第2話 青葉の季節に
青々とした葉が茂る幹の下に立っている彼。たくさんの葉のせいで影が出来、はっきりと顔は見えない。でも、すらりと伸びた足や気に入っていつも履いているダメージジーンズの色が、彼であることを告げていた。私には分かる。彼だ。二つ年上の千成(ちなり)先輩。
会うのはどれくらいぶりだろう? あまりに久しぶりで、私の胸は、壊れてしまうのではないかと思うくらいドキドキと早鐘のように波打っていた。
先輩が立つ木のそばへと近づいていくと、葉の影に隠れていた千成先輩の顔が少しずつ見えてくる。
顎のラインからゆっくりと明かされていく千成先輩の表情。すっきりとした顎の次に見えたのは、少しだけ微笑んでいる薄い唇。微笑んでいるために緩められた頬。一歩、一歩と近づくたびに、千成先輩の表情が現れる。千成先輩の口元からも分かるように、その切れ長の目もやはり細められていた。整えられた眉も、左側の前髪が少しだけ長いことも、いつも着ている黒いポロシャツも。何もかもあの頃と何ら変わっていなかった。
先輩は私が来ることを知っていたらしく、こちらを向いて穏やかな笑顔を向けている。
千成先輩に会えて嬉しいはずのに、後少しというところで私の足が動かなくなってしまった。私は自分でも信じられないくらい緊張していたようだ。近づきたいのに、進めない。何て、何て、もどかしい!
そんな私を見て、千成先輩がこちらへと歩いてくると静かに手を差し出してくれた。何度も繋いだことのあるその手を私の前に広げ、微笑みながら「おいで」と言う先輩。
私は迷うことなくその手を取った。心なしか冷たく感じたけれど、千成先輩に会えたことが嬉しくて、その冷たさの理由を考える余裕はなかった。
「のんちゃん、緊張してるの?」
千成先輩の声が、柔らかく私の鼓膜で響く。千成先輩の声。千成先輩の声だ。
「だって……すごく久しぶりで。千成先輩、変わってないんだもん。あの頃のまますごくカッコいい」
私は言いながら、恥ずかしくなって思わず俯いた。そんな私を見て、先輩がクスリと笑った気配。
「のんちゃんは綺麗になったね」
千成先輩はそう言いながら私の手を取って『コイビトつなぎ』にすると、青葉の下からゆっくりと歩き出した。私も先輩に手を引かれるまま、青葉の下を出る。
公園の中には誰もいなかった。天気がいいし、誰かいてもよさそうなものだけれど、しーんと静まり返っていた。ホントはいろんな音がしているのだと思う。蝉の声や噴水から噴き出る水の音。私たちの髪を揺らす風の音だってしているはずだった。ただ、私が緊張しすぎて、先輩の声以外何にも音が聞こえなくなっているだけなのだ。
「のんちゃん、髪の毛伸びたね。それにカラーリングもしてるし、ピアスも開けてる。のんちゃん、大人になったって感じ。すごく似合っているよ。お化粧も様になってるし、ライバル倍増してるんだろうな」
ゆっくり歩きながら、千成先輩が囁く。私は千成先輩に褒められることが嬉しくて、頬が熱くなるのを感じた。こんなに甘いことを言われて、嬉しくないはずがない。
「のんちゃん、仕事はどう?」
先輩が私に聞いてきた。斜め上からの視線を受け止め、私は答える。
「楽しいですよ? まだまだ覚えなきゃいけないことがいっぱいあって、ドジも多いけど、いろんな人たちに可愛がってもらってます」
千成先輩がふふっと笑った。
「のんちゃんはいつも一生懸命だから、誰にでも好かれるんだよね。変わらないなぁ」
そう言いながら遠くを見つめる瞳。その目が寂しそうに見えて、私は先輩の方を見上げながら、つないだ手にぎゅっと力を入れた。
「先輩だって!」
そう言いかけて、アレ? と思い当たった。千成先輩は、何のお仕事をしているんだったっけ? 千成先輩はどこの大学に行ったんだっけ?
