第9話 企てられたハジマリ

 「琴子? 今どこ?」

 電車から飛び降りながらスマホでせわしない声を聞く。気持ちだけが焦り、ドキドキがおさまらない。

「今駅についたとこ。これからタクシーで急ぐから!」

 私が飛び降りた電車は、何事もなく扉が閉まり、電話の声をかき消すような音をさせて走り去った。

「ううん。慌てなくていいわ。おじいちゃん、たった今……」

 おじいちゃんが危篤になったと連絡が入ったのは、今日の明け方のことだった。それから慌てて荷物を作り、ネットで飛行機の空き状況を調べながらタクシーで空港へ。空港はまだ動いていなかったけれど、ロビーにはたくさんの人がいた。

 その人たちがどう動いていたのか、何を話していたのか、全く気にもならないほど私は動揺していた。チケットを手にして初めて会社に連絡を入れていないことに気づき、慌てて有休の申請をした。いつも叱り飛ばされてばかりの上司も、今日ばかりは「気を付けて行って来い」と声に優しさを感じた。

 分かってたはずだった。こうなることは。この数か月調子が悪いことは、母から聞いてたのに。そのうち帰ればいいからって。桜の季節に帰れば、おじいちゃんは喜んでくれるはずだから。そんなふうに勝手に……

 私は飛行機へ乗り、ただひたすら間に合いますように……と祈り続け、飛行機を降りると在来線に乗り換え、ようやく自宅近くの駅に降り立った。

もう少し! もう少しだから! そう祈っていた矢先の電話。

私は「急がなくてもいい」という母の声を聞いて、途端に力が抜けた。本当に全身から、私の持っている力がすべて抜け落ち、立っていられなかった。私は改札口を出てすぐの、小さな待合室のベンチに荷物をずるずる引きずりながら座り込んだ。ベンチのくすんだ色も、すわり心地の悪い硬さも、うなだれている私を無遠慮に見ながら行き交う人々の視線も、全く気にならなかった。

 あぁ、間に合わなかった……後悔ばかりが自分の中に渦巻き、悲しいという感情よりも、悔しさの方が大きくて。

 どれくらいそうしていたのか……?

「あの、もしかして琴子さん、ですか?」

 遠慮気味に名前を呼ばれて顔を上げると、頭にタオルを巻きつけた作業服の男の人が立っていた。無造作に結ばれたタオルから見え隠れする茶髪。日に焼けた顔や腕。微笑んだ唇から覗く歯が、やけに白く見える。

「琴子さん、ですよね?」

 その人はもう一度私の名前を呼び、確認してくる。私は黙って頷いた。

「良かった! 家の人が心配されてるみたいだったんで。でも、みんな手が離せないみたいだったから、とりあえず俺が来てみたんス」

 そう言って私の目線に合わせるように、その人は私の前にしゃがみこんだ。無気力な私の顔を無遠慮に覗きこまれて、私は顔を背ける。

「俺、樹生(たつき)って言います。じいちゃんとは友だちで……」

 じいちゃん? その単語にピクリと反応する。

「……じいちゃんって、うちのおじいちゃんのことですか?」

「あ、そうです。すんません。気安くじいちゃんなんて呼んじゃって」

「あ、いえ。それは……」

 言いながら、会ったこともない人なのに。と思っていた。

「じいちゃん、とても穏やかな顔で、ほんと眠るように逝っちゃいました。苦しむ暇なんて全然なくて。やっぱいい人だったから、こういうときも静かに穏やかに逝けるようになってんだなあって」

樹生くんから語られるおじいちゃんの最後の時間(とき)。少し聞いただけなのに、さっきの母との電話よりもずっとずっと「本当」で……「本当」なんだ。おじいちゃん、本当に逝っちゃったんだ。

 ごめん。おじいちゃん。間に合わなくて、ごめん。

 私は、自分の顔が歪んでいくのを感じた。悔しくて、ただ悔しくて……私は涙をこらえながら、床を睨みつけていた。そんな私に、樹生と名乗る青年が手を差し出した。こんな知り合い、私にはいない。私は差し出された手を見つめるだけで、自分の手を出すことはなかった。

「俺、じいちゃんと約束してることがあって。付き合ってもらってもいいスか?」

 私が手を取らなかったのを気にもせず、その人は私よりも先に立ち上がり、私の荷物を持つと、駅から出ていく。後から思えば、見知らぬ人についていくなんて危険なことだ。この樹生と名乗る人は、今初めて会ったばかりで、本当におじいちゃんの知り合いなのかさえ怪しい。なのに、私はゆっくりと立ち上がると、黙って後に続いた。

