サヨナラノワケ

恵瑠

第1話 心のカタチ

 休みの日になると、私は決まって図書館へ行く。

 市の図書館もいいけれど、蔵書の量や種類の豊富さ、そしてさまざまな企画が開催されることもあって、私は県の図書館へ通う。もちろん、自宅から近い。というのも理由に挙げられる。でも、私が県の図書館にこだわっている最大の理由。それは……。

 さりげなく、あくまでもさりげなく、私は洋書の棚に近づく。そして、ろくに読めもしない洋書を、いかにも探しています! と見えるように装って、本の背表紙に触れタイトルを見る。目的があって探しているわけではないからどの本でも同じこと。とりあえず、この洋書の棚の向うにあるテーブルが見える位置を確保したい。それだけなのだ。

 今日もいつものように、洋書の棚を見上げながら、目的のテーブルが見える位置をゲットすることに成功した。そうっと顔を出し、棚からそちらを見てみたが、いつもいるはずの人影はなく、そのテーブルには誰も座っていなかった。テーブルを見つめるのに邪魔にならないよう、真っ黒で恐ろしいほどにまっすぐの、纏めるのに苦労するほどに多い量の髪の毛を、気合いを入れて後ろに束ねてきたというのに。

「珍しい……」

 思わず呟いた私の背後から「すみません」と声が聞こえ、私も慌てて「すみません」と言いながらその場から少しだけ退いた。きっと誰かの邪魔になったのだ。そう思いながら振り返った瞬間、私の体は硬直してしまった。だって私の目の前に、私がこの図書館に通う最大の目的である『図書館の君』が立っている。

 こんなに間近で彼を見たのが初めてで、私はドギマギしながらも、彼から目が離せなかった。ちょっとだけカールした前髪。これは天然? それとも寝癖? 優しい眼差し、穏やかな口元。ポケットに挿してある黒いフレームのメガネは、彼がいつもかけているものだ。大人の香りが辺りをに漂う。

「あ、あ、あの……」

 たどたどしい私を彼は不思議そうに見て、私の背後の棚を指さした。

「その本を借りたいんですが」

「あ、すみ……ませ……」

 彼の腕が伸び、男の人にしてはきれいで細い人差し指が白い背表紙に触れた。私はそれをスローモーションのように見ながら、これはチャンスだ! しっかりしろ! と、私の中の誰かが声を上げるのを聞いた。最初で最後の最大のチャンスなのかもしれないのだから! と。

 私は、彼が取り出そうとしている本を慌てて掴んだ。彼の長い指と私の指が微かに触れる。たったそれだけのことに、顔が熱くなってくる。

「わ、私も、この本探してて!」

 彼は私を見下ろし、一瞬何かを考えた様子だったけれど、取り出しかけていた本を抜くと、私の方へ差し出した。

「探していたのは君が先だったみたいだから、お先にどうぞ」

 ちょっとだけ微笑んだ彼は、そのまま去ろうとした。私は、読めもしない洋書を持ったまま、彼の着ているセーターの裾を急いで掴んだ。びよーんと伸びたセーターに引かれ、彼が振り向く。

「あ、あの、先に拝見する代わりにと言ってはなんですが、良かったらコーヒーだけでもご馳走させてください!」

 この図書館にはカフェが併設されている。そのことを知っていた私の精一杯のナンパだった。そんなことを思いもしていなかったらしい彼は、とても不思議そうな顔をした。

「君が読んだあと借りるので問題ないです。気にされないでください」

 あぁ、伝わらないって、こんなにも切ない。

 生まれて初めて逆ナンというものにチャレンジしたというのに、ナンパだということに気づいてももらえていないらしい。でも、ここで諦めたらもう勇気は二度と出ない気がした。

 今日だけ頑張ってみよう! 今だけでも頑張ってみよう! そう決意するも、私はかなりテンパっていた。

「あ、の、好き! 好きなんです!」

 逆ナンも初めてながら、面と向かっての告白も私にとっては初めてのこと。実を言えば、この時点で告白しようなんて思ってもいなかったというのに。彼はさすがにびっくりした顔で私を見たけれど、真っ赤になっているであろう私を放って去ることは出来なかったらしい。

「じゃあ、そこのカフェに」

 私はパニックになりながら、彼の後ろを付いて行った。

 これから何を言えばいいんだろう? 私の想いを伝えるにはどうすればいいんだろう?