千成先輩……一緒の中学に通う二つ年上の先輩。中学の頃、昇降口に傘を置き忘れたことで出会った私たち。それからちょこちょこと千成先輩が声をかけてくれるようになって、私たちは一緒にいることが増えた。そこまでは思い出せるというのに、それからは……?
頭の隅っこに、何かが引っかかっている。でも、それが何なのか、靄がきれいに隠してしまって思い出せない。何だっけ? とっても大事なことのような気がするのに。どうして思い出せないの?
「のんちゃん覚えてる? あの時もこんなふうに青々とした葉がきれいでさ」
手を繋ぎながらも葛藤している私に気づいているのかいないのか、千成先輩の話しが続く。
「俺、ずっとのんちゃんのこと大事にしようって決めてたんだよ」
青々とした葉。
ずっと。
大事に。
三つのそのワードで思い出されるのは、千成先輩との初めてのキス。
そうだ。あの時も、こんなふうに手をつないで歩いてた。あの青葉の下で、私たちは……
「付き合って」とか「付き合おう」とか、そういう話しになったことはなかった。でも、千成先輩と私の間には確かに「気持ち」があって、それはお互いに、どちらが言いだすか? というカケヒキ遊びみたいなものになっていた。お互いに「好き」だと分かっていながら、お互いにわざと言い出さずにいたのだ。
なのに、言葉にするよりも早く思いが溢れて、あの日……私と千成先輩は唇を重ねた。その後、照れたように二人で笑ったことを思い出す。
「のんちゃんのこと、俺、ずっと大事にしたいんだ」
先輩が言ってくれたのはそれだけ。キスをしたのに、その瞳の中にそれ以上のものを求める意思だって見えていたのに。それなのに、あの日もお互いに「付き合って」とは言えないまま……。
あの時のキス。先輩がそっと触れただけのキス。そのキスを思い出した途端、突如として私の目に涙が溢れた。涙が止まらない。次々に頬を流れ落ちていく涙。
何故? 何故、私は泣いているの? せっかく千成先輩に会えたのに。ようやく、ようやくまた会えたのに。
先輩は私の手を引くと、そのまま私をぎゅううっと抱きしめてくれた。先輩に抱きしめられていることが嬉しいはずなのに、先輩の身体からは温かさを感じず、その冷たさに驚く方が先だった。
「のんちゃん、ごめん。キスよりも先に、言葉にしておけばよかった。そうすれば、のんちゃんをこんなにも縛らずに済んだのに」
悲しげな声を絞り出すかのように吐きだす先輩。
「先輩?」
溢れる涙をそのままで千成先輩を見上げると、先輩の唇が降ってきた。千成先輩の唇は、あの時と違って、やはりとても冷たかった。
「好きだよ」
千成先輩の言葉は、私の心に氷の刃となって突き刺さる。嬉しいのに、痛かった。この言葉を願っていたというのに、悲しかった。
「千成先輩!」
私が千成先輩の背にしがみつくように抱きつくと、千成先輩もまた私をぎゅっと力強く抱きしめてくれた。確かに抱きしめらている感触はあって、私のそばに千成先輩を感じた。でも、その感触は次第に薄らと消えていく……
「ありがとう。今迄ごめんね。さよなら」
微かに、千成先輩の声が聞こえた。そして気が付くと、私はあの青葉の木のそばに一人佇んでいた。蝉の声がジーワ、ジーワとうるさい。
「森谷家」
その苗字が刻まれた墓石の前には、鮮やかな花が生けてあった。手向けられたばかりのお線香から、白い煙が流れている。私は百合の花束を持ち、その墓石の方へと近づいて行った。石畳をヒールで歩くたび、コツコツと音がする。その音に気づいて、墓石の前で跪いていた人が顔を上げた。私がここへ来るなんて思ってもいなかったのだろう。その人は驚いた顔で立ち上がった。
「希(のぞみ)ちゃん?」
千成先輩のお母さんは眩しそうに私を見て、涙ぐみながらも微かに微笑んでくれた。その笑みに、千成先輩の面影が重なる。
「覚えててくれたの? もう十年になるのに」
おばさんはそう言って墓石の前から離れ、私に場所を譲ってくれた。私はおばさんに小さくお辞儀をすると、墓前へと進み花束を捧げ手を合わせた。背後からおばさんの声が耳に流れてくる。