「すんません。俺まだ車持ってなくて、これ会社のなんスけど」

 駅前に軽トラが一台停まっていた。荷台には、私には分からない作業用の機械が積んである。その軽トラに、樹生と名乗る青年が乗り込み、私へ手招きする。私の荷物は既に助手席へ運び込まれているようだった。私は仕方なく助手席のドアを開け、中へ乗り込む。

 運転席と助手席だけのスペースは、キレイとは言い難かった。マットは泥だらけ。CDなんてついてもいないし、この季節だというのに暖房も効かず、足もとがひんやりする。おまけに乗り心地も悪い。

「すんません。寒いでしょ?」

 樹生くんが何度も謝ってくる。

「急なことだったんですし、謝らないでください。私なら大丈夫ですから」

 私が言うと、信号待ちをしていた樹生くんが一度だけこっちを見て、また前を向く。

「琴子さんって、じいちゃんが言ってた通りの人ですね」

 その言葉の後、私たちはお互いに黙り込んだ。「すんません」が無くなったのは良かったけれど、何を話したらいいのか分からなかったし、初めてそこで樹生くんと二人だということ。私と樹生くんしかいないことに気づいた。それは樹生くんも同じようで、信号で止まると所在無げにキョロキョロしている。そうして黙り込んで、十五分くらい走っただろうか。私は、軽トラが見慣れた山道を上っていくことに気づいた。

「ここって……」

「あ、気づきました?」

運転しながら、樹生くんが嬉しそうな顔をした。そうして、山の上の駐車場につくと、先に樹生くんが車を降りて、助手席のドアを開けてくれた。

「こっちっス!」

 樹生くんは慣れている様子で、散策コースの山道をどんどん上っていく。私もその後を追いながら、低めのパンプスにしてきて正解だったと思った。ずっとずっと前にも、こうして……

「あー、やっぱまだッスね」

 そう上ることもなく、見晴らしのいい展望台に辿りつくと、樹生くんが展望台のそばの幹を見上げている。私は久しぶりに来た展望台からの眺めに息を飲んでいた。眼下には、ふるさとの景色が広がっている。

「じいちゃんに頼まれてたんスよ。琴子が帰ってきたら、ここの桜を見せてやってほしいって」

 おじいちゃん……覚えてたんだ。ここの桜のこと。

「じいちゃん、言ってました。琴子は優しい子で、桜の季節になると、車に乗せてお花見に連れて行ってくれたって。ここは、いつも琴子と来る場所なんだって」

「私……」

 言葉に詰まる。何を言っても、ただの言い訳のような気がした。

「じいちゃん、ちゃんとわかってたみたいッスよ? 琴子はこっちへ戻って、家に縛られるのが嫌なんだって。あいつはこんな古い家に縛られることなく自由に生きたいんだからって。一丁前に自立だとぬかして都会へ出て行ったけど、さびしがり屋だから心配だって、そう言ってたッス」

 おじいちゃんの顔が浮かんだ。しわしわの顔をくしゃっとさせて笑う顔……

「面倒だったの。私、一人っ子だし。家を継ぐことが当然みたいに言われて育って、それを当たり前のように受け入れるのが嫌だったの。だから……」

 樹生くんが、私にまた手招きをしてくる。

「琴子さん、こっちきてみて?」

 私は言われた通りに、樹生くんのそば。桜の幹へ近寄った。

「ここへね、耳をあててみて。こういうふうに」

樹生くんが桜の幹に耳を寄せる。私はいつになく素直に樹生くんの真似をして、同じ幹に耳を寄せた。

「静かに。黙って。目を瞑ってみて?」

 すぐそばにある樹生くんの顔。目を瞑る樹生くんの整った眉と、長い睫にドキリとしながらも、私は言われた通りに目を瞑る。二人だけの時間が静かに過ぎていく。小鳥の声、ひゅるると吹き抜ける風の音、風でしなる葉っぱの音、そして……さわさわと水が流れるような、優しい音が聞こえる。

 しばらくその音を聞き、そっと目を開けると、すぐそばの樹生くんと目が合った。

「じいちゃんが、この音を琴子に聞かせてほしいって。で、じいちゃんの命は、確かに琴子に受け継がれてるって、そう伝えてほしいって」

 そこで初めて私の目に涙が浮かび、それらは止まることを知らず、次々にこぼれ落ちていく。声を抑えようと思うのに、嗚咽が口から遠慮なく飛び出し、それはもう自分ではどうしようもない叫びとなって、私は大声をあげて泣いた。こうやって泣くのは、ここを飛び出して以来かもしれない。大泣きする私を、遠慮気味な腕が包んでくれた。そっと。壊れものでも扱うかのような優しさで。

