた。驚いた顔だった。
だって、そりゃあそうだろう? 俺は美琴しか見ていなかった。美琴と生きて行くと密かに決めていたのだから。
お互いに気まずい空気となり、言葉が途切れた。
もしかしたら、これは神様がくれたチャンスなのかもしれない。勝手にも、俺はそう思った。
ずっと美琴を思い続けていたのか? と聞かれたら、すぐに「そうだ」と頷けるわけではない。仕事が忙しくて、色恋に割く時間がなかった。美琴と別れて仕事に没頭しているうちに、今に至っていた。というのが、正直な俺の七年。
でも、こうして時間が経過した今、それでも美琴と俺を引きあわせるモノがあるのだとしたら、それはもう運命としか言いようがない。俺は勝手な理屈をつけて、美琴に言葉を発しようと身構えた。今更かもしれない。何を勝手なことを! と怒るかもしれない。そう考えると、かつての恋人相手だとしても、やっぱり緊張する。いや、かつての恋人だからこそ緊張するのか?
「美琴、俺……」
意を決し言いかけた俺のずっと向こう、通りの方へ大きな瞳を動かした美琴が、俺の背後へ向けて大きく手を上げた。美琴が椅子から立ち上がる。俺は、美琴の動きを目で追った。美琴の姿を追っていた俺は、自然に生垣へ振り返る形となる。
美琴は、通りとカフェとの間にある生垣の方へ進み、その生垣の向こうに立つ男と親しげに言葉を交わした。男の腕の中には、泣きじゃくっている女の子がいた。
「コウくん、紹介するわ。娘の瑠奈(るな)と主人よ」
生垣の向こうの男が俺に向かって軽く会釈をしてきた。俺も慌てて頭を下げる。
「友達?」
美琴に尋ねる男の声。余裕。というのだろうか?
生垣の向こうにいる男は、俺と美琴のことを少しも疑っていない。ただの友だちだと思っている。美琴が友だちと偶然に会い、カフェでお茶していたのだと。そして美琴もまた、「えぇ」と頷き、美琴によく似た瑠奈ちゃんの髪を撫でながら「泣かないの」と母親らしいことを言っている。
俺がここで「元カレです」と言ったら? 美琴を返して欲しいと言ったら? 幸せそうな三人を見つめながら、俺の中で葛藤が生まれた。
ブチコワシテシマエ!
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
「コウくん、瑠奈がぐずってるから行くわ」
美琴のダンナさんがカフェの入り口の方へ歩いていくのを見て、美琴も慌てて椅子に置いていた自身のバッグを手に取った。
「久しぶりに会えてうれしかった」
そう言う美琴の顔に、ちょっとだけ翳りが見えた気がした。その表情を見る限り、俺は美琴に嫌われているのではないと確信した。やっぱり、やっぱり、ここで言わないと! そう思って、口を開こうとすると、美琴が俺を制した。
「ごめんなさい」
美琴の目にうっすらと涙が溜まって行くのが見えた。
何がごめんなさい? 何故謝るの? それに、何故泣くの?
美琴はバッグからハンカチを取り出すと、そのハンカチで目頭を押さえた。そのとき、ハンカチの中から何かがウッドデッキの床へコトン! と落ち、コロコロと俺の方へと転がってきた。
俺はテーブルの下へしゃがみこむと、足もとに転がってきたものを指で摘まむ。俺の親指と人差し指に挟まれたソレは、華奢な銀色の輪。俺にはどれくらいの価値なのか検討もつかないけれど、その輪のまわりにはダイヤがぐるりと一周飾られていた。
「私……」
声を詰まらせる美琴の手のひらに、俺は銀の輪を握らせた。
「大事なものなんだろ? 外したりするなよ」
そう言いながら、俺の体の中で何かがぎゅうううっと音を立てた。七年前に美琴と別れたときよりも、今の方がずっと悲しかった。苦しくて、せつなくて、怒りも湧いて。でも、それらを美琴にぶつけるわけにはいかなかった。七年前の俺が悪いのだ。あの時の俺が、美琴にこんなことをさせてしまったのだから。
そしてあの頃の俺と美琴の日々が急に頭の中を駆け巡った。
そうだ。俺と美琴は、別れ話さえしなかったのだ。俺が仕事で忙しく、連絡も途絶えがちで。そうして、そのまま自然消滅へと向かい、弁解もせず謝罪もせず七年。
美琴は、俺が手のひらにのせた銀の輪をぎゅっと握りしめ、俺をじっと見つめた。その目は、俺にあの頃と同様の言葉を求めていると物語っていた。それを俺は感じたし、俺だって言ってしまいたい欲求に負けそうになったけれど、その言葉を発するわけにはいかなかった。
俺の無責任な一言が、美琴を含めるひとつの家族を崩壊へと導いてしまう可能性がある限り、不用意な発言をするわけにはいかない。
俺が何も言わないのを見て、美琴は手のひらの輪を更にぎゅっと握りしめると、一度俯き「さよなら」と一言だけ呟き、もう俺のことを見ることなくそのままカフェを出て行った。
俺はもう美琴を目で追う勇気も出ず、その場に立ちつくし……扉がカラン! と音を立てたのを聞いた。
俺はドカッと椅子に座りこんだ。会社で感じていた眠気は、緊張と共に一時的に感じなくなっていたけれど、美琴が去った今になって、どっと襲いかかってきた。
ここで、このまま眠りに落ちてしまいたい。そして目が覚めたとき、全てが夢だったと。美琴を愛したことも、美琴と再会したことも、美琴という女性がこの世界に存在したことも。全て夢だと思えたらいいのに________そう思えて仕方なかった。
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