「千成、小さい頃から腕白でね。みんながやらないようなことばっかりやって手を煩わせてくれたけど、今になって思うの。あの子、自分の寿命を知ってて、生き急いでたんじゃないかしらって。だから、心残りのないように、やりたいことばっかりやっていたんじゃないかしらって……」
お参りを済ませた私が立ち上がり、おばさんの方へ振り返ると、おばさんは微笑んだままだった。ついこの間のことのように思えるのに、やはり十年もの月日が流れていたのだ。おばさんの髪の毛は、あの頃とはくらべものにならないくらい白くなっていた。
「みんな大人になったのに、千成だけはあの頃のまま、大きくなんてならないんでしょうね」
墓石を見つめているおばさんが呟く。
「おばさん、千成先輩が会いに来てくれたんです。あの頃のまますごくカッコよくて……」
こんな話し、信じてもらえるわけがない。そう思いながらも、言わずにはいられなかった。先輩が会いに来てくれたなんて、他の誰にも言えなかった。だけど、おばさんにはどうしても伝えたいと思っていた。私の話しを聞いたおばさんの目にうっすらと涙が溜まっていく。
「千成ったら。のんちゃんにだけ会いに行くなんて、狡いわ。私にだって会いに来てくれたっていいと思わない?」
おばさんはふざけた口調でそう言ったけれど、母として先輩を見守ってきた愛情を感じた。
「のんちゃんにはどうしても伝えたかったんでしょう。あの頃、千成ったら、子どものくせに『カケヒキだ』とか言って強がっていたけれど、のんちゃんに『好きです』って言いたくて言いたくてたまらない様子だったから。最後も……言えるような状況ではなかったから……」
どくん! ……どっくん! 心臓の血流が激しくなる。忘れたかった。忘れてしまおうと努力していたある事実が私の脳裏に浮かびあがってきた。体が震えそうになるのが分かり、私は自分の身体を抱きしめた。そんな私の肩をおばさんがそっと抱きしめてくれる。
千成先輩は、中学を卒業すると私立の高校へ通い始めた。そして、学校で禁止されていたにも関わらず、バイクの免許を取った。バイトを掛け持ちして、ようやく買ったスクーター。それを自分なりにペイントして、ガレージで磨いていた姿を思い出す。
「俺の後ろはのんちゃん専用だから。ヘルメットも買ってあるし、次の日曜、これでどっか遠出しようぜ!」
そう約束していた矢先。
千成先輩は、ガソリンスタンドでバイクの前にしゃがんでスクーターを洗っていたらしい。千成先輩は何も悪くない。何にもしていない。なのに! 千成先輩はガソリンスタンドに入って来た車にバイクと一緒に弾き飛ばされ、そのまま……即死だった。
どれだけ泣いたかわからない。どれだけ千成先輩を呼んだかなんて数えられない。心臓がえぐられて、体中が鉛みたいに重くなって、手も足も自分では動かせなくなって、考える力もなくなって、食べるのも、生きるのも、全てがどうでも良くなって。
あれから私はどうやってここまで過ごしてきたのか? 千成先輩を探しながら、千成先輩がいないことを認められないまま、今まで生きてきたのだ。友達や家族に支えられ、ようやく先輩のことを「思い出」の中に封じられたというのに。
千成先輩がくれた「好き」は、ようやく手に入れたものだったけれど、何故今頃になって? とも思う。だけど、私がようやく、ようやく千成先輩の声を聞ける状態になったからかもしれない。
おばさんが私を抱きしめていた腕を解き、二人で一緒に、千成先輩の墓石の前に立った。私はずっと言いたくて言えなかったことを。私が生きてきた人生の中で、初めて抱いた私の気持ちを声にした。
「千成先輩、好きでした。ありがとう」
涙がまた溢れてくる。私の肩を撫でてくれる温かい手。
十年という長い時間がかかったけれど、私は、ようやく、ようやく今、前を向く。
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