「俺、庭師なんスよ。っていっても、まだまだ駆け出しで、大将には怒られてばっかりなんスけど、一年くらい前に、琴子さんの実家の庭で仕事したんスよ。そんときに俺、縁側でひなたぼっこしてるじいちゃんと話して、それからなんとなく仕事以外でも遊びに行ったりしてて。そのたびに琴子さんの話、ほんとたくさん聞かされました。じいちゃん、琴子さんのことめちゃくちゃ可愛かったみたいッス」

 私よりずっと背が高い樹生くんの声が、私の上から降ってくる。……知ってる。知ってるよ。おじいちゃんが私のことを本当にかわいがってくれてたのは、私自身が一番よく知ってる。一度落ち着きかけた嗚咽が、また我慢できずに大きくなっていく。

「あ、すんません。また泣かせちゃった……」

 樹生くんが困っている。私よりきっと年下なのに。そんな年下の子に、こんな醜態を見せるなんて。

泣きやめ、私! 泣き止むのよ!

そう思うのに、今まで我慢しすぎていた涙の堤防が決壊したようだった。と、樹生くんが「あっ!」と声を上げ、ずっとずっと上の方を見上げている。私も泣きじゃくりながら、樹生くんの視線を追って顔を上げた。

「あ……」

 私と樹生くんの視線の先に、一輪だけ開いた桜の花が見える。まわりの桜はまだ蕾だというのに、その一輪だけはしっかりと花開いていた。

「じいちゃん、すげえなぁ。ちゃんと約束果たすんだから」

 樹生くんがそう言って微笑む。私は樹生くんに抱きしめられたまま、その言葉を聞いた。

「約束?」

「自分はもう琴子と一緒に見ることは叶わないから、これからこの桜は、樹生、お前が琴子と一緒に見てやってくれって」

「え? それってどういう……」

 言いかける私の唇に、樹生くんの唇がそっと触れた。見つめ合う私たち。懐かしい匂いは、樹生くんがここで生きてきた証。このふるさとの匂い……

「樹生くんの匂い、おじいちゃんと似てる」

 ぼそっと言うと、樹生くんはちょっと嫌そうな顔をした。

「この状況で、これから盛り上ろうってときに、そんなこと言うんスか……?」

樹生くんは私を抱きしめる腕に力を入れながら、ムキになって言う。

「じいちゃんの匂いと似てるって、それって、ジジ臭いってことですか? どこが? どのへんが?」

樹生くんの必死さがおかしくて、さっきまでの涙がウソのように、私は思わず笑ってしまう。

「どのへんも何も、樹生くんの全部?」

 言葉が足りないことを感じつつも、本当に全部が樹生くんの匂いはおじいちゃんの匂いでもあり、ここで生きてきた匂いなのだ。

「じいちゃんが言ってた通りッスね。琴子さんって結構意地悪なとこがある」

「どういう意味?」

 思わず声を荒げると、樹生くんは見透かしているように、ふふん! と笑った。

「続きがあるんス。いつも強気でいるけど、本当は誰よりも傷つきやすくて、繊細な心の持ち主なんだって。だから、お前に託していくんだって。だから……だから、これも「ごえん」だと思って、俺と人生始めてみませんか? 俺、じいちゃんからほんとたくさん琴子さんの話聞いて、こうやって今日初めて会ったのに全然初めてって感じがしてないんスよ。駅で琴子さんを見たとき、迷わず琴子さんだなって思ったんスよ? 琴子さんが顔を上げたとき、不意に俺、琴子さんのことずっと待ってたんだなぁって思えて。これも、じいちゃんの作戦だったんスかね」

 樹生くんは、私を見ないように、でもしっかりと抱きしめたまま、ずっと上に咲いている一輪の桜を見ながら話している。

……耳が赤いのは気のせいではないよね? 私、素直になってもいいのかな? 初めて会った上に、こんなチャラそうな彼に、甘えてしまってもいいのかな? 気持ちの中に迷いはあった。でも、おじいちゃんが、私とおじいちゃんの秘密の場所を話してでも、私と「縁」を繋ぎたかった人。

 桜もだけど、こんなサプライズまで準備して逝っちゃうなんて、おじいちゃんってなんて用意周到なんだろう?

 おじいちゃんが「琴子のことはいつも見守ってるよ」と言っていたのを思い出した。逝ってしまったはずなのに、すぐそばにいてくれるのを感じるよ。おじいちゃん。

私がふふっとほほ笑むと、樹生くんが不思議そうに顔を覗き込み、私たちは微笑んでまたキスを交わした。

おじいちゃんとの「ごえん」で繋がり出会ったちょっと生意気な彼。そして、自分を見つめられず肩肘張って生きてきた、本当はへなちょこの私。悲しいはずのおじいちゃんの命日が、私と彼との恋のハジマリの日。






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