 頭の中がぐるぐるになって、何がどうなったのかよく分からない。気が付いたら、カフェの窓際の日当たりの良いテーブルに彼と向かい合って座り、目の前でコーヒーが湯気を立てていた。そこで私はようやく少し冷静さを取り戻した。「ご馳走させてください」と言ったくせに、「ご馳走してもらっている」ことに気づいたのだ。

「あの、あの……すみません!」

 思わず頭を下げると、彼はまた少し微笑んだ。いつもは静かに本を読んでいる姿を見ているだけなので、こんなふうに穏やかに笑う人だということを知ることが出来て、それだけで私の心がほわっとする。

「君、ここをよく利用されてるよね?」

 コーヒーを飲みながら彼が言った。短めに着られた爪。やっぱりきれいだと思うその指が、コーヒーのカップを無造作に持ち上げては口へと運ぶ。そのしぐさに見惚れながら、私の存在に気づいてもらえていたという事実に有頂天になってしまう。

 知ってるの? 私を? 覚えてくれてるの? 私を?

 棚から覗いてただけの私を、彼が見ていてくれた。単純かもしれないけれど、素直に嬉しいと思った。なのに……。

「君くらいの年齢のときは、少し年上の男に憧れるものだし、話したこともないのに『好き』というのは、間違いなんじゃないかな?」

 ふわふわと空を舞っていた私は、その言葉で一瞬にして奈落の底に突き落とされた。

「君が嫌いとか、そんなことではないんだ。ただ、期待されても困るからはっきり言うよ。僕はもう人を好きになることはない。だから、これで」

 飲みかけのコーヒーを片手に持って立ち上がろうとする彼に、私は急いで声をかけた。

「待ってください! 私、まだ何も言ってません! 勝手に一人で自己完結しないでください! 私が勘違いしてるとか、間違いだとか、私の気持ちを勝手に決めないで!」

 叫びながら、涙がこぼれてきた。思わず立ち上がって叫んでしまったため、周囲の人がチラチラとこちらを見ている。でも今は、そんなことに気を留める余裕もなかった。

 確かに、話したことはない。おそらく、私より七、八歳くらいは年上だろうと思っていた。落ちついた雰囲気と、大人だけが持つことを許される危険で甘美なオーラ。でも、だからって「間違い」だと勝手に決められてしまっては、私の気持ちはどうなるの? そもそも「話したことがないから『好き』だというのは間違い」という仮説が正しければ、『一目ぼれ』や『片想い』は成り立たない。

 私はストンと椅子に座ると、テーブルの淵を見つめながら言葉を続けた。

「私、花帆(かほ)です。二十六歳になりました。OLで事務職をやっていて……」

 自己紹介を! そう思って必死に自分のアピールを始めた私に、彼は立ったままでそっけなく言った。

「止めよう。お互いのことを知ったところで、始まることはないのだから」

 グッと言葉に詰まり、私の喉の奥できゅううううっと小さな音がした。

 何がダメなの? 何が彼にこう言わせるの? 私のどこがダメなの?

「私、あなたが静かに本を読んでいらっしゃる姿を見て、いいなあと思いました。ページをめくる指が長くてステキだなって。それ以来、どうしてもあなたを目で追ってしまうし、あなたは私のことなんて知らないと分かっていたけれど、どうしても会いたい! そう思って、毎週ここへ来てました。あなたは『間違い』だとおっしゃるけれど、そういう気持ちを私は『恋』だと思っています。だから、あなたに『好き』と伝えたい。そう、思いました」

 涙の溜まった目で、でも泣かないように精一杯目を見開きながら、私は必死に彼に伝え続けた。お付き合いをするとか、そういう以前の問題ではあるけれど、簡単に『間違い』だなんて言って欲しくなかった。

 彼は少し考える様子をみせたものの、もう一度私の真向かいの席に腰を下ろしてくれた。そして、私の方へ視線を戻し、顔を上げた私の目をしっかりと見つめた上で大真面目な顔で言った。

「僕は二年前に妻と死別しました。今でも彼女を愛しているし、彼女以外の人を愛そうと思ったことはありません。君の気持ちを『間違い』だと決めつけてしまったことに関しては謝ります。でも、僕には君を受け入れることは出来ません」

 彼の言葉を聞いてしまってから、私は自分のしでかした事の大きさを痛感した。言いたくないことを言わせてしまった。彼が触れられたくないところへ踏み込み、引っ掻き回してしまった。けれど、その告白を受けて、私は改めて、自分は彼に必要な存在なのではないかと考えた。彼を救えるのは私なのだと。弱っている彼の痛みを和らげられるのは私だけなのだ。と。

「私とお付き合いしていただけませんか? 『好き』じゃなくてもいいんです。そのうち『好き』になってもらえればいいし、奥さんの代わりでも構いません!」

 私は必死だった。傷心の彼を慰めていれば、もしかしたら私の方を向いてくれるかもしれない。今思えば、そんな打算的なことを抱いていたような気がする。でも、私がそういう提案をすればするほど、彼は悲しそうな顔をした。

「『代わり』なんて誰にもできないよ」

 ボソリと呟かれた言葉がうまく聞き取れなかった私が「え?」と聞き返すと、彼は切なそうに眉を寄せた。優しげな瞳が憂いに満ち、遠くを見つめる。

「僕の心の中には妻のカタチがあって、そこには彼女以外の人はハマらないんだ。君のカタチと妻のカタチは全く違う。カタチが同じ人なんて、この世の中には誰もいないんだ。つまり『代わり』が出来る人なんて、どこを探してもいないんだよ」

 彼が奥さんのことを今でも深く愛していると感じた。でも、私は認めたくなくて。彼が悲しくて。彼を救いたいという身勝手な気持ちも働いて。

「それって、それって、悲しすぎるじゃないですか! もう亡くなった人のことなんて忘れて、別の人と明るく生きて行くことを選ぶべきです! 奥さんだって、それを望んでいるはずです! 後ろ向きに生きるんじゃなくて、前を向いて生きてって、奥さんだって絶対に思っていると思います!」

 私はムキになって言った。彼が病んでいるようにも思えたし、亡くなった奥さんに勝手に嫉妬したのかもしれない。

「君は僕のことを好きだと言ってくれるけれど、その思いはすぐに『代えられる』ものなのかな?」

 彼の目には冷たい色が映し出されていた。その冷たい目の色には、先程見た笑顔はもうこれっぽっちもない。その目をみたら、私は何も言えなくなってしまった。

「君の心の中にある僕のカタチに、すぐに他のカタチを埋め込める?」

 私の心の中にある彼のカタチ。そこに他の誰かを埋め込んでしまおうなんて、今はまだ考えることなど出来るはずがなかった。

「それは……」

 私が言いよどむと、彼はきっぱり言い切った。

「すぐに埋め込めるようなら、これは『恋』ではなくて『憧れ』だよ。本当の『恋』を探した方がいい」

 彼は私を見つめて、一度だけにこりと微笑むと席を立った。彼の微笑みは優しげに見えたけれど、今見た笑みには優しさのカケラもなく、私は何も言う言葉が見つからなかった。テーブルから離れて行く彼の後姿を見送る私の頬からは、とめどなく涙が溢れた。

 少し落ち着いてから目の前のコーヒーに口を付けると、もう珈琲はすっかり冷えており、口の中だけでなく、心の中にも苦味だけが残った。

 翌週、いつもの時間にこの図書館を訪れてみたけれど、そこに彼の姿は無かった。それからも彼に会うことはなく……

 彼の心の中に空いたカタチに、私はフィットしなかった。私の心の中のカタチも、今のところ誰かに埋められることもなく彼のカタチに空いたままだ。お互いに相手を好きだと思うこと。その人を愛するということ。自分の心の中のカタチにぴったりハマる相手がいるというのは、奇跡と呼ぶべきことなのかもしれない。

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